21

 窓を叩く雨音で、僕はぼんやりと認識した。ガラス一枚隔てた向こう側で、未だ猛威をふるう嵐の存在。台風十号は、まだ激しい風に雨を伴って暴れている。
 ――そしてその中に、菊池が出て行ったことを思い出すと、僕ははっとした。

 過日の台風でも、四方山市では四名前後の死者が出ていた。橋の上から風にあおられたとか、土砂崩れに巻き込まれたとか、原因はさまざまだが、嵐の日に、この川の多い盆地の露と消えた人間は、確かにいるのだ。

 菊池の出て行った扉を開けると、横なぎの風雨が頬を叩いた。外廊下にも階段にも、エントランスにも、彼はもういなかった。懐中電灯で足元を照らしながら、マンションの周りも探してみたけれど、人の姿は見えなかった。
 彼の携帯をコールした。十秒。……二十秒。呼び出し音の秒数が、刻々と増えていく。一分を過ぎても、彼は出なかった。川に落ちた、とか、飛来物にぶつかって怪我をした、とか、いやな想像ばかりが頭の中を駆け巡った。悪い考えを振り払おうと、僕は風雨の吹き荒れる闇の中に足を踏み出した。枝分かれした無数の道のどれを彼が進んだのか、わかるよしもなかったが、それでも歩いた。名を呼ぶ声は雨風の音にかき消されてしまったかもしれないけれど、それでもひたすら彼の名を呼んだ。

 夜道を煌々と照らす外灯の下を、自販機の明かりの前を歩きながら、彼に何度も電話を掛けた。繋がらなかった。真っ黒な空から降り注ぐ雨がずぶ濡れの服を透りぬけて、もはや肌に染み込んでいた。

 ――メールの返事は届いていない。画面をにじませる水滴を袖で拭ってみたけれど、かえって濡れ広がっただけだった。仕方なく、そのままポケットに突っ込んで、僕はまたあてもなくさまよい始めた。

   *

22

 数時間後、濁った暗雲から、わずかに晴れ間がのぞいた。窓から、戸口から、おそるおそる外の様子を確かめる人の姿が見え始めた頃に、ようやく電話は繋がった。
 開口一番、「生きてる!?」と叫んだ僕に、半ば気圧されながらも菊池が返事をした。彼の声を聞くと、安堵が胸いっぱいに広がった。声にほんのり笑みをにじませながら、彼が言った。

「どうしたんだよ」
「君、大丈夫だったかと思って。外暗いし、雨もひどかったし」
「ああ、あの鬼電、キミだったんだ」
「え?」
「いや、こっちの話……」

 突然、ポンと何かはじけたような音がした。辺りを見回したが特に変わったことは起きていない。多分、電話口の向こうの事件だった。

「どうしたの? 何かあった?」
「ううん、大丈夫。……それで、心配して電話くれたんだ」
「そう」
「死んだかと思った?」
「………………うん」
「後悔した?」
「……うん」
「そっか」

 沈黙が流れた。気まずさよりも、僕は気恥ずかしさを感じた。

「えっと。とにかく、無事でよかった」

 再びの沈黙。先に口を開いたのは菊池だった。

「それだけ?」
「うん?」
「……なんでもない。わざわざありがとう。それじゃ」

 通話が切れると、僕は胸をなでおろした。と同時に、寒気を感じた。濡れた服が、芯まで冷えた体にまとわりついた。

   *

23

 雨に打たれた体を洗って、何日かぶりに体を沈めたベッドには、まだ、彼の匂いが残っていた。
 そのせいか、久しぶりに夢を見た。それも、ひどく懐かしい夢だった。

「行ったらいいんじゃない」

 そう言ったのは確かに僕だった。

「わざわざ僕におうかがいを立てなくても、君が行きたいんだったらさ」

 心中の動揺を悟られたくなかったので、僕はずっと、背を向けていた。

「一般的に考えるなら、ラッキーなことなんじゃないの。僕は興味ないけど」

 部室には、僕らのほかには誰もいなかった。もしかしたら他の部も、もう引き上げていたのかもしれない。ノートや文房具をまとめて鞄に詰め込む、ただそれだけの物音が、いやに響いていた。

「シンヤくん、上京する予定とか、ない?」
「ないね」

 夜を背にした窓ガラスには、彼の姿が映っていた。伏し目がちの美貌は悲しみを湛えているように見えた。

「鍵、僕が返しとくから。先帰ってていいよ」

 ガラスに映った彼の唇が、もの言いたげに震えた。

 瞼を開けた。住み慣れたマンションの一室だった。首を回すと、汚れたカーペットが見えた。あれ、洗わなきゃなあ、なんて、薄ぼんやりと考えながら、僕は再び目を閉じた。
 今度は、夢は見なかった。

   *****

24

 入力。デリート。入力。デリート。入力。デリート。入力。デリート。そんなことを、何時間繰り返しただろう。白い画面が少し黒く染まっては、また白に戻る。場面は進まず、筆は走らず、締め切りばかりが迫ってくる。
 コンピュータから原稿用紙にツールを変えてみたけれど、相変わらずマス目は埋まらない。支離滅裂で荒唐無稽で意味不明な物語の出来損ないが、産声を上げては死んでいく。僕の精神は、完全に統一性を欠いていた。

 原因は、菊池だ。それはわかっている。
 カーペットは、取っ払った。何度も掃除機をかけた。換気だって、何十回となく。きっと彼の髪の一筋さえ残ってやしない。普段通りの、集中できる環境のはずだ。なのに、どうしてか、心が定まらない。部屋のどこかに、まだ、彼のいるような感じが、ずっとある。ちょっと気を抜くと、首筋に、胸板に、二の腕に、あのすらりとした指が這っているように思われて、妙に胸の奥がざわついた。

 いっそ、彼に会えば、楽になるのだろうか? 原稿用紙から少し左に視線をずらすと、スマートフォンが目についた。連絡先に、彼の名はある。タップ一つで、電話は繋がる。でも、今更、何を言おうというのだろう。

 「ごめんね」? ――何に対して? 嵐の中に追い出したこと? きらいになりたいなんて言ったこと? それとも――――あの時、引き留めなかったこと? 

