※本作品の◆19に、R-18程度の性的表現が含まれます。18歳未満の方は閲覧をお控えください。

16

 ――――宮川の言葉が、ずっと頭の中で回っていた。

「食べないの?」
「食べる、けど」

 促されて手をつけ始めたクアトロフォルマッジは、四種のチーズの違いどころか、味自体、よくわからなかった。たっぷり時間をかけて、チーズとクラストを咀嚼(そしゃく)し、液状化したのを、流し込むように飲み下した。彼は既に自分の取り分を始末して、サイドのフライドチキンに手を付け始めていた。

「宮川から、聞いたんだけど。君ってゲイなの?」
「そだよー」
「……初耳なんだけど」
「そう? 言ったつもりでいたよ。ボクは、てっきり」

 白い歯が肉をむしり取った。肉の衣を()がれてほとんど丸裸になった骨が、やがて彼の汚れた取り皿にカランと音を立てて落ちるのを、僕はぼんやりと眺めた。

「シンヤって、そういうのに偏見あるタイプ?」
「…………いや」
「そ。よかった」

 彼は目を細めて、唇を濡らした脂を舐めとった。つややかな唇を、ゆっくりとなぞったその舌の動きに、僕が後ろめたい感情を感じてしまったのは、おそらく、僕が彼の恋愛対象に入りうることを知ってしまったせいだろう。
 数時間前までは、少し大げさに言っても、友人くらいにしか、思っていなかったはずなのに。ひとたび意識の上にのぼってしまうと、どうしても、考えずにはいられなかった。
 いっそ彼を叩き出すことができたなら、悩まなくても済むのだろう。しかし、出ていけと言いだすには遅すぎた。

 雨はすっかり本降りになっていた。暴風域にも入ったらしく、木を揺さぶる風が窓ガラスを容赦なく押してくる。トタンか何かが強風になぶられて悲鳴を上げるのが聞こえる。もう、外には出られそうもなかった。

「シンヤ、もういらないの?」
「……ああ。あんまり、お腹すいてないみたいだ。よかったら、君、食べなよ」
「そう? じゃあ貰うね」

 彼がピザの処理を始めたのを確かめると、僕は大きく深呼吸をした。――何も変わらない。何も。僕は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。そう、何も変わらない。僕が神経質――というより自意識過剰になっているだけで、菊池は昨日と何も変わらないのだ。

 どうかしているのは、この僕だ。僕は昨日をかえりみた。昨日の僕は、今日の僕より、幾らかまともだったはずだ。時をさかのぼることはできないにせよ、僕は、昨日と同じように振舞おうと努力した。

「適当に、くつろいでてよ。映画見てもいいし、雑誌読んでもいいし。――ああ、そうだ。テレビでも見る?」

 これは我ながら良い考えだった。タレントの笑い声が部屋に響き始めると、少し気が楽になった。僕は菊池にリモコンを渡して、片付けに取り掛かった。ジャンルも監督もぐちゃぐちゃになったDVDの整頓作業には、数時間を要する見込みだ。もし早く終わってしまったら、また映画でも見て、あとは、眠って、おしまいだ。

 DVDの整理を始めると、やがて、彼が傍へやってきた。甘くてスパイシーな香りが僕を包んだ。これも、昨日と同じ。ただ、昨日と違うのは、彼が同性愛者であるということを僕が知っていて、その彼が、僕の手に、自分の手を重ねてきたということだ。

「……ねえ。やっぱり、気にしてるよね?」

 ブラウン管からの白々しい笑い声は、いつの間にか消えていた。
 猛り狂う風が今にも牙城を突き崩さんと、激しく窓を揺さぶった。
 窓の方に気を取られた僕をとがめるかのように、すらりとした指が、思わせぶりに僕の手をなぞった。天使の彫像のごとき美貌は微笑をかたどっていた。彼のまぶたがゆっくりと閉じて、その瞳の隠れた時、僕は瞬きを思い出した。

