「限りなくクロに近いブルー(Ⅱ-3)」

◆6

 ミトと別れたあと、ルイスは出会ったαの数を、何度も何度も指折り数えた。だが、何度数えてもやはり十三人。十一人はなぜかルイスとまともに口をきいてくれない。話の通じるαは二人だけ。その片方は暴君と噂される男で、もう片方は物腰穏やかな美青年だが、すでに売約済。ーー八方ふさがりだった。

 すっかり望みが絶たれてしまったルイスは、重い足取りで屋敷をさまよった。

 明るい声に誘われて流れ着いたサロンでは、五人がテーブルを囲んで談笑していた。その輪の中にはソルティもいたので少し気が引けたけれど、ルイスは勇気をもって近づいた。ルイスにはけんもほろろなαたちだが、他のΩの前でなら、ちょっとは対応がよくなるのではないかと思ったのだ。そう、持つべきものは友達だ。ーーだが、悲しいかな。優良物件は早いもの勝ちのこの接見会場では、昨日までの友は、今日の敵だった。

 ルイスが空いた椅子に腰かけて、いざαに声をかけようとすると、左のお尻に痛みが走った。ルイスが悲鳴を上げると、訝し気な視線が彼に集まった。ルイスは取り繕うように笑って、犯人と思しき左隣の少年をにらんだ。

「何するんだよ、ジャスパー」

 ルイスが小声で物申すと、赤毛の少年はささやき声で返した。

「人のモンに手ぇ出そうとすっからだ。バーカ」
「人のものってなんだよ」

 ジャスパーは小さくあごをしゃくった。その先にいる緑の紳士を見ると、ルイスはまたジャスパーに目を戻した。

「そんなのまだ決まってないだろ」と、ルイスが言い返すと「いいや、ほぼ決定だぜ」

 ジャスパーは緑の紳士の服のすそを引いて、甘え声で言った。

「ねえねえ、ガウェイン。あとでさあ、もう一回お散歩しようよ」
「もう一度ですか?」
「うん! ぼく、もっとお花を見たいんだ。……だめ、かな……?」

 ジャスパーがボーイソプラノで「ぼく」なんて言うところを、ルイスは初めて聞いた。何せジャスパーといったら、農作業の休憩時間に小腹がすいたらそこらの花を引っこ抜いて花びらをもしゃもしゃ食べるような少年である。Ωの居住区で一緒に生活していた頃にはついぞお目にかかったことのないぶりっこぶりにルイスは戦慄したが、普段のジャスパーを知らない緑の紳士は上目遣いをされて満更でもない様子である。

 騙されてる……騙されてるよ……! ルイスは哀れな紳士に真実を伝えてあげたいと思ったが、下手なことを口走ろうものならまたお尻をつねられるに違いない。というよりすでにジャスパーの爪がルイスの背中に刺さっている。ルイスは喉元まで上がりかけた言葉を再び飲み込むよりほかになかった。

 緑の紳士とジャスパーが二人の世界に入ってしまったので、ルイスは仕方なく狙いを変えることにした。ルイスの眼差しが深紫色のスーツの青年に注がれると、その隣に陣取ったアルビノの少年が唇を噛んだ。少年は何を言うでもなかったけれども、隣の紳士の腕にしがみついて、うつむいてしまった。紫の紳士は驚いた様子だったが、少年を振り払おうとはしなかった。

 ふと、からん、と涼やかな音が響いた。目を向けると、革張りのソファに優雅に足を組んで、ロックグラスを傾けるソルティ=ドレッドの姿が見えた。

 射すくめるようなまなざしを注がれて、どうも尻のあたりが落ち着かないので、ルイスはテーブルに視線をそらした。テーブルの上には誰が持ってきたのやら、琥珀色の液体の入ったボトルやアイスペール、細かな泡の立ち上る飲料の入った細長いガラス瓶やら、ビスケットやらキャンディやらが散らばっていた。

