「もしも時間を戻せたら(1)」



 ドアチャイムが鳴った。

 ビジネスにせよプライベートにせよ、アポも取らずに訪問してくる客にろくな輩はいないというのが、僕の見解だった。加えてこんな夜更けにアパートのチャイムを鳴らすようなのは、まともな人間じゃない。十中八九、酔っぱらいか、悪戯者の仕業だ。だから当然、一回目は無視した。
 数分ほどして、二回目が鳴った。熱心なことだ。けれど付き合う義理はない。僕はパソコンデスクの前から動かない。

 雷鳴が響いた。窓を叩く雨音が激しさを増した。僕は回転椅子に掛けたまま、振り帰ってテレビを点けた。大規模な台風九号は、今なお発達を続けながら本州を北上中だと、はきはきした声のニュースキャスターが言った。零時過ぎのことだった。座りっぱなしで凝り固まった背筋を伸ばし、シャワーでも浴びようかと立ち上がったところで、三度目のチャイムが僕の耳に届いた。

 こんな嵐の日に訪ねてくる人間に、心当たりはない。まして時間が時間だ。九分九厘、ろくな奴じゃない。出ない方がいい。僕の理性はそう告げていた。
 しかし風呂場へ向かうと、嫌でも玄関扉が目に入る。ひとたび目に付くと、確かめずにはいられなかった。好奇心に駆られて、僕はドアスコープを覗いた。誰の姿もなかった。念のため、チェーンロックを掛けたまま、恐る恐る外を確かめた。雨ざらしになった外廊下の壁際に、人の影があった。

 鼻筋の通った美青年だった。一瞬、誰かが悪戯で、憂う天使の彫像を玄関先に置いていったのかと錯覚した。知り合いに似た顔立ちだったので、おそるおそる呼びかけると、美しい顔が、ゆっくりと僕の方を向いた。

「いるなら、もうちょっと早く開けてほしかったな。……寒いよ」

 いつからそこにいたのか、彼の顔は吹きさらした雨に濡れ、衣服は明らかに水を吸っていた。唖然として立ち尽くす僕に、彼は微笑んだ。そして、気取った手つきで髪をかきあげた。外灯の薄明りを受けて彼の耳たぶのピアスが光り、濡れそぼってうねった髪から、続けざまに水滴が落ちた。

「どうしたの、シンヤ。……ああ、もしかして、雨に濡れたボクが美しすぎて、声も出ない?」
「はあ!? 何言ってんの!? 馬鹿じゃないの!?」

 僕は急いでチェーンロックを外し、彼を扉の内に引っ張り込んだ。――掴んだ手首は、人間のそれとは思えないほど冷え切っていた。

   *



 西宮昴(にしのみや すばる)、もとい、菊池サミュエルは、僕の高校時代の同級生だ。

 少年時代の菊池は、多少批判的な思考をするきらいのある僕の目から見ても、好感の持てる人間だった。人当たりよく、先生からも生徒からも信望厚い、文武両道の優等生だった。日本人離れした美貌も相まってか、半ば宗教(カルト)染みた人気があった。

 まだ彼が少女のような声と背丈だった頃、クラスでもとりわけ背が高く、声変わりも済んでいた僕とはよく対比された。そしてその度に、天使と獄卒とか、薔薇と竿竹とか、いわれのない誹謗中傷を受けたものだった。――いくら可愛いと言ったって、所詮は男だろうに。ばかばかしい。熱狂する男女たちに背を向けて、僕は部活動に健全なる肉体と精神を、ひいては青春を捧げることにした。

 ところが、台本を書きたいがために演劇部へ入部届を出したら、彼もまた同じ部への入部を希望した。部室は彼とその取り巻き連中のたまり場となり、彼目当ての女子が押しかけない日はなかった。

 僕の理想とはかけはなれた騒々しい青春だったけれど、二年次の総文祭で全国に行けたことが唯一の救いだ。あいにく結果を残すことは出来なかったけれど、菊池はその時の取材映像が業界の関係者の目に留まり、芸能界デビュー。突如として脚光を浴びたシンデレラボーイのことは、瞬く間に地域住民の噂に上ったが、僕自身にさほどの驚きはなく、彼のカリスマが本来あるべきところに収まったように思えた。

 モデル業のために慌ただしく下校するようになった彼と同じく、僕も受験勉強で忙しくなり、会話は自然と減っていった。大学に上がってからは、ほとんど連絡を取ることもなくなった。そして時は流れ、僕は新人賞に引っかかって売れない劇作家になった。奇跡的に新興小劇団にお呼びがかかり、座付き作家兼俳優として細々と食いつないでいた。五年越しに菊池と再び顔を合わせたのは、その劇団の歓迎会でのことだった。

