「もしも時間を戻せたら(4)」

10

 会議室を出て階段を使っていると、ふと、誰かの怒鳴る声が聞こえてきた。聞くとはなしに聞いたところ、口論というより、一方が感情的に突っかかっているらしい。
 気にならないではなかったけれど、わざわざ厄介ごとに首を突っ込みたくはない。何より睡魔が辛い。再び階段を下りはじめ、あくびをしかけたところで、不意に、昴というワードが聞こえた。僕は思わずあくびを噛み潰した。

 声は二階の稽古場の方からだった。逡巡の後、僕は様子を見に行くことにした。一歩、また一歩と近づくにつれ、話がよく聞き取れるようになっていった。

「あんた、騙されてんだよ! 目ェ覚ませ!」
「覚めてるさ。私の目玉も脳細胞も、すこぶる好調で、何なら冬の空より冴えているくらいだ。どうかしているのは君の方だよ、宮川君。今朝からずっとそうだ。何だってそんなにカリカリしているんだい?」
「あれ。星崎さん知らないの? サクヤ、最近、失恋したんだよ。ずうっと好きだったコ、横からかっさらわれちゃったんだって。かわいそうに、まだその痛みから立ち直れていないんだよ。誰かに当たらずにはいられないんだ。……ねえ? お気の毒さま」

 ドン、と壁が響いた。何か叩きつけたような音だった。

「……地獄に堕ちろ」

 苛立たしげな足音が近づいてくる。盗み聞きをしていたうしろめたさのために、一瞬どこかへ隠れようかと考えたが、僕が何か行動を起こす前に、向こうから走ってきたのにぶつかった。宮川だった。
 軽い舌打ちとともに、地を這うような声で一言だけ謝って、彼は階段の方に走っていった。
 それから程なくして、ゆったりと二人組が歩いて来た。星崎さんと、菊池だった。菊池はにっこり微笑んで、僕に手を振った。

「やあ、シンヤ。君も目の保養をしにきたのかい? それとも差し入れ?」
「は?」

 わかりやすく呆れてみせると、菊池は首を傾げた。

「ボクに会いに来たんじゃないの?」
「打ち合わせに来ただけ。もう帰るよ」
「なぁんだ」

 つまらなさそうにそう言うと、彼は指に、やわらかなブロンドを巻き付けた。

「それより今の、何の騒ぎ? 喧嘩?」
「別に。大したことじゃないよ。ちょっと難癖つけられただけ」
「サミー君の香水がお気に召さないらしい」

 星崎さんは菊池の首筋に鼻を寄せた。

「適量だと思うけどね」
「サクヤが神経質すぎるんだよ」

 辺りには、個性的な例の香りが、まるで彼のオーラか何かのように漂っていた。今朝の香水おばさんに比べたら、許容できる範囲ではあるけれど、気になる人には気になるのかもしれない。現に宮川は嗅覚が過敏らしく、軽微な悪臭にも眉をひそめるようなところはある。彼の好みに合わないなら、確かに地獄だろう。

 しかし、宮川は彼と同居していたという話だ。身に着ける香りが嫌いだったら、そもそも一緒に暮らすのは難しいだろう。実際、僕の知る限りでも、彼は今まで、劇場や稽古場で菊池と一緒にいても、香りが気にくわないようなそぶりは欠片も見せていなかった。しかも宮川は年上にもずけずけモノを言うタイプだ。嫌ならはっきり言うだろう。一つ屋根の下に住む仲なら、なおさら。
 じゃあ菊池が香水を変えた? いや、おそらく、それもない。昨日見せて貰ったフルボトルの中身は、半分以上減っていた。財布と同じブランドだったところから察するに、香水は彼の愛用だ。
 失恋して気が立っている。ルームメイトの香水の匂いが気に入らない。結果、大喧嘩に発展。筋は通らないでもない。だが、それが果たして、激しい嵐の夜にルームメイトを叩き出し、ゴートゥヘルと吐き捨てるまでに至るようなものだろうか? 或いは菊池の言う通り、宮川は沸点の低い男なのだろうか。

 ――――どうにも、腑に落ちなかった。

   *

11

 家に帰って探し物をしていると、ふと机の上に、見覚えのある瓶を見つけた。菊池の香水だった。どうやら昨日忘れて帰ったらしい。彼にメールしたけれど、待てど暮らせど返事がなかった。

