一通りのいきさつを聞くと、八重歯の男は、小さくため息をついた。

艶話(つやばなし)ですか。僕はそういったお話は、聞くのも話すのも、あまり、得意な方ではないのですが。しかし……そうですねえ。では、せっかくですし、昔話でも、してみます、ね」

 彼はトマトジュースで喉を整えた後、遠慮がちに話し始めた。

「昔々……といっても、それほど過去のことではありません。今から百年少々前の出来事です。

 ロンドンの片田舎にある小さな町工場に、とある男が勤めていました。学はありませんでしたが、紳士らしい礼儀正しさと教養を備えており、人々からも厚く信頼されていました。

 ですが男は、人好きすると評判の笑顔の下に、残酷な本性を秘めていました。

 男は“血”に異常な関心を持っていました。流れる赤い血潮にどうしようもなく焦がれ、血を見るや我を失い、口をつけずにはいられないのです。他の者の死によってしか、自身の生きる喜びを見出せない、哀れなけだもの。そんな男が、獣じみた本性を押し隠して、人の世に紛れていたのです。

 はじめは、小さな家畜で満足していました。己の異常性は自覚していましたから、畜生の血で満足しようと考えたのです。しかし肉屋から調達した鶏などは既に死んで冷たくなっていますし、血はすぐに悪くなってしまいます。やがて男は山間部へ足を伸ばして、自ら鳥や野ウサギを狩るようになりましたが、小さな獣からとれるほんのわずかな量では、男の渇きを満たすことはできませんでした。

 男の狩りは、次第に、大胆になっていきました。日曜日の来るごとにキツネやシカを狩りに行きました。時には収穫のないこともありました。そんな中、肩を落として鉄道に乗りますと、密閉空間の人いきれの中に、感じるんですね。隣に座っている方の、薄皮の下をめぐる熱い血の脈動を……。

 男はとうとう、人間を標的にするようになりました。噂は瞬く間に広がり、人々は霧に潜む殺人鬼に恐れおののきました。ロンドンの警邏(けいら)は厳しくなり、誰しもが夜の外出を控えるようになりました。それでも人目につかない時間に生業をする者は、少なからずいるものです。特にイースト・エンドでは……。

 飲み物がなくなると、男は人目をしのんで、貧民窟へ足を運びました。そして男がちょうど、客待ちをしていた娼婦の首から、目当てのものを手に入れた後でしたでしょうか。何者かが、小さく悲鳴を上げたのが聞こえました。男が様子を見に行きますと、物陰で腰を抜かしていたのは、毎日のように街頭で朝刊を配っている、新聞売りの少年でした。男とは顔見知りです。

 少年は蒼白な顔で震えていました。ガス灯に照らされた男の衣服が、血に染まっているのが見えたのでしょう。男はことを済ませた後でしたが、阿片に溺れた女の血が、どうにも口に合わなかったこともあり、口封じを兼ねて、彼の血を頂くことにしたのです。

 男は、青ざめた少年のその首に切っ先をあてがいました。月光に兇刃(きょうじん)がきらめき、裂けた人皮の合間からあたたかい血がにじみ出しました。
 ――ああ、その血の味といったら! さっきの女の穢れた血とは雲泥の差。生ぬるい鉄の風味の中に快い甘ささえ感じるほどで、一思いに殺して、彼の血を味わうのをこれきりにしてしまうのが、どうにも、惜しくなりました。執着……そう。男ははじめて、特定の人間に、執着を覚えたのです。

 少年は気を失っていましたが、息はまだありました。男は少年を抱えて家へ戻ると、彼を手当てして、血なまぐさい地下室に閉じ込めてしまいました。

 男は夜ごと地下室へ足を運びました。そしておそらく、ロンドン市民の多くにとっては幸いなことに、男が狩りをすることはなくなりました。だって、階段を下りればすぐご馳走にありつけるのですから。いたいけな少年の犠牲を最後に、霧の都の凶悪な連続殺人事件は幕を下ろしたのです。

 少年が逃げられないよう、男は彼を縄で縛っていました。暗く、湿っぽい地下室に終日閉じ込められているせいか、少年の顔からは、日ごとに精気が失われていきました。朝日の下で元気よく新聞を売っていた以前の彼とは、遠くかけ離れていました。やがて男も、彼が新聞を渡してくれていた時は、もっと明るい笑顔を浮かべていたということを、思い出しました。

 あるとき男は、少年の寝ている間に、彼の手を縛っていた縄にほんの少しだけ切り込みを入れました。……もしかしたら男も、こんなことはもうやめにしたかったのかもしれません。ですが不思議と、少年は逃げようとしませんでした。その次の日は、切り込みをもっと深くしました。それでも少年は逃げませんでした。そしてとうとう男は、思い切って縄を解いてみました。それでも少年は青ざめた顔で、光の差さない鬱々とした地下室で、じっとしているのです。

