26

 悪い夢を見ていたのだ。あの嵐の夜に、ドアチャイムから始まった一連の出来事は、すべて悪い夢だったのだ。そう考えると、少し気が楽になった。もちろん、それで菊池と体を重ねてしまった事実が消えるわけではない。でも、僕の精神衛生を保つためには、そうでもしないと、やってられなかった。

 いっそ、忘れられたらいいのに。宮川から聞いてしまった本性も、めまいのするような色香も、それに流されてしまったことも、何もかも忘れて、彼の清廉潔白を今も信じていられたら、どんなに幸せだろう。

 あの時、彼を拒まなかったことが悔やまれる。もし、あの日彼の手を振り払うことが出来ていたなら、もしかしたら、僕の心は今も平穏を保っていたかもしれない。悪魔じみた彼の痴態を見てしまうことも、それに心を乱されることもなく、今まで通りの平穏な日常が、静かに過ぎていったかもしれない。――だけど、そうかといって、僕に、彼の手を、払いのけることなんて……。

 やり場のない後悔と憂鬱は晴れることなく、十二月二十八日がやってきた。垂れ幕や紙の鎖で飾りつけられた貸会議室に、劇団員の大半が集まっていた。忘年会だ。菊池もそこにいた。

 思えば顔を合わせるのは、一線を越えてしまったあの悪夢の夜以来だった。
 菊池はしゃれた都会風の装いで、椅子に足を組んで、取り巻きたちと談笑していた。――目が合った。彼は、ほんの数秒僕を見つめた後、ふいとそっぽを向いた。かすかな胸の痛みとともに、僕はわずかな安堵を覚えた。

 ささやかな酒宴が始まった後も、僕と彼とは、互いに離れた席で、隣近所との談笑に、熱中しているふりをした。

 きっと、この距離感が、この先も続いていくのだろう。必要以上に顔を合わせることも、口を利くこともない、ビジネスライクな関係が、ずっと。そういう距離感は、案外、心地いいのかもしれない。ほろ苦い麦酒のように、はじめは眉をひそめた苦味にも次第に慣れて、そのうち、脳の働きの鈍るのが、心地よくなっていくのだ。

 やがて、宴もたけなわ。菊池を含め、まだ比較的元気のある若者連中は、ツイスターゲームで盛り上がっていた。そのかたわらで、はしゃぎ疲れた大人たちは、人もまばらなテーブルで、大皿の残り物をだらだらと消化しながら、湿っぽい愚痴をこぼしていた。退屈な話に、僕は適当に相槌を打った。ちらと時計を見た。二十一時を回ったところだった。

「なあ、伏見君。あの『Dの鏡像』。リメイクして来年やらないか?」
「……またその話ですか」

 僕は座長に苦笑いを返した。宴会仕様に飾り付けがなされていても、普段打ち合わせに使っている場所だと、どうしても仕事の話をしたくなるようだ。

「いいじゃないか。僕はあれが好きなんだ。あの作品がなかったら、君を劇団に誘おうなんて、考えもしなかった。なんてったってデビュー後に君が手がけたドラマはひどい出来だったからねえ。監督も演出家も俳優も撮影陣も実力派を揃えて、万全の体制を整えていたのに、視聴率は見事な右肩下がり。僕も拝見したけれどね。まあ……酷いとまでは言わないけれど、脚本家の登竜門もえらくハードルが下がったものだと、がっかりしたのを覚えている。

 ……おっと、気を悪くしないでくれたまえよ。別にけなしているわけじゃないんだ。今は違って、僕は君に、大いに期待しているんだからね。本当だよ。

 ええと、それで、どこまで話したっけな……。ああ、そうそう。それで、君のデビュー作が放映された後、枚方君が妙に塞いでいるから、どうしたのかと尋ねたら、例のDVDを見せてくれたんだ。『Dの鏡像』をね。
 駄作ドラマの作者と同一人物とは思えないほど、素晴らしい出来だったよ。とはいえ、誰でも人生で一つや二つは、素晴らしい作品を作れるものだというのが僕の持論だから、『Dの鏡像』がたまたまよかっただけなんじゃないかって、そう言ったら、『まぐれで入賞できねえだろ!』って枚方君にこっぴどく怒られてねえ。伏見君の本来の実力はこのDVDの方で、今度のドラマは、絶対に制作が何かやらかしたんだと言って聞かなくて……おや、どこへ行くんだい?」