 とどのつまり、元同級生が、今は同僚ということだ。付き合いで他の関係者も交えて一緒に飲みに行くことはあるし、泥酔した彼を介抱するために、家へ連れてきたことも確かにある。とはいえ、こんな嵐の夜に突然訪ねて来られるほど、フランクな間柄でもない。

「服、外に置いとくから」

 水音に負けない程度の声量で扉越しにそう言うと、僕は居間へ戻って、電気ケトルに水を入れた。机の上のデジタル時計は、零時十三分を示していた。

 なんだって彼は、よりにもよってこんな夜更けに、濡れねずみになってまで僕を訪ねてきたのやら。もちろん、全く心配していないと言えば嘘になる。ただ、僕は彼を部屋に上げてしまったことを、少なからず後悔していた。そんなことを考えてしまう原因は、おそらくは僕が菊池に対してずっと抱いていたわだかまりや、不信感と呼ぶほどでもないある種の疑い――――深夜のアポなし訪問者は百パーセントろくでもない奴だという僕の経験論に帰着する。

 しかし、あんな状態の彼を、拾わないわけにはいかなかった。もし僕が扉を開けて外を確かめなければ、彼はずっと風雨にさらされて、ややもすれば倒れていたかもしれない。実際、ああするよりほかになかっただろう。
 そして一度拾ってしまったものを、また放り出すわけにもいかない。外は酷い天気だし、時間が時間だ。

 今日だけ。そう、今日だけの辛抱だ。

 どうせ今夜も、眠れるかどうか定かではない。寝床を貸したところで、さしたる弊害はないはずだ。無理やりにそう結論付け、自分を納得させると、僕は大の男が二、三人入ってもさほど窮屈でない部屋を簡単に片づけて、修正途中の台本に再び手を付けた。

   *



 ケトルのお湯が沸いたのと同じ頃、菊池が風呂から上がったらしい。タオルで髪を拭きながら部屋に入ってきた。

「シンヤ、ありがとう。お風呂とか、服とか」
「ああ」

 菊池の背丈は僕と大体同じくらいだったので、濡れた服の代わりに、僕の服を提供した。少しばかり裾が余っていたが、許容範囲だろう。

「別にいいよ。そのくらい」

 彼にマグカップの片方を渡すと、僕も一口、コーヒーを啜った。

「てかさあ、電話しなよ。携帯あるでしょ」
「壊れちゃったんだよ。ほら、見て。真っ黒。色々試したけど、何しても動かないんだ」

 菊池は、液晶の砕けたスマートフォンを僕に見せた。

「もうどうしようもないね。ショップ行かなきゃ」
「一応聞くけど、財布は?」
「あるよ」
「……ふーん」

 彼の見せた長財布――ブランド品にさほど興味のない僕でも知っているような高級ブランドのロゴが入っていた――を、僕は横目で確かめた。
 マグカップが空になる頃には、体は随分暖まったらしい。血の気が引いて彫刻めいていた顔には、多少の人間味が戻っていた。
 風鳴りとともに窓が揺れた。ガラス越しにも、激しい雨音が聞こえる。大型クッションに抱きつきながら、菊池が言った。

「泊めて貰っていい?」
「そりゃあ、構わないけどさ」

 時計を一瞥する。一時を回っていた。

「君、どうしてうちに来たの。よりにもよってこんな日に」
「迷惑だった?」
「じゃ、ないけどさ。この雨だし、時間が時間だろう? ひょっとして寝てるかも知れない僕のとこなんかに来るより、近くのネカフェだかファミレスだかに 、適当に入ってやり過ごした方が良かったんじゃないの。財布持ってたならさ」

 菊池はクッションに顔を埋めた。

「ま、話したくないなら、別にいいけどね」

 一分ほど待っても彼が口を利かなかったので、僕は立ち上がって、PCデスクの方に歩いて行った。マウスを動かし、データを一旦、上書き保存。

「ベッド使ってもいいよ。君が嫌じゃなかったら」
「シンヤは?」
「適当に寝るさ。朝までに片付けばね」

 座長にして演出家の道明寺天心(どみょうじ てんしん)に手痛い駄目だしを食らった台本の、再提出期限は明日までだ。

 手直し自体は構わない。ただ彼の指示通りに修正するとなると、ほとんど全部書き直しになってしまう。そもそも、彼に見せた第一稿すら徹夜の連続でようやっと仕上げたのだ。せめてもう少し待ってほしいと僕は伝えた。それに対する返しがこうだ。

「なぁに。僕は君の台本が永久に仕上がらなくても別に困りはしないのだ。他の人に頼むだけのことだからね」

 ……保存が完了した。ノートパソコンを畳んで、電源ケーブルと一緒に小脇に抱えた。
 冷蔵庫から買い置きの栄養剤を取り出して、金蓋を回す。炭酸で喉を刺激して、少し眠気を和らげると、僕はソファに陣を構えた。

   *****


【NEXT】