「ねえ、シンヤ」

 青みがかった瞳が、再び僕を捕えた。

「ボクのこと、きらい?」

 上目遣いでじっと答えを待つ彼に、どんな言葉を返しても、何かがこわれてしまいそうな気がした。

   *

17

 伏見慎矢というペンネームを使っていなかった当時から、僕のことをシンヤと呼ぶのは彼だけだった。

 彼がはじめて僕をそう呼んだのは、ある日の体育の時間だった。体育館でバレーか何かをやっていて、ボールを拾って回っている時、天使じみた風貌の彼が、羽根でも生えているかのように軽やかな足取りで、僕の方へやってきたのだ。
 どんなことを話したのか、詳しいところはよく覚えていない。ただ、彼が僕の苗字を「シンヤ」と読み違え、僕がそれを訂正した。そんな程度の、他愛ないやり取りだった。
 そんなやり取りの何が、彼の琴線に引っかかったのか知らない。ともかくそれ以来、彼は僕に、ことあるごとに絡むようになった。そのたびに彼は、僕のことをシンヤと呼んだ。何度訂正しても、彼はかたくなに僕をシンヤと呼びたがった。先に折れたのは僕だった。

「もういいよ、シンヤで」

 菊池は、驚いたように目をみはった。そうかと思えば、急ににこにこし始めた。

「何がそんなに面白いの?」
「少しはキミと仲良くなれたのかなあ、と思って」

 頭をほんのわずかに左肩の方に傾けて、無邪気に笑う彼は、確かに愛くるしかった。皆が口を揃えて『天使』だ『王子様』だと言うのも、あながち間違いではないのかもしれないと、僕が思い始めたのはその頃だった。

 高校を卒業しても、おそらくは、そうなのだろうと考えていた。あるいは、僕は、彼にそうあってほしいと願っていたのかもしれなかった。

   *

18

 彼が載るようになってから、ファッション雑誌を買うようになった。嘘くさい見出しの載った週刊誌も、彼の名前が出ていれば手に取った。

 思いつきでなんとなく始めたスクラップブックは、三冊目になった。輝かしい内容でないこともあったけれど、目についた彼の記事は、とにかく全部とじ込んだ。政財界の大物との交際疑惑。大御所芸能人との深夜の密会。エトセトラ、エトセトラ。そうした記事に写真が付属していれば、決まって僕は切り取って、記事と一緒にじっくり眺めた。そして写真の不鮮明さや被写体の顔のはっきりしないことを理由に、記事の証拠として使うには決定打に欠けると、無理やりにでも自分を納得させた。こんな記事はでたらめだ。どうせ大衆心理をあおり、雑誌の販売収益を高めるための言葉のあやだ。そう考えて、それきり、忘れようと努力した。けれど、やはり、噂の真偽が気になって仕方なかった。

 久しぶりに彼にメールを送ってみた。数分後に返信が来た。宛先不明のMAILER-DAEMON(エラーメール)として。
 それきり音信不通で、一縷(いちる)の望みをかけた成人式にも彼の姿はなかった。彼と仲のよかった取り巻き連中にも尋ねてみたけれど、地元には戻っていないとのことだった。家も引っ越してしまったらしく、その後の連絡先を知る者もいなかった。
 水臭いよな。誰かが呟いたその言葉に、僕も心中で同意した。

 いつしか、彼の姿を週刊誌で見かけることはなくなった。ファッション誌の表紙は名前も知らない青年が飾るようになった。彼は芸能界を引退したのだという説が、ネット上のファンコミュニティで、支配的になっていった。
 開くことのなくなったスクラップブックと一緒に、彼との思い出も、やがて慌ただしい日々の雑事に埋もれていった。
 彼のことを半ば忘れかけてきた頃、菊池は劇団の新入りとしてひょっこり現れた。背丈が伸び、青年らしい背格好になった彼は、歓迎会の席でグラス片手に、「あれえ? ひょっとしてシンヤくんじゃない?」と言って、無邪気に笑った。その笑顔は、僕の記憶にあったのと同じ、純真無垢な天使の微笑みだった。