 顔を赤くして席を立った枚方に、座長が白々しく声をかけた。

「……トイレだよ!」

 そう言って彼は、ドアへ向かってずんずんと歩いていったが、部屋を出る間際に振り返った。

「伏見! 道明寺さんは、かなり、大げさに、言ってるからな!? 本気にすんなよ!」

 枚方はドアを叩き閉めようとして――途中で思いとどまったらしい。静かに閉まった扉を見て、座長は愉快げに笑った。

「いやあ、彼は実にいいねえ。追いつめれば追いつめるほど面白くなる」
「そうですね。会うとああなのに、メールの文面は妙に丁寧ですし」

 七年前、演劇部生の集まる大ホールから引き上げようとしていた僕らの方に、息せき切って駆け寄ってきた近畿ブロックの学生は、DVDの郵送が済んだ後もまめまめしく近況など報告してくる。年末か年明け頃に、また腰の低いメールを送ってくるであろうことを考えると、思わず笑みがにじんだ。

「それで、枚方君があんまり、君らのことをよく言うのでね。ちょっと妬けたというとおかしいけれど、まあ、僕自身、釈然としないところもあったのでね。例のドラマの制作に携わった奴にちょうど会った時、言ってやったんだ。ねえ君、今度のドラマは随分ひどい出来だったじゃないか。何かあったのかい? って。で、聞くところによると、キャスティングで一悶着あったそうじゃないか。

 なんでも、当初君がヒロイン役に推してた女優が、降りたんだって? 監督たちが説得したけれど、結局止められなくて、別の子が主役を演じることになった。つまり主演女優が代わったわけだが……妙なことに、ヒロイン役ばかりでなく、ヒロインの友人役、母親役、上司役もこぞって、嫌だ、降りると言い出す。ちょっとしたミステリイだね。ことによると陰謀めいたにおいもする。僕はこういうミステリアスな話を聞くと、どうしても首を突っ込んでみたくなる性分でね。それこそ探偵にでもなった気分で、役者陣にさらに聞き込みをすることにしたんだ。電話でね」
「…………人脈、広いですね」
「僕の美点の一つだ。それで、降板した役者陣に聞いたところでは、よそから圧力を受けたとか、そういうことは一切ない。単純に自分の意志で降りたと言う。ただ、そこのところを詳しく掘り下げてみると、奇妙なことに、皆が皆、口を揃えて『こわかった』と言うんだ。それはオカルト的な話かって聞いたら、そうじゃない。『役に食われるのがこわかった』と……。

 要は、君の台本がおそろしくて降りたらしいけれど、実に不思議な話だ。そして実に面白い。それで僕は君に、興味がわいたんだよ。台本一冊で役者の心をことごとくへし折る人間とは、一体どんなものだろうとね。

 ……ところが会ってみると、存外、普通の青年だ。いや、悪いことじゃない。歓迎してる。なんせ僕の周りはおかしな奴が多いからね」

 そう言って座長は、ツイスターゲームをしている連中の方――おそらくは星崎さん――を一瞥して、また、僕の方に目を戻した。

「でもね、そういう良い意味での平凡さはね。作品には求めていないんだよ」

 彼はコップを口に運ぼうとしたが、中身はもうなかったはずだ。僕の注ごうとしたのをやんわり断って、手酌したウーロン茶で口を湿らすと、彼はまた続きを喋り始めた。

「テレビ局の連中はどうか知らないけれど、少なくとも僕はね。多少エッジのきいた作品でもいいと思っているんだ。……面白ければね。
 ああ、もうこの際だ。はっきり言ってしまおう。僕は保守的なのが嫌いなんだ。人の顔色をうかがって、毒にも薬にもならない消耗品をせっせと生産するくらいなら、いっそ劇薬でもって皆殺しにすればいい。その方が思い切りがよくて、清々しい。右へならえのお利口さんより、僕はそういうのの方が断然好きだ。台本一冊で役者を酔わせたり、恐怖のどん底に陥れたりする問題児の方がね。
 しかしながら、この頃の君の作品からは、なんていうか、勢いというか、生命というか、何かそういうものを感じられないんだ。Dの鏡像には確かにあって、そして、枚方君を信じるなら、キャストが変わる前のドラマにも、きっとあったのであろうそれが、申し訳ないが、僕にはまったく感じられない。あんまり落差があるんで、もしかしてゴーストライターでも雇っていたのかと……いや、すまない、これはちょっと言い過ぎたね。ごめんごめん。悪かったから、そんな怖い顔をしないでくれたまえ。