 考えれば考えるほど、頭の中がぐしゃぐしゃになっていく。

 気分転換に、苦いコーヒーでも淹れよう。僕はため息をつき、椅子から立った。
 ふと、風が吹いた。背にした窓から吹き込んだ一陣の風が、デスクの上をなぎ払った。原稿用紙が宙を舞った。慌ててスマートフォンを重しにして、窓を閉めたけれど、既にほとんどが風にさらわれていた。
 床の上、ソファの上、テレビボードの方にも何枚か散乱していた。もう、踏んだり蹴ったりだ。僕は散らかった原稿用紙を一枚一枚、拾い集めた。床の上、ソファの上。テレビの裏―――は、覗き込んだけれど、何もなかった。しかし確かに、ディスプレイを超えて飛んで行ったのを、この目で見た。大方、テレビボードの背面と壁の隙間にでも、滑り落ちたのだろう。

 ボードを動かすと、やはり、数年分の埃と一緒に、原稿用紙が落ちていた。その他にも、薄っぺらいプラケースが一つあった。中にはDVDが入っていた。ディスクの盤面に、マジックで直に書かれた文字によると、どうも高校演劇の録画らしい。

「……こんなところに」

 引っ越しの時に持ってきたはずだったけど、いつの間にか見当たらなくなっていたので、てっきり失くしたか、捨てたとばかり思っていた。
 記録面に、いくつか傷が入っている。中身の無事を確かめるため、僕はプレイヤーにディスクを入れた。

   *

25

 幕が開いた。

 檀上に、学生服姿の部員たちが、順々に現れる。成人式で見た時より幾らか幼い彼らの姿に、思わず笑みがこぼれた。

 セットは教室。平凡な朝を演じる彼らの台詞を聞いているうちに、台本の内容を思い出してきた。

 もうじき予鈴が鳴る。教師役が入って来ると、蜘蛛の子を散らしたように生徒役は席へ着く。菊池の出番は、その後だ。担任に転校生として紹介された彼は、翼でも生えているかのような軽やかな足取りで、生徒たちの前へゆき、無邪気な笑顔を見せるのだ。

 さらに芝居が進むと、鏡の中から、彼のドッペルゲンガーが現れる。天使のような彼とは似ても似つかない邪悪な分身。彼と入れ替わったそいつは、平穏を望む彼の日常を壊していく。純真無垢の彼はあらゆる鏡面を通してそれを見る。夜の窓ガラスから、水溜まりから。そして…………。
 今の僕にはとても書けない、ファンタジックなストーリー。彼だけのために作った、僕の渾身の物語。

 運命をまだ知らない少年は、まばゆいほどの光を浴びて、朗々と幸福をうたっている。美しい少年は、その魂に一点の穢れもないかのように、心に清廉と純真を備えていた。きっとこの世に、彼以上に美しいものはないだろう。彼は理想そのものだった。僕は永遠すら願った。時間を止めることが出来たらどんなに良いかと思った。悪徳が彼を染めず、純真さと清廉さが保たれたままであったなら、どんなにか、素晴らしかっただろう。

 邪悪な分身が現れても、僕の網膜には、純真無垢の美少年の残像が焼きついていた。彼が舞台上で邪性を演じれば演じるほど、正反対の清らかな美質は、僕の心により深く残った。

 六十分弱の芝居は、気が付けば終わっていた。ホールを響かせる喝采の音を、僕が聞いたのは舞台袖だった。

 幕が下り、舞台から戻ってきた彼の誇らしげな笑顔には、少年らしい悪戯っぽさがにじんでいた。

「よかっただろ?」
「悪くなかったと思うよ」
「素直にほめてよ」
「気が向いたらね。ほら、君も撤去手伝いな……」

 菊池に大道具を渡そうとすると、突風のように彼の取り巻きが走ってきて、それをかっさらっていった。どさくさに紛れて飛び蹴りを食らわせてきた奴には、ラリアットをお返しした。
 一人沈んだせいで頭数は減ったが、セットの解体はつつがなく進んでいく。徐々に片付けられていく舞台を見ながら、菊池がため息をついた。

「なんだろう。ボク、いますごく、変な気持ち」

 姿見が運ばれてきた。菊池は、相も変わらず天使じみた美少年の鏡像をじっと見つめ、やがて眼を伏せた。

「終わったーっていうのと、ああ、終わっちゃうんだっていうの。半々」
「これで終わるかどうかは、結果次第だね」

 菊池は首を傾げた。判っていないようだったので、僕は言葉を足した。

「上手くすれば、来年、全国」
「ああ、うん。……そうじゃなくてさ」

 彼は遠い目で舞台の方を見つめながら、再び呟いた。

「…………そうじゃないんだ」


 テレビのスクリーンは、チャプター選択画面で止まっていた。

 僕は、もう一度、再生ボタンを押した。どんなに巻き戻しても、過去のこの時に戻ることなんてできやしないのに、僕は冷たい涙が乾いても、いつまでも、いつまでも、彼を眺めていた。


   *****


【NEXT】