「もしも時間を戻せたら(2)」



 カーテンを開けると、晴れやかな日差しが部屋を照らした。菊池の姿は、いつの間にやら消えていた。

 彼の痕跡は、コーヒーでも飲もうかと台所へ向かった時、ソファの片隅に見つかった。メモ書きには、おそらく菊池の字で、一宿の礼と、出ていくから鍵は閉めておいてほしいとの内容が書かれていた。帰るなら声を掛けてくれればよかったのにと思ったが、もしかしたら僕が気付かなかっただけかもしれない。物事に没頭すると周りが見えなくなるのは、昔から度々あることだ。――あまり自覚はないけれど。

 玄関の鍵を閉めて、濃い目に入れたコーヒーで一服。改めて推敲した後、修正版のデータを座長に送った。OKを頂戴すると、過度の緊張から解放された安堵感から、どっと眠気が押し寄せた。数歩向こうのベッドまで移動することさえ億劫だった。僕はそのままソファで、泥のように眠った。

 目の覚めたのは夕方だった。僕を眠りから引きずり上げたのはドアチャイムの音だった。アポなしだ。訪ね人の心当たりはなかったので、僕は居留守を決め込んだ。ベッドでもうひと眠りしようと布団を被ると、訪問者はインターホンの連打を始めた。

 ドアスコープ越しに犯人を確かめると、僕は鍵を開けた。

「迷惑なんですけど」
「ごめんごめん」
「どうしたの。忘れ物?」
「そういうわけじゃないんだ」

 にっこり笑った菊池は、ボストンバッグを肩に引っ掛けていた。まるで今からどこかに泊まりに行くかのような出で立ち。まさかとは思いながらも、僕は彼に尋ねた。

「じゃあ、何の用」
「と・め・て?」

 予想的中。上がり込もうとする菊池の腕を掴んで、僕は言った。

「理由を言って」
「キミの部屋、華がなかったからさ。ボクが存在することで精彩を加えてあげようと思って」
「さよなら」
「あー待って待って待って待って……待って!」

 扉に手を挟まれ、閉めかけた扉を再び開く。菊池が伏し目がちに呟いた。

「他に、あてがないんだ。…………頼むよ」

   *



「例の携帯、ショップに持ってったんだけどね。なんか、再起不能みたいでさ。アドレス、みーんな消えちゃったんだ。もう最悪だよ」

 そう愚痴りながら、菊池は新しくなったスマートフォンを僕に見せた。

「すぐ連絡取れそうなの、キミだけだったんだ」
「ふーん……」

 劇団関係者の連絡先を赤外線で送った後、僕は彼のボストンバッグに再び目を向けた。

「で? そんなの持って歩いてるってことは、君、家には帰ったんだよね? なのにどうしてわざわざ僕のところに泊まりに来るの? まさか台風で家が崩れてたなんてことはないだろう?」

 菊池は目を伏せた。数秒の逡巡の後、彼は口を開いた。

「実はね。サクヤと喧嘩したんだよ」

 サクヤと言われてまず頭に浮かんだのは、宮川咲也だった。

 宮川咲也は、劇団員の一人だ。一言でいうならイマドキの若者。大学生と二足のわらじだが、随分要領よくやっているらしく、学業問題で嘆いているのは見たことがない。風貌と態度は軽薄だが、芝居に関しては存外に堅実で、人は見かけによらないと実感したのを覚えている。ただ、その宮川と喧嘩をしたことと、僕の家に泊まりに来ることが繋がらない。怪訝に思っていると、菊池が言葉を足した。

「――ボク、彼とルームシェアしてるから」

 言われてみれば、以前、宮川がそんなことをこぼしていたような気がする。――いや、違う。聞いたのは七瀬からだ。物静かな七瀬が妙に鼻息を荒くして、そんなことを喋っていた。

「ええと。つまり、君は同居人と喧嘩して、居辛くなって家出してきたってわけ?」
「まあ、そんな感じかな」

 僕はため息をついた。

「あのね、菊池。子供じゃないんだから……」
「だって、しょうがないじゃん。こっちが歩み寄ろうにも、サクヤが話聞いてくれないんだもん。ガン無視だもん」
「宮川って、そんなに怒る奴なの?」
「沸点低いよ、彼。家の鍵も勝手に変えちゃうんだからさ」