 やっぱり、噂なんて嘘だと思った。パパラッチも記者も彼の真実を何一つ捉えていない。僕はささやかな優越感すら覚えた。右耳を飾るピアスはファッションの一環だと、時々彼の首筋に浮いている赤い痕は虫刺されだと、都合のいい言い訳を並べ立てて、僕にとって不利な事実には蓋をした。

 ――ずっと、それで正しいと思っていた、のに。
 菊池は、宮川の言葉が、週刊誌のスキャンダルが、まるで真実であるかのように、男慣れした風情で、呼吸(いき)も交わるほど間近く顔を寄せて、すらりとした指を僕の手に絡ませている。

「ね。ボクのこと、きらい?」
「……すきでは、ないね」

 やっとのことで答えた僕を、菊池は笑った。

「うそだね」

 彼の手がほどけた。と思うと、僕の上身が傾いた。視界がぐるりと回って、気が付いたら、菊池が僕にまたがっていた。

「意地張るなよ、シンヤ。ボクのこと、大好きなくせに」
「何を、根拠に」
「ベッドの下」

 自信げに笑む彼の言いたいのは、おそらく、そこにあったスクラップブックと彼の写真集のことだろう。

「あれは……」
「ふふ。まあ、何でもいいんだ」

 彼は指一本で、弁明の言葉を吐こうとした僕の唇を封じた。

「しようよ」

 そう言うと菊池は、腰の奥にぞくりとくるような、蟲惑的な笑みを浮かべた。

   *

19

 そして彼は、僕のズボンに手をかけた。ベルトを外し、あわよくばチャックまで下ろそうとする手を、僕はあわてて止めた。菊池はむっとして、少し姿勢を変えたけれど、僕の上からどこうとはしなかった。
 脚の間に挟まれた彼の膝が、なんとも、いやな感じだった。急所にナイフを向けられているようだった。僕は思わず身構えたが、彼の膝頭が与えたのは、存外柔らかな刺激だった。反応し始めたそこを見下ろして、菊池はうっすら微笑んだ。

「キミさあ。ボクで何回抜いたの?」
「そんなこと、してない。するわけない」
「じゃあ、これは、なあに?」
「……っ、最近、疲れてるから」
「ああ、疲れマラってやつ? 大変だね」

 菊池は、さも心配げな顔をしながらも、衣服越しの愛撫をやめない。絶妙な力加減に、思わずため息が漏れたが、僕は抵抗を諦めなかった。

「ちょ、っと。いい加減に……」
「トモダチから聞いたんだけどさ。こういうのって、ほっとくと、EDになっちゃうんだって」
「だから、なに」
「だからね。溜まってるのがね。よくないんだ。出しちゃいなよ。楽になるからさ」
「余計なお世話、だって」
「……強情だなあ」

 菊池は半身を起こすと、上衣を脱ぎ捨てた。
 襟ぐりに引っかかって乱れた髪を手で撫でつけて、小さく息をついた彼の、裸身のあまりの美しさに、僕は陶然として呼吸も忘れた。均整のとれた筋肉で隆起したなめらかな肌は、みずみずしい弾力を備えていた。生命力に満ちた彼の肉体の健康的な色香は、香水の匂いとまじりあって、めまいのするほどの官能と誘惑をもたらした。

 彼の鼻頭が、僕の鼻先に触れた。温かい吐息を唇に感じ、僕は言葉を呑まざるを得なかった。菊池がほんのわずか首をかしげて、唇が触れ合うと思った矢先に、彼は、ぱっと顔を離してしまった。口づけの叶わなかった肉体の哀訴が、胸に穴のあいたような喪失感を生んだ。肉体は、悪戯っぽく微笑む彼の色香の前に膝を折りつつあった。

