13

 見落としたのだろうか。いや、そんなはずはない。混乱と焦燥のために、意味もなく辺りを歩き回っていると、ふと菊池が呟いた。

「そういえばボク、元々入ってたディスクの下に入れちゃったかも」
「……なんだって?」
「うん、そうだそうだ。抜いたはいいけど、戻し方がわからなくてさ。で、むき出しのまんま置いとくのもなんだから、ケースにしまっとこうと思ったんだ。でも、空いたのが見当たらなかったからさ。重ねない方が良かったんだろうけど、でも、本当になかったから。とりあえず傷のあんまり入ってなかった方を下にしといたんだよ」

 ディスクが二枚重なっていないかどうか、いちいち確かめたりはしなかった。僕の思考回路にはない行動だったので、疑いすらしなかった。確認済みの山が、再び未確認の山になった。やり直しだ。百や二百ではきかないケースの中身のチェック作業を。
 彼を怒っても仕方がない。よかれと思ってやったのだ。気を配っていなかった、僕が悪い。深呼吸をすると神経は少し落ち着いた。しかし長丁場になりそうな予感が、僕の気を滅入らせた。腹ごしらえをするために出前を取ろうとの菊池の提案に、疲労と空腹を感じていた僕は安易に同意した。
 新谷湊人(あらや みなと)宛の郵便物を片手に、「ピザでいいよね?」と注文を進める彼に、僕は二つ返事で頷いた。

 その数分後のことだ。菊池が「あった!」と声を上げた。彼の言った通り、ディスクの下に重なっていた。僕は安堵し、レンタルショップの空ケースにディスクをはめ込んだ。

「ピザ、何時に来るって?」
「ええとね。八時くらい?」

 あと一時間はゆうにある。出前にしたのは失敗だった、と思った。
 菊池は、一仕事終えた達成感からか、大きく伸びをした。ソファでくつろぎ始める彼を、僕は眺めた。

 もしかして今夜も彼はうちに泊まるつもりなのだろうか。――泊めるつもりなのだろうか、僕は。急を要する仕事がひと段落し、部屋がすっきりと片付いた今なら、彼を泊めても構わない――のか? いや、問題は大ありだ。ベッドが一つしかない。シングルベッドを一緒に使うのは心理的にも、体格的にも不可能だ。そうかといって、彼を寝心地の悪いソファで寝かせるのは、許されないような気がするし、僕がそうするのも、さすがにそろそろ辛いところだ。

 ともあれその問題は、もう一方の問題ほど差し迫ってはいない。僕は例のレンタルDVDに目を戻した。

 明日の開店時刻までに返却ボックスに入れれば、延滞料金はつかない。だから明日の朝一でも、間に合うといえば間に合う。ただ僕の心配しているのは、そうした金銭的な事情ではなかった。

 僕は期日を守るということに関して、人一倍、神経質だった。それは僕の職業病ともいうべきもので、期日の延滞に慣れてしまうことで、作品の〆切にまでルーズになってしまうことを過度に恐れていた。しかじかの日までと書かれていれば、日付の変わる前でなければならない。そういう、強迫的な考えを抱いていた。

 出前が届くまで待つとして、一時間。食べ終わるのは二十一時だろうか。窓を見ると、小雨がぱらついていた。本降りになる前に、片付けてしまいたい。DVDを持ったまま、そわそわしていると、菊池がおかしそうにくすりと笑った。

「いいよ。行っておいでよ。ボク、待ってるから」

 彼を部屋に一人で置いておくことに、僕は一抹の不安を感じた。が、すぐに解消した。彼の善良そうな微笑みと、時間を共有したことで生まれた信頼感が、僕の漠然とした不安をかき消した。

「パソコンと、そこの飾り棚には触らないでね」
「もし触ったら?」
「絶交」

 僕はジャケットを羽織った。

   *

14

 自動ドアをくぐると、夜なのに元気な従業員の声がこだました。例のDVDを返却した後すぐに帰ればよかったものを、僕はいつもの習慣で、レンタルの洋画コーナーの方へ吸い寄せられていった。

 サスペンスコーナーの辺りを、一人の青年が、濡れた髪をぐしゃぐしゃ掻きまわしながら歩いていた。あの赤みがかった茶髪とボルドーのレザージャケットは、昼間に見た覚えがある。
 おそるおそる「宮川?」と声を掛けると、彼は振り返った。

「ああ、慎矢さん。ちっす」

 彼もDVDを借りにきた、というよりは雨宿りのように見えた。随分とやられたらしく、髪や上着はかなり水を吸っていた。

「傘ないの?」
「そうなんスよ。自転車で」
「そう。大変だったね」

 沈黙が流れた。話題を探していると、ふと、宮川が言った。

「あの。昼間は、すいませんでした。オレ、だいぶ態度悪かったッスよね」
「いいよ。気にしてないし。……ああ、そういえば、西宮ともめてたみたいだけど」
「……べつに、大したことじゃないんスよ。ただ、ちょっと、あの臭いが……」