 菊池は肩を竦めた。

「だからね、シンヤ。ボク、困ってるんだ。他のトモダチに泊めて貰おうにも、ケータイ潰れたせいで番号わかんなくなっちゃったし、ホテルは高いし。新しく部屋探すにしたって、そう上手く見つかるとも限らないし、そもそも保証人になってくれそうな人にも連絡つかないし」

 理解は出来たが、やはり共感はできない。沈黙を守っていると、菊池の表情が曇っていった。

「やっぱり、だめ……かな?」

 捨てられた子犬のような眼差しから逃れるように、僕は目を逸らした。スマートフォンに新しい通知が来ていた。スワイプして目を走らせると、台風十号接近中の文字が見えた。予報の精度を知らしめるかのように、雨粒がガラスを叩き始めた。

「……今日だけだよ」
「ありがとー! シンヤならそう言ってくれると思ってたよ! やっぱり持つべきものは友達だね!」

 菊池は両腕を広げて、僕に飛びついてきた。抱きつかれた拍子に、彼の香水だかシャンプーだかの香りが鼻腔を満たした。ハーブのように爽やかだけれど、ほのかに甘さを感じる複雑な香り。嗅ぎなれない香りだったけれど、嫌な感じはしなかった。

    *



 大人になった今でも、菊池は男とか、女とか、そういう次元を超えているのではないかと思ってしまうことが、時々ある。ややもすると、生身の人間という枠すら超越している。俗物とは全く無縁で、聖別された清涼な空気すらまとっているようにも見える。口を利かずに美術館のギャラリーに座っていたら、誰一人として疑うことなく鑑賞料を支払うだろう。

 そんな芸術品のような青年が歩き回っていると、慣れ親しんでいるはずの自室が妙に居心地悪く感じた。いたたまれなさと、また衛生上の必要性から、僕は飾り棚にはたきを掛けることに決めた。しかしその試みは、数分ともたなかった。部屋を見渡して無理やり仕事を探すと、製作国も監督もジャンルもごちゃごちゃに並んだDVDの棚が目についた。前々からやろうやろうと思っていながら、とうとう出来ずにいたDVDの整頓は、良い時間つぶしになった。

 何が面白いのか、菊池は僕の手元を覗き込んで微笑していた。彼がそばへ寄れば寄るほど、あの不思議と魅力的な香りが強まった。

「菊池ってさ。香水か、何かつけてる?」
「うん。苦手だった?」
「そういうわけじゃないけど。何の匂いだろうと思って」

 菊池はボストンバッグから小さな瓶を引っ張り出して、その裏面を確かめた。

「何も書いてない。わかんないや」
「ちょっと見せて貰っていい?」
「どうぞ」

 手渡されたボトルの表に印字された文字は、財布と同じ高級ブランドの屋号。モデル業はそんなに儲かるものなのだろうか。――――それとも、プレゼントか何かか。

 裏は原産国と会社の所在地が書いてあるだけで、原材料は全くわからなかった。僕は香水瓶を彼に返した。

「シンヤはつけないの? こういうの」
「考えたこともないね」

 そんなことを喋っているうちに、棚の整理も終わってしまった。他を探したけれど、昨日あらかた片付けてしまったから、散らかっているところはもう見当たらなかった。それよりも、小腹が空いてきた。冷蔵庫を漁っていると、菊池が肩に顎を乗せてきた。

「何か手伝う?」
「いいよ。くつろいでて。その辺の雑誌とか読んでもいいし……」
「昨日一通り読んじゃったよ」
「……じゃあ、映画でも見てなよ」

 僕は彼にDVDプレイヤーのリモコンを渡して、台所へ戻った。

   *



 冷蔵庫の中を隅から隅まで三回眺めた後、マカロニチーズを作ることに決めた。マカロニの袋の封を切ったところで、菊池が声を投げてきた。

「ねえ、シンヤぁ。どれがオススメ?」
「どういうのが好きなの?」
「ドキドキするやつ」
「…………サスペンスとか?」
「まあ、それでもいいけどさ」

 僕は探し勝手のよくなった棚から、洋画サスペンスの三部作の最初の一本を抜いて彼に渡した。

「有名なやつだから、見たことあるかもしれないけど」
「ううん。……どんな話?」
「幼馴染を悲劇の運命から救うために、主人公が過去のある時点に戻って色々頑張る話」
「ふーん……」

