「もしも時間を戻せたら(3)」



 ソファは寝具の代用品たりえないのだということを、僕は身をもって理解した。眠る前よりもかえって疲れているような気さえする。仮眠の目的でわざと床で寝る時とは、また別の疲労感だった。

 飛び出したあくびを手のひらで隠しながら、雨島ビルの扉を開けた。

 廊下を歩いていると、中折れ帽の男が車椅子を押しているのが見えた。追い抜きざまに顔を見ると、星崎蝶二(ほしざき ちょうじ)だった。青い丸眼鏡のよく似合う、小柄な紳士だ。車椅子に座っている方は、やはり座長の道明寺天心。挨拶すると、彼は黄色い丸眼鏡の奥に、朗らかな笑みを浮かべた。

「やあ、伏見君。昨日はご苦労だったね」
「いいえ、全然」
「しかし顔色が悪いよ。それにひどい隈だ。よく眠れていないんじゃないかい?」
「……ちょっと、私事で」

 上向きの三角ボタンを押してほどなく、エレベーターの扉が開いた。座長と星崎さんとが乗ると一杯一杯になってしまったので、僕は脇の階段を使おうとした。しかし星崎さんに手招きされたので、僕は仕方なく、車輪と壁の隙間に体を潜り込ませた。
 ふと、座長が鼻を動かした。

「何か良い匂いがする」
「今朝はつけていないはずだけど」
「ちがう。君の好きな、殺人的に甘ったるいヤツじゃない」

 二対の目玉が僕を向いた。心当たりは、ないでもなかった。

「多分、バスで一緒になった女性のが移ったんでしょう。強烈過ぎて、窒息するかと思いました」

 思い出すと眉間に皺が寄った。まさしく香害だった。下手をするとセクハラも入っていたかもしれなかった。ため息は、エレベーターの到着音にかき消された。

 ロの字に長机の並んだ会議室に、舞台監督の姿はまだなかった。時間に正確な人だから、おそらく五分前には来るだろう。

 暇つぶしに座長は新聞を広げ、星崎さんはスマートフォンを眺め始めた。しかし会話は途絶えることなく、時々は僕も二人のお喋りに巻き込まれた。やがて話の種は、文化面に掲載されていた文化財汚損の話題になった。

「まったく酷いことをする人もいるものだね」

 そう言って座長は最初、左隣に目を向けた。星崎さんがスマートフォンに夢中で返事をする気がないと見るや、今度は反対側に首を振った。

「ねえ、伏見君」
「そうですね。馬鹿のやることです」
「おや。君もなかなか言うねえ!」
「事実です。失われたものは二度と復元できませんし、修復しても、元の形には戻せない。そうでなくても、守らなければやがて失われてしまうような貴重な文化遺産を自ら壊すなんて、愚の骨頂ですよ」
「一種の自然淘汰かもしれないよ」

 星崎さんが口を開いた。しかし意識はまだスマートフォンに向いているらしく、目は液晶に釘付けだった。

「どの道、形あるものは遅かれ早かれ滅びる定めだ。滅びる運命にあるものを滅ばぬようにするのはエゴに過ぎんさ」
「ほぉーう……」

 座長は顎をさすり、車椅子にふんぞり返った。

「いやに犯人の肩を持つじゃないか。もしかして君なのかい? 桐風院(とうふういん)で悪戯したのは」
「馬鹿言っちゃいけない。文化人の私が、そんなことをするものかね」
「炊飯ジャーに食紅を放り込むような『文化人』ならやりかねないね」
「いやいやいやいや……」

 星崎さんはスマートフォンを机に置き、座長に向き直った。

「それはそれ。視覚的にも楽しめる素敵な食事を作って、ささやかな日常的幸福を味わわせてやろうという、兄の心遣いじゃないか」
「視覚的『にも』? 『にも』と言ったな、君は今」

 黄色い眼鏡が僕の方を向いた。

「なあ知ってるかい、伏見君。黄色四号の味を」
「いいえ」
「無味だよ! 食紅は無味無臭なんだ! 味覚に何も働きかけはしないんだ! もちろん嗅覚にも聴覚にも触覚にもだ! ただモノの色を――ごはんを真っ黄色に変えるだけなんだよ! 完全にサフランライスだと認識して口に入れたのに、実際はただの白飯だった時の、あの何ともいえない物悲しさが君にわかるかい!?」

 新聞紙を丸めて何度も机をたたいた後、彼はその先端を僕の方に向けた。痛めつけられた紙は数秒ともたずに、へにゃりと折れて俯いた。

「サフランって確か香草でしたよね。においでわからなかったんですか?」
「それが、不思議なものでねえ。僕は実際にその黄色四号ライスを口に入れるまで、ほのかにサフランの香りを感じていたんだよ。まあ、それは単なる思い込みだったんだけどね」

 座長は深々とため息をついた。

「覚えておきたまえ、伏見君。人間の想像力というのは、どうして侮れない。そしてその想像力を逆手にとって悪さをする者も、世の中にはいるんだ。たとえば君のはす向かいの辺りにね」
「はてさて、誰のことだろう? ところで伏見君。人間がものを知覚する時、もっとも頼りにしている感覚は視覚だそうだよ。割合にして実に八割だ。つまり何かを認識した時、君の頭にインプットされる内容は、八割がた、色や形状などに関する見た目の情報ということさ。音やにおい、触感や味といった残りの二割の細々としたデータは、視覚情報を補足するに過ぎない。人間というのはね、どうしても自分の目で見たものを信じたくなってしまう生き物なんだ。だからちょっと視覚に小細工をされただけで、簡単に騙されてしまうんだよ……」