 そうこうしているうちに夕方になった。諦めかけてうとうとしていると、ドアチャイムの音で目が覚めた。菊池だったので、僕はドアを開けた。

「メール見た?」
「メール?」
「忘れ物してるよって話。待ってて。今取って来るから」

 そして彼のオーラの源の入った瓶を渡そうとしたが、菊池は受け取るために手を出そうとしなかった。

「香水取りに来たんだろ?」
「んん……。まあ、それもあるんだけど」

 菊池はボストンバッグの持ち手を弄びながら、上目遣いに僕を見た。そしてちょっとためらったものの、遠慮がちに口を開いた。

「泊めて貰おうと思ってたトモダチがさ。なんか、急に用事できたみたいでさ。明日にならないと帰ってこないんだ……それでね」
「今日は無理」

 と、僕は彼の先手を打った。

「キミも出かけるの?」
「そういうわけじゃないけど……」

 立て込んでいるんだ。そう言いかけて、やめた。借りたDVDが行方不明という実につまらないことだったからだ。

 三、四日ほど前に、それを再生したことは覚えている。例の洋画のディスクを入れる時、何も吐き出さなかったから、てっきり元のケースに戻したとばかり思っていた。ところが打ち合わせの帰りしなに返却しに行ってみると、中身は空っぽだった。まさか他のケースに入れたわけはないだろうと思いつつも、他に考えられないので、棚のCDとDVDを一つ一つチェックしていたところだ。だから今、部屋はプラケースの海になっていて、とても人を上げられるような状態ではない。

 菊池の顔を見て、僕はふと気がついた。ここ数日、僕の部屋のものにさわることができたのは、僕だけではないのだ。ひょっとして何か知らないかと思い、僕は試しに菊池へ尋ねた。

「あのさ。DVDプレイヤーの中に、何か入ってなかった?」

 菊池は怪訝そうな顔で、僕を見返した。心当たりはなさそうだ。駄目で元々だったから、そこまで落胆はしなかった。

「いや、なんでもない。こっちの話」

 僕は探し物を再開するため、ドアを閉めようとした。が、菊池は「ちょっと待って」と言うと、思案げに腕を組んだ。記憶をたどるかのように、青みがかった瞳が斜め上を向き、しばらくしてまた正面へ戻ってきた。

「そういえば、適当にプレイヤー構ったら、何か出てきたような気がする」
「……それ、どこにやった?」
「とりあえず近場にあったケースに避難させたんじゃなかったかなあ」
「なんで、僕に言わないの」
「一昨日言ったと思うけど。ここに入れたよって」
「……一昨日?」
「おととい」

 一昨日は、菊池が夜中に訪ねてきた日だ。台本の手直しに追われていたので、僕は彼にベッドを譲って、ソファで仕事を始めた。そこまでの記憶は確かだ。それから明け方まで覚醒状態で作業していたのは間違いないのだけれど、その間の、現実的記憶がおぼろげだ。集中しすぎて生返事でもしたのだろうか。


「全然覚えてない。ごめん。……ちなみに、どのケースに入れたか覚えてる?」
「ええとねえ。…………あれ? そういや何だったっけ。表紙の絵は、何となく覚えてるんだけど。んん。タイトルが出てこないや」
「見たら、思い出せそう?」
「え? うん、多分。……でも、どうして?」

 首をかしげた菊池に、僕はそのDVDがレンタル品で、しかも今日中に返却しなければならないものだということを伝えた。

   *

12

 未確認のエリアを菊池に確かめてもらうその横で、僕は確認済のケースを棚に戻していった。“外れ”のケースを僕の方へやりながら、ふと菊池が言った。

「そういえばさあ、昨日の話で、ちょっと気になるところがあるんだけど」
「昨日の話?」
「パラレルワールドがないと、どうして時間を巻き戻せないかってこと」
「…………世界線が常に一つであると仮定するなら、過去への時間跳躍はほぼ不可能だって話?」
「んー。多分それ」

 途中で寝たわりにちゃんと聞いてくれていたのだと思うと、何かよくわからないが、胸の奥が温かくなった。
 菊池が、手に取ったケースをまじまじと見つめた。試みに開いて――閉じて、僕の方へ。僕はそれを二重チェックした後、棚へ入れる。機械じみた作業を、二人で繰り返す。僕は作業の手を止めずに、口を動かした。

「時間跳躍の――――時の流れに逆らって飛び地的に時間を跳躍することの、最大の問題点はね。過去の改変が、現在に何らかの影響を、確実に与えてしまうということだよ。いわゆる時間跳躍の生む因果律の矛盾(タイムパラドックス)さ。そもそもこの世は、連続的な因果関係の錯綜によって成立する三次元空間だ。因果的に乖離した要素は一つとして存在しない。質量保存の法則によって世界の質量は常に一定に保たれ、ありとあらゆる物質は化学変化によって形態を変えながらも無限に循環を繰り返して……」

菊池が眉をひそめていたので、僕は少し噛み砕いて喋ることにした。

「つまり、その。どんなものにも歴史があって、それが現存するあらゆるものと密接にかかわりあうことで、現在、そして未来を形づくってゆくんだ。たとえばこのプラケースだって、いきなりこんな四角い箱の形で現れたわけじゃなくて、どこかの誰かが自然素材をプラスチック原料に加工し、さらにまた別の誰かが原料を加工して、最終的に円盤を収納できるこの便利な形になる。仮にこいつを捨てたとしても、存在は消滅しない。姿形を変えてこの世にとどまり続ける。この世に存在しているものをまったく消し去ることはできないし、まったく存在しないものを生み出すことも出来ない。――絶対に」