 菊池はケースを開いた。彼はディスク片手に、テレビボードの下を覗き込んだ。

「これ、どこから入れるんだっけ?」
「貸して」

 彼の手からディスクを取って、DVDプレイヤーの差込口に入れた。やがて字幕付きの英文が表示されたのを確かめると、僕は調理を再開した。

 完成品は悪くない味だった。「君も食べる?」と尋ねると、何拍か置いて「あとで」と返ってきた。
 僕はソファの横にデスクチェアを引っ張ってきて、そこに腰を落ち着けた。

 長いまつ毛のかかった瞳には、主人公が二回目のタイムリープをする場面が映っていた。釘付けとは、こういう状態のことを言うのだろう。あまりに熱心に見てくれているので、僕はこの映画の何もかもを暴露したい気持ちを抑えて、チーズソースをたっぷり絡ませたマカロニを、口の中に放り込んだ。

 幾度となく再生したDVDなのに、何気なく眺めているうちに、いつしか僕も見入っていた。気付けばスタッフロールが流れていた。繰り返し観賞してもなお感動の薄れないものは文句なしに傑作だと思う。映画の余韻に浸っていると、横から肩をつつかれた。

「ねえ。ねえ、シンヤ。まさか、これで終わり?」
「終わりだよ」
「嘘だろ?」
「ほんと」

 再生の終わってしまったDVDをプレイヤーから抜いた。ケースを戻しに棚へ行くと、菊池もその後をついてきた。

「納得できないよ」
「僕に言われてもね」

 元の場所にケースを戻すと、同じタイトルが綺麗に三つ並んだ。それを見た菊池が、嬉しそうに目を輝かせた。

「続きあるんだ?」
「ああ、出てるね。でもさっきの話はあれでおしまいだよ。続編は同じ題材を使った別のストーリー」

 彼が手に取った続編の裏面には、確かドライブに出かけて事故に遭った主人公が時間をさかのぼって云々、といった風なあらすじが書かれているはずだった。彼はソファにケースを投げ出した。

「なんだよもう! ああ、後味悪い!」

 彼はベッドに倒れ込んで足をバタバタ動かした。僕は彼の投げ出したDVDを拾って、定位置に戻した。

「そう?」
「そうだよ。あんなに頑張ったのに報われないなんて、あんまりだよ」

 菊池は手繰り寄せた枕に、頬を乗せた。

「大体、作り話なんだからさ。みんな幸せ大団円、めでたしめでたしで終わらせればいいのにさ。なんでわざわざさあ……」
「ハッピーエンドじゃないか。誰も破滅しないんだから」

 返答はなかったけれど、僕は続けた。

「あの話はさ。主人公の存在自体が悲劇のトリガーなんだよ。本来は正しく噛みあうはずだった歯車を、彼が狂わせたんだ。彼が誰かのために行動すると、ただでさえ狂っていた歯車が、ますます狂ってしまう。その狂いは、やがて登場人物たちの身の上に破滅という形で現れる。つまりブラジルでの蝶の羽ばたきが、テキサスでの大竜巻になってしまうんだ」

 菊池は相変わらず枕に埋まっている。

「そりゃあ、君の望むようなベストエンドじゃなかったかもしれないけど? もっと悪い展開になることは回避できたんだから、御の字なんじゃないの」
「…………他人の幸せのために身を引くなんて、ばかのすることだよ。それで好きな人が他の奴に取られちゃったら意味ないのに」

 彼の右足で叩かれたベッドが、ばすんと悲鳴を上げた。

「そうかな。僕は有りだと思うけどね。そういうアガペ的な愛の形も。……それに、作り話ならでの趣向だよ。時間をさかのぼるなんてのはさ」

 僕はキャスターを転がして、椅子をベッドの前へ持って行き、背もたれに胸を預けて座った。菊池が身をよじって、体ごとこちらを向いた。話を聞く意思が大いにあるのだと思うと、僕の口元は自然とほころんだ。

「だってそうだろう? 過去に戻ってやり直すなんて、現実には不可能なんだから。タイムリープ、タイムループ、タイムトラベル、タイムスリップ、タイムパラドックス。こうしたものはSFの範疇だよ」

 そして僕は語り始めた。さっき話しそびれた映画の裏話も交えながら、何時間かけても語り尽くすことのできない、偉大な宇宙と科学の世界を。

 ……しかし、僕がSF談義を始めて早々に、菊池は寝こけてしまった。消化不良を感じたけれど、話す相手がいないのに蘊蓄(うんちく)を語っても仕方がない。仕方なく僕も眠ることにしたのだが、ベッドでは菊池がすやすや寝息を立てている。僕はまた寝心地の悪いソファで眠る羽目になった。

  *****

【NEXT】