28

「あたまいたい」

 真っ黒な空を見つめながら、菊池がつぶやいた。彼の取り巻き筆頭の御影に家を聞いたがわからず、本人に尋ねようにも起きないので、とりあえず僕の家の方に向かった。でも、さすがに彼を部屋へ上げるのははばかられたし、大の男を担いで運ぶのも骨が折れるので、マンション近くの公園のベンチに、チェスターコートを掛けて転がした。
 ボトル入りのミネラルウォーターを渡すと、菊池はゆっくりと半身を起こした。

「かなりきついお酒、飲まされたらしいね」
「ああ。なんか入ってるなあ、とは思った。でも美味しくてさあ。気が付いたら、酔ってた……のかな? よくわかんないけど、あんまり、悪い気分じゃなかったかな。そのときは。うん」

 ボトルの中の透明な液体が、右に左に揺れながら、少しずつ彼の喉の奥へ流れ込んでいった。上下する喉仏を眺めるのを途中でやめて、僕はスマートフォンの電話帳を開き、タクシー配車室の番号を探した。

「タクシー呼んであげるから。自分で場所言って」
「やだ」
「じゃあここで寝る?」
「……それもいいかもね」

 菊池はベンチの隅に、まだ中身のあるボトルを立てて、再び横になった。毛布代わりに体に巻き込んでいるのが、僕のコートだということにふと気付くと、彼は投げ返してきた。僕は一つため息をついて、横たえた彼に再びコートを被せると、ベンチの背にもたれかかった。

「……帰らないの?」
「君が帰ったら、僕も帰るよ」

 声に笑みを乗せて、菊池が言った。

「やっぱり、キミ、ボクのこと好きだろ」

 僕は否定も肯定もしなかった。

「君って、いつから、そうなの?」
「なにが?」
「だから……」

 着信音が響いた。僕のじゃない。菊池がもぞもぞと身じろぎして、じきに電子音は消えた。

「電話じゃなかったの?」
「うん。アラーム」
「……そう」

 木枯らしが吹いた。刺すような冷たい風に、思わず身がすくんだ。

「で、さっき言いかけたの、何?」
「べつに。大したことじゃない」

 彼はそれ以上追及しなかった。
 雪がちらつき始めた。かじかんだ手を息で温めていると、背中の方からくしゃみが聞こえた。

「帰れば?」
「シンヤこそ帰れば。暖房のきいたあったかい部屋で、ねずみみたいにチーズかじりながら映画でも見てろよ」
「君が帰ったら、そうするさ」

 口を閉ざすと、再び静寂が訪れた。街灯に照らされたこのベンチの周りだけ、世界から切り取られてしまったのかと思うほど、しんと静まり返っていた。菊池が寝心地の良い場所を探す衣擦れの音すらしなくなったので、もしかして眠ってしまったのかと、ふと振り返ると、ぱっちりと目を開けていた彼と目があった。

「野良猫とかに餌付けするの好きだろ」
「僕が?」
「うん」

 菊池はコートの端を抱き込んで、背を丸めた。

「面倒見る気もないくせに、甘やかして、餌やって、手懐けて。でも、飼うのは結局、血統書つき……」
「猫は、飼わないよ。アレルギーだから。……だけど、死にかけてたら、保護くらいはする」

 僕はマフラーをほどいて、彼の首にかけた。マフラーの黒は彼には全く似合わなかった。
 街灯が、ちかちか点滅した。心もとない光の下で、白雪に紛れるようにひらひらと舞っているのは、蛾だろうか。

「本当のことを、教えてほしいんだけど」

 おもむろに、僕が深刻な声を発したので、菊池は、ぱちぱちと瞬きした。

「どうして君は、あの日、僕と、その…………一線…………あー…………」
「一発ヤろうと思ったか?」

 美貌にそぐわない粗野な言葉遣いに思わず眉をひそめたが、僕の言わんとするところは、全く彼の言う通りだったので、首肯した。

「そう。…………どうして?」
「そんなの、ヤりたかったからに決まってるだろ。お腹が空いたら食べるし、眠くなったら寝る。SEXしたくなったらする。フツーはそうじゃない?」

 菊池は少し呆れた様子で、僕の質問を不可解に思っているかのような調子でそう言った。僕は、彼のその態度にも、言葉にも、少しも共感できなかった。むしろ反感をさえ覚えるほどで、この後に発した言葉にもとげとげしさがにじむのを抑えきれなかった。

「君は、同性愛者で」
「うん」
「経験、豊富で」
「うん」
「自分の欲求を満たせるなら、相手は誰でもいいのかも、しれないけど」
「それは誤解だよ。ボクにだって好みがある。たとえば……」

 菊池はちらっと僕の顔を見た。

「たとえば、背が高くって、スマートで、とっても頭が良くって、左目の泣きボクロがセクシーな人とかさ。寒空の下で肩を抱いて震えている時に、そういう人がやさしく抱きしめてくれたりしたら、まあ、一緒にホテル行ってもいいかなあ、とは思うよ」

 菊池は小さく息をついて、体を起こした。彼はベンチの背に腕を乗せて、振り返りざまに言った。

「でも、どうして急にそんなこと聞くの? ……もしかして、ボクと付き合いたいとか思ってる?」
「そういうんじゃない」
「……あ、そう」

 彼は顔を伏せた。ため息もついたようだった。白い息が煙のように夜の闇に消えた。重力に従った髪が彼の美貌に暗い翳を落としていた。街灯の光のわずかに届いている口元には、陰気な笑みが浮かんでいるように見えた。