 星崎さんは時計を一瞥すると、「そろそろかな」と呟いて、会議室の出口へ向かった。ドアノブに手を掛けたまま、星崎さんは振り向いた。

「じゃあ、兄弟。私は目の保養に行ってくるから。終わったら電話して……」
「僕の目の前で置き去りにされてるこいつにかい?」
「おっと、そうだった。今、連れていくよ」

 彼はドアノブから手を放した。そして踵を返したまさにその時、内開きの扉が開き、彼の後頭部を痛打した。
 その場でうずくまる星崎さんに二度、三度と追撃を掛け、無理やり作ったドアの隙間から、敷島(しきしま)さんが顔を出した。

「なんだ、青いのか。ドアの前に突っ立ってんじゃねえよ。邪魔くせえ」
「……少し早いんじゃないかい。敷島君」
「キッチリ五分前だぜ。時報聞いてみろや」

 星崎さんの横をつかつかと通り過ぎて、敷島さんは僕の向かい側に腰を落ち着けた。
 当たり所が悪かったのか、星崎さんはまだうずくまっている。さすがに少し心配になってきたので、立ち上がって様子を見に行こうとすると、耳なじみの良いやさしい声で座長が言った。

「放っておきたまえ、伏見君。頭を打った拍子に真人間になったかもしれない」
「君たち、私に対して、ちょっとばかり、情が薄すぎやしないかい?」
「天罰だよ!」

   *



 よろめきながらも星崎さんが部屋を出ていくと、真面目な話が始まった。

 舞台をつくるうえで話し合うべきことは山ほどあるけれど、僕にとっての最大の懸念は、キャスティングだった。
 座長が僕の台本にケチをつけたのも、元をただせばそれが原因だ。劇団の花形、つまり西宮か枚方が出演しなければチケットが捌けないわけだが、では一体どちらを起用するかという問題である。

 察するに座長は西宮昴を――菊池を重用したいらしい。一方の僕はといえば、枚方潤(ひらかた じゅん)を推していた。菊池ほどではないにせよ、華のある美男子で、彼より芝居が巧いからだ。そこで間を取って、どちらが演じても大差ないような、当たり障りのない二枚目で台本を書いたところ、「つまらない」と座長に一蹴されたというわけだ。
 世間話がてらに一通りのいきさつを聞くと、敷島さんは首をポキポキ鳴らした。

「そんなもん、オーディションでもやって決めりゃいいのによ」
「二人ともプライドが高いから、目に見える形で優劣をつけた日には血を見るよ。だから伏見君に決めてもらったんだ。ほら、彼なら万が一夜道で刺されそうになっても、武器を奪い取って逆に刺し返しそうだろう?」

 僕は無言で肩をすくめて、抗議の代わりとした。
 嵐の晩に仕上げた第二稿では、主人公の親友役は、気風の良い純情な青年になっている。イメージしたのは枚方だというと、座長は目をみはった。

「西宮君じゃないのかい? てっきり僕は『Dの鏡像』のルイ君のような方向性で考えていたんだけど」
「……あれは、学生演劇ですし」
「でも楽しめたよ。僕だけじゃない。日頃お芝居なんて見ない愚兄だってかぶりついて見ていたし、敷島君に見せた時はもっとすごかった。ハンカチを握りしめ、幕が下りる時には涙また涙で……」
「おい。オレはそこまでやってねえぞ。過去を捏造すんな」

 座長は快活に笑った後、お茶で喉を潤した。

「冗談はさておき、西宮君でも面白くなりそうだと思うけどね。彼の雰囲気に合っているし、何より彼には、二枚目になくてはならない色気がある」
「その点については、否定、しませんけど……」

 ――確かに、菊池は美しい。洗練された容貌と身のこなしで否応なしに視線を集め、観る者を酔わせる魔力がある。だがそれは、個として見た時の話だ。
 彼は気配の消し方を知らない。ただでさえ華がありすぎるのに、一歩も引こうとしない。はじめから彼を中心に置いて、その他大勢を添え物にするならまだしも、個性的な役者連中が一丸となって回すような物語に無策で放り込んだら、歯車を狂わせてしまう。
 全体の調和を第一義として考えるならば、菊池より、器用な枚方の方が向いている……はずだ。

「僕は、枚方の方が、きっと良い芝居を作ってくれると思います」

 ――建前だ。胸の奥で、批判家が呟いた。本当のところは――。僕は批判家が継ごうとした台詞の上に、洋墨(インク)をぶちまけた。一旦は静かになった。が、黒い溜まりの下から、諦め悪く文字が這いだした。――とても耐えられない。僕は洋墨瓶をひっくり返した。胸中は黒に満たされ、僕の精神は安寧と静寂を取り戻した。

 目を開くと、黄色い眼鏡が僕を見ていた。心を見透かすかのような、澄み切った眼差しが居心地悪い。座長は小さくため息をついて、今回は枚方君でいこう、と言った。敷島さんも頷き、打ち合わせは終わった。

   *

 

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