 ただね、ただ……僕は期待しているだけなんだ。君なら『Dの鏡像』の感動をもう一度、いや、それを超えるほどの感動を生み出してくれるんじゃないかって。『Dの鏡像』を演じきった西宮君が一緒の今なら、なおさら。DVDを見るたびに、枚方君の半ば信者じみた君らの演説を聞くたびに、その期待が高まっていくんだ。高まりすぎて、僕の胸はそろそろ張り裂けそうなんだよ。おそらく、来年の今頃がリミットだろう」

 彼は一拍おいて、にっこりと微笑んだ。

「だからね、伏見君。来年やろうよ。一緒にもう一度、素晴らしい夢を見ようじゃないか」

 少年のような眼差しが、黄色い眼鏡越しに僕を見つめた。しかし僕は、その期待には、きっと応えられないだろうと思った。

 この件に関しては、座長からは前々から言われている。そのたびに考えてはみるのだが、どうしても、駄目だった。菊池の演じたルイのイメージが強く、また完璧すぎたために、他を想像できないのだ。もはや『Dの鏡像』は若き菊池によって完成させられたと言っても過言ではなく、むしろ手心を加えることで、非のつけどころのないその形が、崩れてしまうように思われた。――菊池に抱いていた幻想が壊れてしまった今は、なおさら。そして今現在、僕が菊池に対して、かなり大きな苦手意識を抱いていて、彼の良い姿をもはや想像できないであろうことも、その考えを強めた。

 菊池よりは、枚方の方が、まだ可能性があるだろう。彼が僕の脚本をどう演じてくれるのかはとても興味深いことだったし、また、清らかな理想の美青年像を枚方の中に見出しかけていたこともあって、僕は、枚方の主演でならリメイクを検討すると座長に伝えようとした。

 西宮じゃなくて、枚方でなら――。そう言いかけたところで、大きな物音がした。
 ふわりと、甘くて、スパイシーな香りがした。振り返るまでもなく、そこにいるのが誰かわかった。

 菊池はひっくり返った椅子のそばに、仁王立ちしていた。紙コップ片手に、僕を睨みながら、一つ、しゃっくりをした。
 彼はそのコップの中身を喉に流し込むと、半ば叩きつけるようにしてテーブルに置いた。勢いあまって倒れたコップには、まだ少し中身が残っていたらしい。橙色の液体をまき散らしながら、紙コップはテーブルの上を転げ落ち、やがて僕の靴のそばで止まった。

 おそるおそる、顔を上げた。彼の目は据わっていた。頬には赤みがさしていた。酩酊しているのは明らかだった。テーブルを囲っていた人たちが、ひとり、また一人と、紙のコップや皿を手に逃げて行く。――――彼が、酔うとキス魔になるというのは、劇団内ではよく知られた話だ。
 あやしい笑みを浮かべながら、悪魔は逃げ遅れた僕のそばに寄ってきて、膝の上に陣取った。

「『ルイ』はー……ボクの役だー…………そーだろ?」

 熱と潤いを帯びた眼差しが、僕の瞳に注ぎ込まれた。顔にかかった息は強いアルコールの臭いがした。菊池は、また一つしゃっくりをして、僕の頬をつまんだ。

「ボクがいちばん、魅力的だしー……上手にできるしー……ボクにしとけばぁ、まちがいないからぁ」
「……やめろ、酔っぱらい」

 彼の手は簡単にほどけた。膝の上からどくように言うと、菊池は頬を膨らませて、

「なんでわかんないんだよぉ、もぉー。わかんにゃいやつは、こーらぁ……」

 と、僕の頭を抱いてきた。その意図は、言うまでもない。こんな衆人環視の下でキスなんて絶対にしたくない。僕は近づいてくる唇から顔を背け、本気で菊池の肩を押し返した。彼の方も退く意志がないらしく、やや劣勢だったが、均衡は続いた。といっても、ほんの十数秒のことだろう。不意に菊池の力が弱まったことで、力比べは終わった。それは諦めたというより、糸の切れたような感じだった。弛緩した彼の上半身は、障害物――椅子に掛けた僕の体のことだが――に沿って、ずるずると沈み込んでいった。

