劇団の入団審査はつつがなく進み、とうとう面接にまでこぎつけたわけだが、その最中、サミュエルは気が気ではなかった。

 面接会場は、さほど大きくないが小奇麗なビルの三階にある会議室だった。長机に掛けた面接官の向かいには、パイプ椅子が一つだけ置かれている。壁際へ追いやられた長机の隅には、覆いをした箱か何かと一緒に、関係者の私物と思しき鞄や帽子が寄せ集めてあった。

 机の上のごちゃごちゃしているのが少し気がかりではあるものの、まあよくある面接現場だとサミュエルは感じた。こうしたシチュエーションは、芸能界でモデルとして場数を踏んできた彼に特別なプレッシャーを与えるものではなかった。すなわちサミュエルの心を乱す原因は他にあったのである。

「まさか君が来てくれるとはねえ。いやね、枚方(ひらかた)君……T高OBの竹内君と言った方が伝わるのかな。竹内君に、『Dの鏡像』の録画を見せて貰ってね。気になってはいたんだよ」

 旧知の竹内との意外な接点に驚いたのではない。標的の新谷湊人の在籍を確かめたからでもない。それを語った面接官のその雰囲気が、あの日、東四谷(ひがしよつや)の長階段で出会った例の男に、よく似ていたのである。

 彼の快活そうな人柄を強調するかのような黄色い丸眼鏡も、耳なじみの良い低い声も、過日の薄闇で見聞きしたものによく似ていた。よくよく見れば机の上にあるパナマ帽は、暗がりの中で見たのと同じ形ではないか? しかし机越しにも、男は車椅子に掛けているのが見て取れた。――例の階段は段差が高く、とても車輪で登れるような地形ではない。目の前の車椅子の男が、例の長階段の中腹へたどり着けようはずがない。ありえないことだと、頭ではサミュエルも理解していた。だが目の前の男は、見れば見るほどよく似ていた。とりわけ彼の声は、あの闇中で聞いた怪しげな男の声とよく似た趣を帯びていて、聞けば聞くほど、例の男と同一人物らしく思われてならなかった。

「だいじょうぶかい? 顔色が優れないようだけど」
「……大丈夫です。すみません」

 サミュエルは天使じみた美貌に、営業用の微笑みを貼り付けた。
 ――ありえない。そう。ありうるはずがないのだ。ありうるはずが………………。でも、もしそうだったら、どうしよう? 男の問いかけにつつがなく答えながらも、あぶくのように浮かんでくる不安が、やはり、心をかき乱す。

 いっそ、尋ねてみようか? 車いすに乗るようになったのって、いつからですか、って。――いや、聞けるわけがない。それよりも、あの日、四谷の長階段に行きましたか、って、聞く方が、まだ……。
 悩んでいてもらちが明かない。サミュエルは意を決して尋ねることにした。

 しかし、黄色い丸眼鏡の男はキョトンとして、「僕は見ての通りだからね。足の悪くなかった頃ならまだしも、今は、あんな階段、とてもとても」
 ぶしつけな質問で、彼が気を悪くしなかったのは、サミュエルにとっては幸いだった。不思議そうに首をかしげた男に、「そうですよね。似ていたので、もしかしたらと思ったんですけど」とごまかすと、彼は今度こそ、面接に集中した。



 会議室のドアを閉めると、サミュエルはため息をついた。
 いやに疲れてしまった。階段を下る足取りも重い。エレベーターを使えばよかったと後になって思ったが、もう二階から一階へ降りるだけだったし、慣れない建物で何度か道を間違えてしまったこともあって、そのまま階段を使うことにした。

 踊り場まで来た時、サミュエルは足を止めた。不意に、強烈な、甘ったるい匂いを感じたのだ。濃厚なチョコレートやバニラのリキュールのような香り。頭のくらくらするようなこの甘い匂いは、最近、どこかで嗅いだことがある。しかし、一体どこで、嗅いだのだったか。考えるが、どうにも思考が散漫としている。ぼうっとして、サミュエルは階段を上ってくる男の靴音にすら気付かなかった。