「我慢はカラダに毒なんだよ」

 すらりとした指が、とうとうズボンの下に滑り込んだ。快い刺激を受け続けた下半身は、ものごとの優先順位を切り替えさせるべく、脳へ信号を出し始める。粘質な糸にからめとられるように、僕の思考は鈍っていった。

 蜘蛛の巣にかかった羽虫は、はらわたを引きずり出される前に、何を考えるだろう。きっと、取るに足らないことを気にしているのだ。葉脈の本数とか、星の数とか。――人間だったらきっと、天井のシミの数でも数えているに違いない。そうでなければ、やわらかく波打った髪を耳にかけて、グロテスクな獲物にかぶりつこうとする美しい捕食者をぼんやり眺めている。

 つややかな唇が、僕を食べた。上品な美貌を飾る彼の色よい唇が、決して奏でてはいけない音を奏でながら、肉棒を濡らした。手管は、間違いなく、熟練のそれだった。

 ――もう、見たくない。本能に圧し潰されかけた理性が喚いた。彼が濡れ事を演じる場面なんて、見たくない。考えたくもない。想像するのもいやだ。たとえ台本に書いてあったとしても、演技とわかっていてさえ、僕にはとても耐えられない。たとえその相手が僕だったとしても。
 彼は、清廉な美貌の主人たる彼は、その心根も清らかで、純真無垢であると信じていた。こんな獣じみた行為とは無縁であれと願っていた。しかし僕の信じていた純真は、彼の清らかな性質は、もはや、完全に失われていた。男根を腰の中に深々と呑み込んで、恍惚と微笑んだその顔は、悪徳と退廃に溺れたヴァンプそのものだった。

 僕は目を覆った。視界を閉ざしたところで、彼の暴力的なまでの色香が色あせるわけでもなかった。むしろより強烈に、鼻腔から、耳孔から、重ね合わせた肌から沁み込んだ。彼が腰を揺らすのをやめても、柔らかいひだが吸い付いて、僕をより深い酩酊に追いやった。

 汗ばんだ肌に、白いしずくが飛び散った。おろしたてのシーツにホワイトソースがこぼれたようだった。すらりとした指に拭い取られた後も、そこだけしみのように残って見えた。

 磨き抜かれた精巧なガラス細工に、手垢をつけてしまった時の罪悪感を、ふと、思い出した。

   *

20

 最悪の気分だった。生々しい行為の跡を残す湿ったカーペットも、彼も、直視したくなかった。

「よくなかった?」

 菊池が顔を覗き込んできたが、僕は無視を続けた。

「でも、ちゃんといけたよね?」

 自己嫌悪がよみがえる。僕は膝に顔を埋めた。肩にそっと乗った菊池の手を、僕は振り払った。

「……ボクのこと、きらい?」
「………………出て行って」
「お願い。それだけ聞かせてよ。そうしたら、キミの言う通りにするから」

 菊池の声には、答えを聞くまではテコでも動かないというような強さがあった。実際、彼は長い間そうしていた。僕は仕方なく口を開いた。

「昔は……軽くウザいと思ってた、けど、きらいってほどじゃ、なかった」
「……今は?」
「いま、は」

 二十歳を超えて、大人の男になった彼の、忘れたくても忘れられない表情が、声が、色香が、鮮烈に脳裏によみがえった。きっと僕は、これからずっと、彼の顔を見、声を聴き、匂いを嗅ぐたびに思い出すのだ。清らかさの対極にある、悪魔じみた彼の痴態を。
 喉の奥から声を絞り出して、僕は彼に言った。

「きらい、に、なれたら、いいと、思ってる」

 情けなく涙ぐんだ顔を見せたくなくて、僕はずっと俯いていた。だから、何も言わずに出て行った彼が、どんな顔をしていたのかわからない。
 玄関のチェーンの外れる音がした。やがて扉が重い音を立てて開き、また、閉じた。

   *****


【NEXT】