「ルイスも何かもらったら?」

 相も変わらずよそ行きの声でジャスパーが言った。

「…………厨房に、グラスが、あった」

 アルビノの少年がうつむいたまま、ぽそりとつぶやいた。気がつけば時刻は午後三時を回っている。ちょっと小腹も空いている。ルイスは立ち上がった。

 謀られたことに気づいたのは、ルイスが厨房からグラス片手に戻ってきたときだ。すでにΩたちは自分の獲物を連れて退散した後だった。

 後にはソルティだけが、相も変わらず優雅な態度で、堂々とソファに落ち着いていた。じっと見つめる視線に背を向けて厨房にUターンするのは、なんだかしゃくな気がしたので、ルイスはグラスを持ったまま、ずんずんと近づいていった。だが、威勢のよかったのは最初だけ。ソルティに近づけば近づくほど脈拍が早まり、首筋のあたりから染み出る脂汗の量も増していった。テーブルが近づくにつれてルイスの歩みはのろくなり、やがて一メートルばかりになると、足はぴたりと止まってしまった。

「……座らないんですか?」

 ルイスはくたびれた機械のようにぎこちなく歩いて、ソファに浅く腰かけた。きゅっと口を閉ざしたまま、顔も上げようとしないルイスを見ながら唇を湿すと、ソルティはテーブルにグラスを置いた。

「嫌われていると思っていましたが……こうして傍にいてくださるということは、少しは期待しても良いのでしょうか?」

 ルイスはおそるおそる顔を上げた。グラスの中でまだウィスキーが揺れていた。コハク色の酒におぼれた氷が、窓からの光を受けてきらめいていた。テーブルの上は先ほどよりは少し片づいている。二、三の個包装になったクラッカー。そして栓の開いたウィスキーとアイスペール。バケツの中をそれとなくのぞいてみると、氷の足がずいぶん水に漬かっていた。

 もし、このまま誰からも薔薇をもらえなかったら、その時は、目の前の男と床を共にするよりほかにない。そうなったときのために、今からでも、媚びを売っておいたほうが――。そういう打算が、ルイスの中にもないではなかった。だから、いったんは腰を下ろしたのだけれども、暗緑色の鋭い瞳とにらみ合いをするほどの覚悟はない。そうかといって逃げるきっかけも見つからない。両手に包み込まれてぬるくなったグラスは、もはやルイスの手の一部のようになっていた。

「あ……アナタは、ほかのΩとお話ししなくてもいいんですか?」
「ええ。貴方が今日ここにいらっしゃる以上は、他を品定めする必要はありませんから」

 ルイスは彼の胸元にある黄色いバラをちらっと見た。

「……もし、ボクが受け取らなかったら?」
「貴方が望もうと望むまいと、十三本目の薔薇は受け取らざるを得ないのですよ」

 男はすらりとした長い脚を組み替えて、またグラスに口をつけた。
 ルイスは眉根を寄せた。

「どういう……意味ですか?」
「文字通りですよ。αが十三人。Ωが十三人。十三組を成立させるために、過不足なく集められたわけですから、必ず誰かと誰かが対になる。そして徐々に選択肢は狭まってゆき、最後の一人は、最後の一人と結ばれる。それだけのことです」

 説明を加えられても、ルイスには、彼の言わんとするところが、よくわからなかった。しかし、夕方になっても、ソルティやミト以外のαとはろくに話もできていないような現状である。ルイスに選択の余地がないという状況は、大いにありうる話であった。

 ルイスは空っぽのグラスをお守りのように握りしめた。そんな彼に眼差しを注ぎながら、ソルティは小さく肩をすくめた。

「おそらく貴方は、私のことを誤解していらっしゃる。
 まあ、逆恨みされることの多い職務に就いておりますので、よろしからぬ噂の立つのは仕方のない部分もあります。しかし存外、噂など当てにならないものですよ。他人の勝手気ままに話す、嘘か真かわからぬことを盲目的に信頼するよりも、自分自身で見聞きしたものをこそ信ずるべきです。……そうではありませんか?」

 ソルティは立ち上がった。ルイスは逃げようとしたけれど、残念ながら、すでに前方にはソルティの体が壁と立ちはだかり、横へ逃げようにも視界は彼の腕に遮られていた。

「何であれ、手袋なしには触れたくないのですが……貴方に限っては、この布切れが煩わしい。……不思議なものですね」

 男は口角を上げると、唇で手袋の指先を挟み、右の手をあらわにした。そしてその手のひらを、そっとルイスの頬に這わせた。ごつごつした男らしい指がすべらかな頬をなぞった。ぞわっと、ルイスに悪寒が走った。指の触れたところから不快感が広がってゆく。