 男がわけを尋ねてみると、少年は言いました。…………あなたを、恋しているのだと。

 男には、人間のそうした感情が、よくわかりませんでした。ですが、少年の真摯な表情や言葉によって、男は動揺しました。

 その翌日、男は少年の深く寝入っているうちに、彼を解放してやりました。少年のもたらす得体のしれない感情が、これまで味わったことのない心のざわめきが、おそろしかったのです。

 男はひそかにロンドンを去りました。そして数週間後には、地方紙の見出しに殺人鬼の文字が躍るようになりました。血に飢えたけだものが、再び狩りを始めるようになったのです。

 ですが、どの獲物の血も、男を満足させることはできませんでした。離れてもなお記憶から色あせぬあの新聞売りの少年と、同じくらいの年恰好の男子のそれでさえ、まるで鉛を溶かした泥水のようで、ひどく胸やけがするのです。

 明け方、男が憂鬱を抱えてねぐらへ帰りますと、あの少年がいました。一体どうやって調べたのか知りません。男は驚き、自分を捕まえに来たのかと少年に尋ねました。少年は首を振って、こう言いました。
 捕まりに来たんだ。自分はもう、あなたなしではいられないから。そして彼は衣嚢(いのう)からナイフを取り出すと、震える手で自分の首に添えました。男があっという間もなく、少年の首に血の玉がにじみました。
 窓からの暁光に照り映える彼の微笑みと首を彩る真紅とは、何という美景、何という魅惑だったでしょう。男は誘われるように少年へ歩み寄り、その首に口づけました。

 そのぬくもりと、味とに男はしばし酔いしれました。しかしその酔いは間もなくさめてしまうのです。……いいえ、少年は魅力的でした。呪うべきは、男の狂気です。暗愚です。底知れぬ、獣じみた欲望です。飢えた男の欲望を満たすのに、十分ではなかったのです。浅い切れ目からにじみ出た、ほんのわずかな量では……。

 男は少年の手から、そっとナイフを抜き取りました。肌の下にかくれた蜜をえぐり出すために。
 彼の血を心ゆくまで堪能した男が、ふと我に返りますと、自身の両手が生ぬるい血潮で朱に染まっているのに気がつきました。裂けた肉の間からどろどろと溢れ出る血は、まさしく彼の命そのものだったのでしょう。そして、それはもはや、少年の魂までもを肉体の檻から半ば解き放っており、再び肉体へ繋ぎとめることのできない量であることが、男にはわかりました。
 彼が、頬に手を添えてくるまで、男は、自分が涙を流していることにさえ気づきませんでした。目の前にいる少年が特別であるとの自覚が、ようやく男にも芽生えました。ですが、あまりに遅すぎました。少年の生命は、男の手のひらから、砂のように零れ落ちていきました。

 ――そこから、男の記憶はしばらく途絶えます。男が正気に戻った時には、部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていました。“食事”のために少年を招き入れた時、扉には内鍵を掛けましたから、外から誰も入れるはずがありません。きっと半狂乱になった男が暴れたのでしょう。
 ワイン瓶の破片や脚の折れた木椅子、そしていつかの新聞が床に散逸する中、既に乾きかけた血だまりの中で、愛しい少年は依然として死んでいました。

 最愛のひとを、己が欲望のために死なせてしまう男です。……ひどいろくでなしです。そんな男でも、せめて最後の最後くらいは、彼に人間らしいことをしてやろうと考えました。

 しかし、穴を掘って、いざ(ひつぎ)を埋めようという段になると、男はためらいました。少年の肌はもはや冷たく、硬くなっていましたが、それでもその顔は生前の面影を色濃く残しており、ひょっとすると、男がちょっと目を離した隙に、こっそり目覚めて歩き回っているのではないかと思われるほど生き生きとしていました。そんな彼を暗く冷たい土の中へ押し込めてしまうのは、どうにも忍びなく、また、非常に罪深いことのように思われたのです。

 しかし血の巡らなくなった肉体は、じきに朽ちていきます。何もせずにいれば、いずれ、どこからともなく湧き出た蛆に食い荒らされて、彼のかわいらしい寝顔は二目と見られぬようになってしまうでしょう。どうしたものかと考えあぐねている間に、男の休暇は終わり、出勤時間が迫ってきました。

 ……彼を隠して、鉄道駅へ向かいました。朝のターミナルは人でごった返していました。客車の中も、ぎゅうぎゅう詰め。座席も通路も人であふれ、身動きを取ることもままなりません。男は窓の外を見ることしかできませんでした。

 窓からは、隣の汽車の火室が見えました。スコップを手にした火夫が、額に汗をにじませて、燃え盛る炎の中に燃料をくべていました。見るともなしに見ていると、黒い石炭の中に、何か枯れ枝のような奇妙なものが、時々混じっているようでした。男がじっと目を凝らすと、どうもその枯れ枝は、時々、先端部分が五つに枝分かれしているのです。ちょうど人間の手足のように……。