   *

27

 両腕をぐったりと投げ出して、険しい呼吸をする彼を抱き起して「菊池」と声をかけてみると、うなって返事らしいことをする。星崎さんに頬をつつかれると、うっとうしそうに反対へ顔を向ける。意識はあるが、起きるほどの元気はない。そんな風に見えた。

「……ふむ。少々、効きすぎたかな?」
「何かしたんですか?」
「レディーキラーだね」

 テーブルに零れたオレンジ色の液体のにおいをかいで、座長が星崎さんの代わりに答えた。

「ジュースにこっそりウォッカでも混ぜたんだろう。未成年者もいるというのに、悪質な悪戯だ。こういうしょうもないことをする奴と血の繋がっていることが、僕の最大の汚点だ」
「まあまあ。そんな怖い顔をするなよ兄弟。結局サミー君が酔って伏見君に絡んだというだけの、かわいい悪戯だったんだから、いいじゃないか。それにサミー君に飲ませたのだって、ほんのちょっぴりだよ。他の大人と同じくらい。もちろん、各々のキャパシティは考慮したうえでの、ちょっぴりさ。それに私は、子供のコップには混ぜていない。その証拠に、見たまえ。向こうの未成年はピンピンしてるだろう?」

 星崎さんはツイスターシートの広げられた、部屋の隅のスペースを指さした。さっきまで元気に騒いでいた連中の何人かは床に転がっていたけれど、少年少女は平然としていた。

「まだ片付けも残ってんのに馬力減らしやがって。てめえ代わりに働けよ」
「ははは。いやいや、敷島さん。海千山千の三十路を駆り出さなくても、ここはエネルギッシュなティーンエイジャーで事足りるよ。それに私には家族や美男美女を無事に家まで送り届けるという崇高な使命がだね」
「その使命を果たすのなら君よりもタクシー会社に依頼する方が賢明だね。しかも君の言う使命とやらは、片付けが全く済んでからでも遂行可能だ。僕は全然待つし、君の被害者のタクシー代とウコンドリンク代は全部君に付けよう。それで万事解決だ。よかったよかった」

 座長はちらりと時計を見た。枚方の戻るのを待って、締めの挨拶を始めた座長のその横で、僕は菊池の肩を軽くゆすった。

「菊池。ねえ、ちょっと。大丈夫?」

 声をかけつづけていると、菊池がうなった。起きるか、と思ったが、少し身じろぎしただけだった。彼の両手が、いつの間にか僕の服を掴んでいることに気付いたのはその時だった。
 この指ははがれなかった。一本ずつ、ゆっくりはがしても、またすぐに元に戻る。彼の手の平と僕のセーターのウエストの中に磁石でも入っているかのようだった。あるいは起きているのかもしれないと思い、先ほどのお返しで頬をつねってやったが、彼は口を利かなかった。

「君がそうしてると、僕、帰れないんだけど」
「………………」
「片付けの、邪魔になるよ」

 会場の飾り付けを外したり、ゴミを片付けたりと、撤収の支度は着々と進んでいく。菊池は相変わらずだった。どうも寝息まで聞こえ始めた。こうなると、もはやどうすることも出来ないので、せめて邪魔にならないよう、僕は菊池を引きずって、壁際へ逃げた。
 彼をどうしようかと考えあぐねていると、スマートフォン片手に、御影(みかげ)が歩いてきた。

「星崎さんのせいで運転手が軒並みやられてしまったので、俺たち……というより、ほとんどみんなタクシーで帰るんですけど。伏見さんはどうします?」
「ああ、じゃあ、一緒に頼める? ついでに、彼、送っていくから」

 送って――――そういえば、彼は今どこに根を張っているのだろう。

   *


【NEXT】