「オヤ。ごきげんよう。また、お会いしましたね」

 サミュエルは思わず悲鳴を上げた。
 ねっとりとした声でささやき、帽子のつばをちょいと上げた男の顔は、先ほどまで会議室で話していた面接官によく似ていた。いや、似ているどころではない。そっくり同じに見えた。出で立ちも顔立ちも、寸分とたがわず、鏡に映った像のように瓜二つだった。

「あ……アナタ……足が、悪いんじゃ……」
「黄泉の国から参りましたので」

 男は黄色い眼鏡の下の目を細め、サミュエルに一歩近づいた。そして、ゆっくりとひざまずき、青ざめたサミュエルの頬に触れた。ひんやりとした冷たい手。まるで死人のようだった。サミュエルはぞっとした。はやくこの手から逃れなくてはと思った。だが、今自分の目の前にいるモノが一体何であるかと考えると、あまりの恐怖に身がすくんだ。頬をさする手の反対側へ、わずかに頭をかたむける以上のことは、サミュエルにはできなかった。

「お辛そうですなあ。もしや、私の毒気に()てられてしまいましたかな?」

 サミュエルは答えなかった。口を利くのが、恐ろしかったのだ。亡霊か、悪魔か、はたまた別の何かか。何にせよ得体の知れぬ気味の悪いものと、これ以上関わり合いになるのが、怖くて怖くてたまらなかった。

 ああ。じっと自分の顔を見つめるこの男に、一体、何をされるのだろう。命を取られるのだろうか? それとも、取り憑かれるのだろうか? 柳眉の先が力なく下がり、青灰色の瞳からじわりと涙がにじんだ。唇は恐怖にわななき、肌はすっかり血の気が引いて、磨き抜かれた雪花石膏(アラバスター)の様相を呈していた。悲愴に満ちたその美貌に、眼鏡の男は舐め回すような視線を注いで、にたにた笑いながら、

「ふふ。……ほぉら、お迎えが参りますよ。聞こえますか? 生者をうらむ亡者のうめきが。なきがらを運ぶ車の音が。貴方様の、死出の旅路の案内人を引き連れて、今に、やってきますよ……」

 男の言葉通り、遠くの方で確かに車輪の回る音がした。その音は次第に近づいてきて、階段の上の辺りで、やがて止まった。

「ああ、いたいた。タケ、やっぱり君が僕の帽子と眼鏡を――――何してるんだい?」

 声の方へ、サミュエルは緩慢に目を向けた。階段の上から、車椅子の男が怪訝な顔で二人を見下ろしていた。車椅子の方は眼鏡を掛けていなかったが、サミュエルの目の前で笑いを噛み殺している男と、実に、よく似た顔をしていた。



「……あの日、階段でボクを脅かしたのは、アナタだったんですね」
「そうだよ。人を脅かすのが私の趣味でね」

 会議室で休養させられている間、サミュエルは男とそんなことを喋った。「少し冷やしてみるかね? 気分がよくなるかもしれないよ」と、サミュエルに半ば強引にジェル状の保冷剤を握らせた後、男は思い出したように、青い丸眼鏡を掛けて自己紹介した。自分は星崎蝶二(ほしざき ちょうじ)の名で奇術を演じて飯を食っている者で、本名は桃園武彦(ももぞの たけひこ)桃園詠人(ももぞの えいと)――――つまり劇団の長でもあるこの面接官とは、一卵性の兄弟である、と。

「噂話とニュ―スの境界線が、ふと気になってね。どこまで話が広がれば新聞に載るのかと……。それで、知人にも協力してもらって、都市伝説を広めていたんだよ」

 星崎は、長机の上の立方体にかかっていた覆いを取った。現れたのは透明なケース状の虫かごで、中には所せましと蝶が入っていた。彼らが気まぐれに翅をはためかせるごとに、木肌色の翅裏と、黒で縁取られた鮮烈なコバルトブルーの翅表とが交互に現れた。