「でも、たとえキミが望まなくても、ボクがそれを望むなら、キミはボクに従うより他にないんだけどね」
「…………え?」

 彼は顔を上げた。ファッション誌でよく浮かべていた微笑みを浮かべ、打って変わって陽気な声で彼は言った。

「雪も降ってきたし。いつまでも、ここでこうしてたって、仕方ないしね。いいもの見せてあげる」

 彼はポケットからスマートフォンを出して、何やら操作した後、画面を僕の方に向けた。
 バックライトに一瞬目がくらんだ。やがて明るさに慣れた目に、一枚の写真が映った。
 カーペットの上に横たえる、裸の男の写真。手のひらで目を覆い隠しているが、間違いない。情事の最中であることは明らかだ。いつの間に撮ったのか知らないが、心当たりは他にない。彼が、僕のこんな姿を写真に収めることが出来るのは、あの日しかない。
 こんなものが存在する時点で、気が遠くなるというのに、もっと悪いことには、その写真の手前に、僕の住所と本名とが印字された茶封筒が一緒に映り込んでいる。わなわなと唇が震えたのは、きっと寒さのせいだけではなかった。

「よく撮れてるだろう?」
「……消して」
「やだ」
「消してって!」
「無理だよ。もう送っちゃったもん」
「どこに」
「いろいろ。雑誌社とか、テレビ局とか、撮影所とか……まだネットには流してなかったかな? どうだったかなあ」

 芯まで冷えかけていた体が、いよいよ寒気を増した。思わず覆った口元はひんやりと冷たかった。しかし先ほどの写真がまかり間違って世に流れてしまった時の世間の目はもっと冷えきっているに違いない。

「あはは! 大丈夫だよ。まだ記事にはしないでって、ちゃんとお願いしてたはずだから。……それにね? シンヤがボクのお願い聞いてくれるなら、写真のことは、ずうっと内緒にしておいてあげても、いいと思ってるんだ」

 甘ったるい声と笑顔で、彼は僕を脅迫した。その表情は、愛嬌たっぷりの、さも悪徳を知らぬかのような美しい微笑で、思わず見惚れてしまいそうなほどだったが、そんな余裕は僕にはなかった。たった一枚の最悪の写真のもたらす、あらゆる悲劇が、僕の脳裏で次から次へと上演された。不安と恐怖で、脈拍は乱れに乱れていた。吐き気さえ感じた。天を仰ぐと、真っ黒な空から白い粒がぐるぐる回りながら襲い掛かってきた。少しして、僕はこれがめまいだと気づいた。
 畳みかけるかのように、着信音が鳴り響いた。おそるおそる、ポケットに手を突っ込んだ。震えていたのは、僕のスマートフォンだった。番号は通知されていたが、登録されてはいなかった。

「誰から?」
「こっちが、聞きたいよ。君の、知り合いじゃ、ないの」

 半ば過呼吸になりながらも、彼にナンバーを見せた。それでもまだ着信音は続いている。菊池は眉間にしわを寄せ、画面をタップした。音は途切れた。

「イタ電だと思うよ。これは、多分」

 彼はそう言って、微笑んだ。
 僕の呼吸も整わないうちに、また携帯が鳴った。今度はショートメッセージだった。発信者は先ほど掛かってきた電話と同じ番号だった。――一分と間を置かずにメッセージを送ってきたのは、どうも、星崎さんのようだった。

『星崎です。君がサミー君を送ってくれたと聞いたんだけど、うちに帰っていないようなんだよ。どこに行ったか知らないかい?』

 この文面を見せながら、僕は菊池に訊ねた。

「君、今、星崎さんと住んでるの?」

 菊池は唇をとがらせて、ふいと横を向いた。

「今っていうか、先週までね。キミがボクを捨てた日に、ボクを拾ってくれたから」
「……そうなんだ」

 僕はゴクリと唾を飲んで、乾く唇を湿らせ、彼に尋ねた。

「付き合ってる……の?」
「ううん。向こうが、どうしても一緒にいてほしいって言うから、そばにいてあげただけ。……なのに、しつこくて。参っちゃうよ」

 そもそもボク、背の低い人は好みじゃないし。そう言って、菊池は肩をすくめた。

「ま、どうでもいいじゃないか。そんなこと、今は」
「いや、よくない……だろ。君、星崎さんとちゃんと話し合った方がいいんじゃないの。……さっき君に掛かってきた電話、もしかして星崎さんからだったんじゃないの? 心配してる、と思うし。お世話になったんだったら、ちゃんと、筋通しなよ」
「シンヤ、キミって心底、お人好しだね。……他人の心配なんかしてる場合じゃないって、わかってる?」

 菊池は小首をかしげてにっこり笑うと、スマートフォンを――その非常に高画質の脅迫材料を――僕の目の前に突き付けた。

 重い足取りで家へと帰る道すがら、僕はつれづれと考えた。
 もしも時間を戻せたら、に訪問してくる輩は、どうせろくでもない奴なのだから、何度チャイムを鳴らされても絶対にドアを開けるなと自分に言い聞かせる。たとえ本能が彼の魔性に屈したとしても、断固として彼を受け入れたりはしない。――いや、でも、もしかしたら、去り行く彼の手を、僕があの時取っていたならば、彼は、こんな風には――――。僕は首を振った。考えても、仕方のないことだ。僕は取り留めなく浮かんでくる、無意味な妄想に蓋をした。

 僕の愛した天使は死んだ。今の僕は、悪魔じみた笑みを浮かべて玄関の鍵の開くのを待っている、外見だけ品よく整ったこのろくでなしと、どうにか上手くやっていくよりほかにないのだ。

【END】