 言いかけて、宮川は眉をひそめた。彼が辺りに目を向けたので、僕もなんとなくそれに倣った。DVDの棚に挟まれた通路には、僕らのほかには誰もいなかった。

「慎矢さん、香水つけてる?」
「僕は何も――――ああ、そうだ。確か今朝乗ったバスに香水のきつい人がいたんだ。もしかしたらその匂いがまだ残ってるのかも」
「いや……」

 宮川は険しい顔つきで、僕の腕の辺りに鼻先を寄せた。警察犬のように匂いを探った後、彼は鋭い目つきで僕を見た。

「もしかして、昴に会ってた?」
「ああ、まあ。彼、うちに来てるからね」
「……へえ。そうなんだ」

 やや棘のある声でそう言うと、それきり宮川は背を向けて、自分の用事に戻ってしまった。

   *

15

 特にめぼしいものがなかったので帰ろうとすると、宮川がカウンターで用事を済ませているのが見えた。彼は会計のためにポケットから財布を出したが、ちょうどその拍子に、何か落とした。近くへ寄って拾い上げると、どうも何かの鍵らしい。
 雨の降り注ぐ駐輪スペースに、彼の姿はまだあった。

「風邪ひくよ」

 自転車のそばでポケットをひっくり返していた彼に、鍵を返した。チェーンロックの解除を試みる宮川に、傘を差しかけながら、僕は言った。

「君、家、どっちの方?」
「東四谷の方ッスけど……」
「そう。じゃあ途中まで一緒に行こう」

 少し遠回りになるけれど、僕は宮川を傘の中に入れて、外灯と車のヘッドライトの照らす明るい夜道を歩き始めた。

 自転車をゆっくり押しながら、緊張した声で、宮川が言った。

「慎矢さんって、昴と付き合ってんの?」
「はあ? 君、何言ってるの?」
「あーいや! すんません。そうッスよね。……うん、そりゃそうだ」

 宮川は、一つため息をつくと、心なし声の調子をやわらげた。

「うん、それがいいよ、慎矢さん。あいつは最悪だよ。いろんなイミで。一緒に住むのも、やめといた方がいいよ。あいつは自分じゃ掃除も洗濯も料理も何もしないし、やめろっつーのに部屋にオトコ連れ込むのやめないしさ。もうマジで、本当、やめといた方がいい。絶対、後悔するからさ」

 聞き間違いだろうか。台詞に引っかかりを覚えて、僕は話を遮った。

「女遊びが激しい、ってこと?」
「あいつ女とはやんないよ。ゲイだもん」
「……は」

 僕の足は止まった。けれど宮川は止まらない。

「しかも、とんでもない浮気性。まあオレもどちらかといえば遊んでるほうだけど、あそこまで下品に食い散らかしたりしないね。なんせあいつときたら、デートの相手は平日日替わり。土日は休みどころか、ダブルトリプル当たり前のよくばりセットだぜ。挙句の果てには――――挙句の果てには、人の本命にまで手出しやがる!」

 あいつにだけは手ェ出すなってあんだけ言ったのに! つーかそれならそれでホテル行きゃあいいのにわざわざオレのベッド使うなんて悪趣味にもほどが……………………。

 堰を切ったように流れだした宮川の言葉を、脳が反芻(はんすう)するけれど、僕の処理能力を超えていた。僕はいまだに、最初の爆弾の処理に手こずっていた。

 ゲイ。――――同性愛者。男の場合は、男を恋愛対象や性的対象とする男。

 そういう節がないではなかった。昔から、時々、妙に距離感が近かったり、スキンシップが激しいと感じることはあった。でも、単に人懐っこいだけで、同性愛の趣味はないと思っていた。しかし、よくよく考えると、彼にはナルシストの気がある。男のナルシストの性的興味が自身と同じ性に向かうのは、自己愛の延長と考えると、さほど不自然でも、ない……の、だろうか。

 それにしても僕は、にわかには納得できなかった。

「それ、本当に、菊池の話?」
「慎矢さんまでそんなこと言う!」

 彼は吼えた。大粒の雨が顔を叩くのも構わずに。

「みんな騙されてんだよ。七瀬も慎矢さんも星崎さんも、あいつの上っ面に! あんな綺麗な人がそんなことするわけないって、何の根拠もないのに信じてんだ!」

 頭を鞄で守りながら走るサラリーマンが、不審げに宮川を一瞥して、通り過ぎた。彼は少し冷静を取り戻した。

「すんません。でも、本当なんすよ。…………あいつ悪魔だよ。そうでなけりゃ、きっと、サイコパスだ」

   *


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