「出るらしいよ」

 器用にはさみを使いながら、そばかす顔の男が言った。

「ヒラサカの辺りに」
「なにが?」
「死んだのが」

 しゃく、しゃく、とはさみに切り落とされた髪が、静かにタイルへ散ってゆく。

「蝶になって、戻ってくるらしい」

 それで、男は話を一段落つけたつもりらしい。ケープを被った美青年が、くすりと笑った。

「マモルって、話下手だよね。理容師のくせに」
「いいんだよ。切るのが、仕事だから」

 男はしばらく黙ったが、サミュエルが続きをねだると、再び口を開いた。

「大学通りの、古本屋曲がった先にさあ、ながぁーい階段あんじゃん。あそこ、もともと坂だったんだぜ。ヒラサカっていう。……知ってる? ヨモツヒラサカ」
「なんだっけ。聞いたことあるかも」
「この国の、神さまの話だよ。旦那さんが、死んだ奥さんに会いに、死者の国に行って、で、振り返っちゃだめよって、言われたのに、振り返って。ぐちゃぐちゃの、どろどろになった奥さん見て、ぎゃーってなって、逃げ帰ったやつ」
「……ヨモツヒラサカは?」
「道。行って帰ってで、二回通ったんだ。死者の国は、坂の下にあるから。で、あの階段。今は、階段になっちゃってるけど、もともとは、ヨモツヒラサカ……あの世とこの世の、境目になってたとこなんだ。だから、たまに、変なのが迷いこむ。狭間の時は、特にそう。
 だから、あそこは、オウマガトキに、絶対、ひとりで通っちゃいけない。
 行き遭ったら、魅入られる。気をひいたら、連れていかれる。目を合わせちゃいけない。振り返ってもいけない。何を見ても、聞いても、知らんぷりしなきゃだめ。……わかった?」

 男は、ずいっとサミュエルに顔を寄せた。妙な威圧感に呑まれて、サミュエルが頷くと、男は満足げに「おし」と呟いて、洗面台に湯を流し始めた。

「もともとはここいらも、ヨモヤマじゃなかった。ヨミヤミだった」
「なあに、ヨミヤミって」

 ぐるんと椅子が反転した。仰向けになったサミュエルに、男は走り書きのメモを見せた。――黄泉闇、と、書かれていた。



 例の大学通りに差し掛かった時、理容師の話を思い出した。
 ――――ばかばかしい。サミュエルは脳裏に描いた迂回路を、頭を振って消し去った。

 古本屋を曲がって夕闇の細道をさらに歩いていくと、眼下に階段が見えてきた。左手には高い石垣がそびえ、右手には繁茂した木々の太枝が張り出して、石段に暗い影を落としていた。
 木陰になっている石段の右半分は年中日が当たらないらしく、濃密なコケに覆われていた。木々の奥からは湿ったいやな空気が漂い、魔物でも潜んでいそうなほど暗かった。

 あの鬱々とした闇が、サミュエルにはどうにも不気味で、恐ろしく思われた。あの闇の中から、何か恐ろしいものが飛び出してくるのではないか。白い腕がぬっと伸びてきて、そのまま、体ごと、引きずり込まれてしまうのではないか。そんな考えが、後から後から浮かんできた。
 通り慣れたなじみの道が、こんなにもおそろしく感じるのは、怪談話などをした、あの理容師のせいだ。彼は理容師を恨みながらも、なるべく暗闇へ意識を向けないようにして、足早に階段を降りていった。

 石段の半分を下りた辺りだっただろうか。サミュエルはふと、甘い匂いを感じた。薄暗い林の中には似つかわしくない、極上のウィスキーボンボンを気化させたような、甘ったるい香り。サミュエルは無意識のうちに出所を探した。そしてふと、林の方へ目を向けた時だ。サミュエルは「ひっ」と悲鳴を上げた。例の真っ暗な闇の中に、人の姿を見た気がしたのだ。