「蝶は魂の象徴だ。たとえば古代ギリシア語で“生命”や“魂”のことを“プシュケー”と呼ぶが、これは同時に“蝶”とも訳される。ギリシア神話にまさにその“プシュケー”という名を持つ女性が登場するが、彼女のエピソードそのものはさして蝶と関連しないにもかかわらず、しばしば蝶の翅を持つ姿として描かれるのは、どうもその辺りからの連想なのではないかと思うがね……。
 ともかく、そうした印象ゆえに蝶はしばしば、魂だけの存在――つまり亡霊や精霊といった存在と結びつけられてきた。昨今のフェアリーのモチーフなんて明らかに蝶だし、蝶を死者の化身や霊魂とする思想は、東西を問わず散見される。そして四方山市は、古来より常世(とこよ)信仰の盛んだった土地だ。おあつらえ向きに『比良坂(ひらさか)』なんて旧地名もあるし、今の『四谷階段』なんて呼び名もなかなか乙だ。そこで、あの辺りに怪談話の噂を広めて、蝶を放てば、どうだい? もっともらしい“怪異”に見えるだろう? 題して『四谷階段の蝶男』だ。この話をどこまで拡散できるか――――つまり、何人の善良なる市民諸氏を恐怖のどん底に陥れれば、都市伝説が単なる噂話の域を超えて社会現象となるかという問題を調査するのが、私の目下一番の暇つぶし……もとい、マイブームなんだよ」

 サミュエルは頬杖をついて、話の大半を聞き流していた。黄色い眼鏡と帽子の本来の持ち主たる弟は、一通り彼の自供を聞くと、大きくため息をついた。

「『四谷階段の蝶男』ね……。悪戯にしては随分手が込んでたじゃないか。そんな下らないことに使うために、人の家の客間を毛虫の養殖場にして、数年がかりで仕込みをしたのかい?」
「いやいや、だからそれは別件だよ。言っただろう? これらは舞台で使うんだって」
「どうだか」

 詠人は肩を竦めて、サミュエルへ顔を向けた。

「君。具合はどうだい?」
「おかげさまで。随分よくなりました」

 ――というより、そもそも具合は悪くはないのだ。顔色の悪いのは星崎に散々脅かされたせいだ。眉間にしわを寄せていると、詠人はサミュエルのそうした表情が体調不良からくるものだと考えたのか、心配そうに言った。

「でも、まだ少し顔色が悪いよ。遠慮しないで、ゆっくり休んでいきなさい。何なら、病院まで送っていこう。……構わないね、タケ」
「もちろん」
「いえ。お気遣いなく」

 サミュエルは間髪入れず断って、すっくと立ち上がった。

「そうかい? でも一応、病院には行った方がいい。大事はないだろうとは思うが、念のためにね」
「……ええ。そうします」
「もう帰ってしまうのかい? もっとゆっくりしていけばいいのに。――って、蝶が言ってるよ」

 サミュエルが鞄を拾い上げると、星崎は寂しそうに眉尻を下げた。彼の手にした虫かごの中では、蝶が慌ただしく舞っていた。
 ――実のところ、それは単に星崎が虫かごを右に左にゆさぶっているだけだった。それを冷ややかに弟に指摘されると、星崎は唇を尖らせた。

 暇を告げて、サミュエルは扉を開けた。すると彼の腕の辺りに、ひらひらと何か飛んできた。青い蝶だった。振り返ってみると、虫かごの蓋は全開で、青い蝶が部屋いっぱいに縄張りを広げて、遊んでいた。
 幸い窓は閉まっていた。しかしサミュエルの開いた扉から、数匹が廊下へと逃げて行った。

「ああ、いけない。…………君。悪いけど、ちょっと手伝ってくれないかい?」
「ボク?」

 サミュエルは驚き、眉根を寄せた。

「そう、君だ。……いや、別に何をさせようってわけじゃない。ちょっと一緒に来て、私のそばにいてくれさえすればいいんだ。もしかしたら、君を花と間違えて、蝶が寄って来るかもしれない。何てったって蝶は華やかで美しいものが大好きだから。――――エイト君は、そこにいてくれ。蝶を追いかけて階段から落っこちたりしたら洒落にならないからね」

 空っぽの虫かごを詠人に押しつけると、星崎はサミュエルの手を取った。行きしなに例のパナマ帽を、弟の頭からひったくるのも忘れなかった。



 星崎はサミュエルの手を引いて、鼻歌まじりに、ずんずん歩いていった。廊下を曲がった先で、青い蝶が四匹、壁にとまって翅を休めていた。天井際ぎりぎりで、脚立か何かなしにはとても届きそうにない高さだ。