 前置きが終わると、僕は本題に入った。

「たとえば僕が、何らかの手段を用いて、過去に戻ることが出来たとしよう。そうだね。じゃあ、生まれる前にさかのぼってみようか。そして僕は自分の両親を殺害する。――たとえ話だよ。もちろん。たとえ話。――そうしたら、両親から生まれるはずの僕はどうなるだろう? 生まれてくることが出来ないよね? でも、生まれてこなかったとしたら、一体だれが僕の両親を殺したんだろう? ――これはいわゆる、親殺しのパラドックスと呼ばれるものだけどね。この問題を解決する方策の一つが、パラレルワールド。時間旅行をした時点で、元居た世界線とは異なる世界に移動するっていう発想。つまり僕は、過去にさかのぼった時点で、僕の生まれ育った世界とよく似た別の世界――パラレルワールドに移動したって考え方。随分ファンタジックな発想だけど、まあ、そういう世界でなら過去の改変は可能だよね」

 僕は菊池の確認したケースを、機械的に受け取ろうとした。少し待ってみたけれど何も手に載らないので振り返った。菊池は俯いていた。声を掛けると、再び流れ作業が始まった。

「ごめんごめん。聞き入ってたよ。……それで?」
「うん。で、話を戻すけど。今僕らの生きているこの世界が、変な言い方だけど“一つっきり”で、“異なる世界線”というものが存在しなかったとしたら、どうだろう。そしてそんな世界で、過去に戻ることが、もしできたとしたら? タイムパラドックスは、起こり得るかもしれない。そしてもし、世界線が一つしかない世界で、それが起こってしまったら。僕が思うに、世界がバグってしまうんじゃないかな」
「……バグる」
「そう。壊れて――――狂ってしまう。きっと、因果律の矛盾によって狂ってしまったその時間から、先に進めなくなるんだ」

 膝くらいの高さまで積もった外れの山を、僕はまとめて棚に突っ込んだ。ジャンルも監督も気にせずごちゃ混ぜに――天地の揃っていないのは、さすがに気になったので直した。

「つまり、ただ一つの世界線しか持たない世界で時間跳躍を行うと、大きな矛盾が生じてしまうんだ。さっきの親殺しのパラドックスは、極端な例だけど。自分の生みの親を殺さなくても、同じ世界線の過去に戻ってしまった時点で、パラドックスはいつでも起こり得る。この世のすべてのものは因果的に関連し合っているけれど、その関連性のすべてを推し量ることは不可能だ。一見無関係に見える何かを少しいじくっただけで――たとえば過去に戻って石ころ一つ蹴っ飛ばしただけで、僕の両親や、僕自身が生まれなくなったりする可能性はなきにしもあらずだ。ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を起こすみたいにさ。
 そして運よく、パラドックスが起こらなかったとしても、タイムスリップは片道切符だ。パラレルワールドが存在しない以上は、過去を変えたら、元いた『現在』に戻ることは決してできない。因果関係が変わってしまうから。加えて過去の世界は、現在より技術的に遅れている。文明の退化した世界で、未来へ帰還する手段とエネルギーを一体どうやって確保する? ――少なくとも、さかのぼった過去のその時点で時間旅行するテクノロジーが確立されていないなら、元の時代に戻って来ることは非常に困難だ。そして二十一世紀現在、そんな技術は地球上に存在しない。
 だから、そもそも過去に戻って未来を変えるなんてことは出来ないし、戻ったとしても何もできないんじゃない」
「……夢のない話だね」
「そうだよ。現実は夢のない世界さ。だから人はファンタジーやSFを愛するんだ」

 あらかた片付いた。あとは菊池の手元に残っている山が最後のようだった。僕は残り僅かな山を半分取って、目視で中を改めていった。

「まあでも、時間旅行は全く不可能じゃないと思うよ。時間停止や未来への跳躍は、比較的可能性があると思う。――主観に限った話だけどね。たとえば時間を停めるなら、巨大な冷凍睡眠装置に対象物を突っ込めばいい。後は超加速とか。自分ひとりがスピードアップすれば、相対的にほかの全てのものの時間が遅く感じる。程度によっては停まって見えるかもしれない。未来に跳ぶなら、冷凍睡眠で何十年か後に目覚めてみるとかね。そんなのも主観的に見れば時間旅行だ」

 僕は最後のケースを開けた。――例のディスクは出てこなかった。

   *

【NEXT】


お察しの通り筆者SF好きです。「冷たい方程式」みたいなやつもいつかやりたい。