 驚きのあまり、サミュエルの心臓は今にも破裂しそうなほどバクバク鳴っていた。冷や汗も垂れた。逃げようとの考えは、確かにサミュエルの頭をかすめた。しかし動けなかった。凍り付いたように立ち尽くして、闇の中でひっそりと佇む“それ”から、目を逸らすことができなかった。

 “それ”はやはり人の形をしていた。季節外れのロングコートをまとい、頭には中折帽を被っていた。うつむきがちで、顔は判然としなかった。加えて、中折れ帽のつばの下にある丸眼鏡が顔を覆い隠していて、それが男か女かもわからなかった。ただ、とりあえずは人間らしい姿かたちをしていたので、サミュエルは胸を撫でおろした。

 とはいえ、冬の寒さもとうに過ぎ去り、夏の気配すら感じるこの時節に、コートなどを着て、闇の中にジッと立ち尽くしているようなあやしげな者である。気味の悪いことには変わりない。
 まじまじ見つめていると、レンズ越しに目の合った気がした。“それ”は、サミュエルに語り掛けてきた。男の声だった。

「ごきげんよう。随分とお目にかかりませんでしたが、憶えていらっしゃいますか? 私のことを。ユリシスの名を。……ほら、貴方がこんな黄昏時(たそがれどき)に、殺した男のことですよ」

 男の言葉は、サミュエルにとっては全く妄言であった。それが殊更に、男の不気味さをかき立てた。しかし同時に男の声は、すぐに立ち去ることをためらうほど、魅力的な響きを帯びていた。サミュエルは相変わらず、男の前を動かずにいた。往来の素晴らしい歌い手の声に惹かれて、心ならずも足を止めるように。

「ふふ。……その顔は、やはり、忘れておいでなのですね。ええ、そうでございましょう。貴方様は、薄情でございましたから……」

 男が、サミュエルの頬へ今にも触れそうな距離に近づくまで、サミュエルは、ぼうっとしていた。すんでのところで我に返り、夕陽に照らされた石垣の方へと後ずさった。その逃げる動きが、たいそう怯えた様子だったので、男はクスクスと忍び笑いをした。

「また会いましょう」

 男は帽子を頭から下ろすと、その内側をサミュエルの方に向けた。と、おびただしい数の蛾の群れ――少なくとも、夕陽に照らされるまでは蛾に見えた――が飛び出してきた。何匹もが、サミュエルの髪に、顔に、服に、手足に、まとわりついた。あまりの猛攻に目も開けていられないほどだった。少し勢いの弱まった頃に、顔を覆った指の間からおそるおそる覗くと、大群が茜空へ上っていくのが見えた。その(はね)は、蛾にしては華やかで、美しかった。

 気付けば薄暗がりには、もう、何もいなかった。



 慌ただしく靴を脱ぎ捨てるやいなや、サミュエルはルームメイトへ駆け寄った。彼が「どうしたんだよ」と言い切らないうちに、肩をがっしと掴んで、激しくゆさぶった。

「幽霊なんて……幽霊なんて、いないよね!? ね!?」
「はあ? そんなもんいるわけ……」

 咲也は一旦言葉を切った。サミュエルの尋常ならざる気迫に気付いたのだ。彼は息を呑み、わなわなと震える指で、サミュエルの左肩を指さした。

「そこ。……なんか、乗ってるぜ」

 サミュエルは絶叫した。涙声でわめきながら部屋の中を走り回るのを見て、咲也はからからと笑った。

「うそうそ! 幽霊なんかいるわけないじゃん」

 サミュエルは恨みのこもった眼差しで咲也を睨んだ。

「ごめんって」
「……許さない。キミ、向こう十年、掃除洗濯食事係」
「一瞬のお茶目にしてはペナルティ重くね?」
「軽すぎるくらいだよ。さあ、ボクの温情に感謝して早くご飯を準備するんだ」
「横暴にもほどがあんだろ……」

 文句を言いながらも咲也は、キッチンの方へ歩いて行った。彼がきちんと仕事をやり遂げるかどうかを見張るため、サミュエルはダイニングテーブルに陣取った。サミュエルが机の上にあった一枚のビラに気が付いたのは、ちょうどその時だった。