 ええ、そうです。お察しの通り、枯骸です。いわゆるミイラですね。……同胞の遺骸を燃料にしてしまうなんて、なかなかショッキングな話です。ですがそれ以上に男に衝撃を与えたのは、数千年前の遺骸が、今なお男の目の前に、形として残っているということです。男は閃きました。彼といつまでも共にいられるように、彼をミイラにしようと……。

 なんでもミイラを作る時には、鼻から脳髄を摘出し、脇腹を切開して、そこから内臓を取り出すのだそうですよ。腐敗というものは水気のあるために起こるものですから、肉体の中で水を多く含む器官……内臓ですね。それをまず抜いてしまってから、がらんどうになった腹部に香料を詰めて縫い直し、ふくよかな肉を薬品によって脱水し、骨と皮ばかりになったものに包帯を巻きつけて、仕上げに瀝青(ムミヤ)をひと塗りして作るのです。

 少年の肉体を傷つけることに、男は少し抵抗がありました。ですが蛆虫どもにみすみす食われるよりはましと思い、少年の肉体を処理しました。彼の肉体を永遠に手許に留める儀式には、おおよそ二か月余りを要しました。

 今でも、彼は眠っています。彼のために用意した美しい柩の中で、永い眠りについています。そんな彼の元を、男は時折訪れます。今わの際に遺してくれた彼の微笑みが恋しいあまりに、柩のふたを開けて、いつまでも彼のことを眺めています。干からびた包帯だらけの顔は、きっと傍目にはもう、彼の面影なんてないのでしょう。でも、構わないんです。男のまぶたの裏には、生前の彼の顔がしっかりと刻みついているのですから。
 ……ですが、柩のそばでまどろんでいると、時々、思うんです。彼の手が、血濡れたこの手をそっと握り返してくれたらと。でも、弱弱しい、枯れ枝のような手は、ぐったりと柩の中で横たえたきり、ぴくりとも動かないのです。男の夢の中でさえ、彼は依然として、死んでいるのです。心から罪を悔悟し、神仏に懇願してさえも、愛しい彼との再会が叶うことは永久にないのです。……きっと、多くの生命を、そして愛しい少年の生命さえもすすり尽くしてしまった、愚かな男への罰なのでしょう」



 八重歯の男が話し終えると、隣に座っていた青年が静かに立ち上がった。彼は、のろのろと、散乱した座布団の山へ歩んでゆき、そのうちの一枚を拾い上げた。そして、八重歯の男の方へ戻ってきたかと思うと、おもむろに、その座布団を彼の頭に叩きつけた。

「今は、ちょっとエッチなお話の、時間だっ、つってん、だろうが! 誰が、ちょっぴり切ない、純愛系、ラブストーリー、喋れっつったよ!? ええ!?」
「えっ? えっ? す、すみません……?」

 座布団から巻き上がるホコリにむせながらも謝る男に、青い眼鏡の男が改めて趣旨を説明したが、

「ええと…………うーん。すみません。やっぱり僕には、そういう話は……」
「だいじょうぶ。おれはきらいじゃない」

 恥ずかしそうに顔を赤くした男に、そばかす顔の青年がそっとキャンディを差し出した。しかし、八重歯の男はすっかり恐縮してしまっていた。膝を抱えて縮こまってしまった八重歯の男に、青い眼鏡の紳士が言った。

「ルガート君。バトンを次に回してやってくれるかい?」
「バトン?」
「その、君が後生大事に持っている輪っかさ。……イヤ、持ちたいなら持ちたいでも構わないよ。ただ、次の語り部たるアーチャー君が、すっかりやる気になってアップまで始めているのを無視し続けるのは、友人としても主催者としても忍びないのでね」

 八重歯の男は、ばすんばすんと音のしている方へ目を向けた。ひげ面の男が胸の前に構えた二つ折りの座布団に向かって、ベビーフェイスの青年がパンチを繰り出しているのには、彼も気付いていた。しかしさっき叩かれた手前、絡むのがちょっぴり怖かったのだ。けれども言われたからには仕方がないので、八重歯の男は、彼を呼んで、おそるおそる、ケミカルな光を放つ輪っかを差し出した。
 青年はスパーリングを切り上げると、まるでリング入りするチャンピオンのように、堂々と歩んできた。そして、八重歯の男の差し出した輪灯をその手につかんだ。
 輪灯の光は力なくぼやけていた。己が生命を使い果たして、もはや死を待つばかりといった風情である。しかしベビーフェイスの青年の手に渡ると、その輝きが息を吹き返した。歓楽街の夜を彩るネオンサインのような、鮮烈なピンク色の光を浴びながら、青年は高らかに言い放った。

「いいか、おまえら。エロスの伝道師といわれるこのオレさまが、何もわかっちゃいねえおまえらに、男のロマンのなんたるかを教えてやる。刮目(かつもく)しろ、ド素人ども!」 

【NEXT】