「どうするんです? 虫取り網もないのに。ていうか、手……」
「まあまあ。大丈夫さ。連中には好みがあるんだ。見ててごらん」

 星崎は片手でポケットから小瓶を取り出して、歯で栓を抜いた。そして床に落とした帽子の中に、瓶の中身を数滴垂らした。すると蝶が一匹、また一匹と、誘われるように、帽子の中に集まっていった。サミュエルも右手の不自由を一瞬忘れて、不思議な光景に見入っていたが、不意に強烈な臭いを嗅ぎ取り、眉をひそめた。

「……この臭い」
「栗の花蜜だよ。ほかの樹や花の蜜もいろいろ試してみたが、どうもこれが一番好きらしい。まあ人間には少々刺激的な臭いだが、植物は受粉のために虫を呼び寄せなくてはいけないから、こういう強烈な臭いの方が……」

 話す星崎の青い眼鏡に、ある一匹がとまった。彼はそれを優しくつまんで、帽子の中に入れた。

「時々、仲間に間違えられるんだ。蝶は目がいいはずなんだが」

 言いながらも彼は、握ったサミュエルの手を、かたくなに離そうとしない。サミュエルが手を引っ張り抜こうとすると、かえって強く握ってくる始末。

「あの。そろそろ、手を離してくれませんか」
「なぜ?」
「なぜって……」

 サミュエルが戸惑っているうちに、星崎は空いた彼の左手にも魔の手を伸ばした。そして、まるで恋人に睦言でもささやくような甘い声音で、こう言った。

「私の命を奪った憎たらしい相手を。逢魔が時に毒杯を注いだ、悪魔のごとき我が君を。長い長い時を経て、ようやく再び巡り合った貴方様の手を、どうして離さなければならないのでしょう」

 星崎の言葉の真意は、サミュエルにははかりかねた。ただ、四谷階段ではじめて彼と会った時、彼が妙なことを口走っていたことは、薄ぼんやりと記憶にある。

「あれは、悪戯なんじゃ……」
「そう思うかい?」

 サミュエルのすらりとした指の間に自分のそれを絡ませて、青い丸眼鏡の男は意味深な笑みを浮かべた。

「私が君に殺されたのは本当だよ。――――いや、正確に言えば、君ではない。君によく似た少年に、私は、昔、殺されたんだ」

 熱に浮かされたように、男は喋った。目の前のサミュエルに語り掛けているというより、彼を通して他の誰かを見ているか、あるいは、独りごとのような調子だった。

「生き写しなんだ。ああ、こんなことがあってよいのだろうか。わら色の御髪(おぐし)も、青い星のような目玉も、筋の通った高い鼻も、つややかな唇のかたちも――――私をおびえるその表情も。ほんとうに、ほんとうに、よく似ている」

 男の尋常ならざる雰囲気に気おされて、サミュエルは思わず顎を引いた。しかし、顔を引くと、その分、男も顔を寄せてくる。じきに、壁際に肩がぶつかった。サミュエルはかたく目を閉じた。鼻先に生暖かい呼吸がかかった。

 やがて、右手を拘束していた指がするりと解けた。サミュエルは腰と唇とに、他人のぬくもりを感じた。――それ以上の事件らしい事件はなかった。

 おそるおそる、サミュエルは目を開けた。手を繋ぎ、腰を抱き、そして先ほど口づけをした男の、にこやかな顔が間近にあった。

「……ねえ」
「ん?」
「何のつもり、なの」
「ああ。さっきも話したと思うが、私は人を脅かすのが好きでね。特に、美しい顔が歪んで、恐怖と驚きに染まる瞬間を見るのが、だぁい好きなんだよ」

 そう言うと星崎は、サミュエルの天使じみた美貌に再び手を伸ばした。そして彼はサミュエルの引きつった唇に、素早く自らのそれを重ねた。なぜ自分が一度ならず二度までも口づけをされたのか、サミュエルには、まったく理解できなかった。眉をひそめたサミュエルに、男はにっこり笑みかけた。

「ひとめぼれって信じるかい?」


【END】