「なにこれ?」
「ああ、それ。大学の前で配ってたんだ。ちょっとキョーミあるから一応貰っといたんだけど……今、考え中」
「ふーん……」

 新興劇団のメンバー募集広告だった。聞き覚えのない劇団だったが、劇団員と思しき人々の写真はみな心からの笑顔を浮かべているように見える。演劇に熱中していた学生時分を思い出して、サミュエルは懐かしさを覚えた。一通り眺めた後、テーブルへ戻そうとしたが、何か引っかかるものを感じて、サミュエルは再びビラに視線を落とした。目を皿のようにして眺めていると、彼は程なく、劇団員の男女の中に、見覚えのある男が紛れていることに気付いた。それは、新谷湊人(あらやみなと)であった。

 彼はサミュエルの高校時代の同級生だった。人嫌いの御多分に漏れず、大抵は人の輪の外にいた。大半の学徒より頭一つ高く、かつその頭部に特徴のあったために、そうしていると、かえってよく人目を引いた。彼の自前と主張する、ヘーゼル色の髪と瞳とは、新谷自身はあまり好んでいなかったが、その優しげな色は、サミュエルの興味を強く引いた。

 彼の知的で、物憂げな雰囲気もまた、サミュエルを惹きつけた。彼の言葉は、時として世の正鵠(せいこく)を射ているかのように、真実らしい響きを帯びていた。そしてそうした言葉でサミュエルを諭す時の彼の穏やかな声音は、まるで天上の旋律のように心地よく、サミュエル自身も触れたことのない胸の奥の弦を、やさしく震わせるのだった。

 とりわけ彼の手によってつづられた『Dの鏡像』という一点の脚本は、サミュエルという人間の核心をついているようでもあった。彼から与えられた役を演じた時、サミュエルは、自身のこれまで被っていた仮面の束縛から解き放たれ、真の自身というものを衆目の前へあらわすことができたように感じた。舞台上で万雷の拍手とともに得た精神の高揚は、これまで彼の得てきたいかなる肉体的な快楽よりも、深く、凄まじく、抗いがたい悦びに満ちていた。そしてサミュエルはそれを与えた新谷のことも、何か特別のもののように思っていたのである。

 ――にもかかわらず、新谷湊人は、一度たりとも、サミュエルをかえりみたことがない。自他ともに認める美貌のサミュエルがどんなに誘いを掛けようとも、のれんに腕押し、ぬかに釘といった調子で、まったく歯牙にもかけなかった。百戦錬磨の彼の渾身の色仕掛けをもってしても眉一つ動かさず、まるで子供を相手にするように軽くあしらうので、己が美貌に全幅の信頼を置いていたサミュエルの矜持(きょうじ)は深く傷ついたのであった。

 そんな古傷のことなど半ば忘れかけていたサミュエルだったが、新谷の顔を見ると、古傷がじんわりと開き、内からふつふつと怒りが蘇ってきた。いつしかサミュエルは、手の中のビラを握り潰していた。

「あ、そうそう。俺、来週末泊まりで出かけるから……」

 と、振り返った咲也は「あー!」と叫んで、サミュエルの手からぐしゃぐしゃのビラをひったくった。

「何してんだよ、勝手に! まだ考えてるとこだっつったろ!?」
「ごめん。つい……。でも大丈夫だと思うよ? 破ったりはしてないし……」
「ったく……」

 咲也はビラを丁寧に開いて、机の上へ延ばした。しわくちゃになってしまったが、応募方法や連絡先などは問題なく読めたので、彼はほっと溜息をついた。
 それから彼はまたコンロに向き直ろうとしたが、サミュエルがまた妙なことをしている。彼はビラを見ながらスマートフォンをつついていたかと思うと、電話を耳元へと運んだ。

「何してんの?」
「んー? ひ・み・つ」

 サミュエルは咲也に背を向け、台所を離れた。コール音を耳にしながら、彼は悪魔じみた笑みを口の端ににじませた。

*****


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