 ルイスは彼を突き飛ばして、わずかに生まれた隙間から抜け出した。だが、相手もなかなかの反射神経。逃がすまいと伸びた指先は、ルイスの腕を捕まえた。指はまるで牙のようにルイスの腕に食い込んだ。

「いっ……たたたた! 痛いよ!」
「ん……。そんなに、強くつかんだつもりはなかったのですが。どうも失礼をいたしました」

 ルイスは腕をさすった。ーー手が離れても、まだずきずきした。ルイスは涙のにじんだ目でソルティをきっとにらむと、また捕まる前に退散した。

 ルイスの去ってゆくのを眺めながら、男は何かを確かめるように、手を握ったり閉じたりした。

「…………加減がわからんな」

 彼の呟きを聞いた者は、グラスの氷ばかりだった。


   *


◆7

 少し、脈拍は落ち着いてきた。廊下を歩きながら、ルイスはため息をついた。

 ーーさっきソルティに触られたところが、まだぞわぞわする。あの男と床を共にするなんて考えただけで身震いがした。万が一そんなことになったら、不整脈で死にそうだ。

 うつむきながら廊下を歩いていると、どん、と誰かにぶつかった。咄嗟に謝ろうと顔をあげて、ルイスはあっと声をあげた。

 黒外套の青年。ミト=マロリーだ。目が合うと、彼は微笑んだ。

「やあ。……よく会うね」

 改めて見ても、きれいな青年だった。微笑みを向けられると、ついつい、うっとりしてしまう。彼の胸元に薔薇のないのが、ルイスは心底うらめしかった。

「ごめんなさい。ボク、ぼーっとしてて」
「うん。難しい顔してこっちに向かってくるから、何事かと思ったよ」

 ミトはくすくす笑った。

「ところで、君、今、ひとりなの?」
「うん……」

 と、ルイスは、ふと視線を下へ落として、やがて彼の手元へ目をとめた。透明の袋に入っているのはクッキー。持ち込みのプライズのようだが、狐色によく焼けていて、とてもおいしそうだった。……そういえば小腹も空いてきた。ルイスが物ほしそうに見つめていると、ミトが言った。

「……食べる?」

 ルイスは目を輝かせた。

「本当!? ……あ、じゃあね、お茶しようよ! ボク、紅茶持ってるんだ。淹れて…………………………くるね」

 箱入りも箱入りのルイスである。お茶を淹れたことなんて一度もない。しかし出会ったばかりのエリート様にお茶くみを頼むほどの度胸はさすがのルイスも持ち合わせていなかった。

 生まれてこのかた、盆を運んだことなんて数えるほどしかない。慣れない手つきで、カップはかちゃかちゃ鳴っていた。手元に注意を向けるあまり、足元の注意がおろそかになっていた。ミトが「あ」と言った時には、既に体勢は崩れていた。

 カップが盆から跳ね、その口を傾けて、赤茶けた熱湯が黒いシャツへとふりそそぐさまが、ルイスの目にはスローモーションで見えた。
 中身のなくなったお盆が、白々しい音を立てて床を回った。紅茶をたっぷり飲んで濡れそぼった黒外套を手に、青年は微笑んだ。

「…………ルイス=レイクサイド。君は僕に何か恨みでもあるの?」

 ルイスは千切れんばかりの勢いで、首を横に振った。


 洗濯機がごうんごうん回り始めた。乾燥込みで二時間はかかる見込みだ。

「あの……ごめんなさい。本当に、わざとじゃないんです」
「わかってる」

 ランドリールームはちょっとした休憩室のようになっていた。ミトは備え付けのポットでお茶を作ると、クッキーをつまみはじめた。ルイスが御機嫌をうかがって、遠巻きにじっと見つめていると、腹が空いているとでも思ったのか、袋ごとルイスによこした。

 ……そういうわけじゃないんだけど。でも、断るとまた気を悪くするかと思ったので、ルイスは素直に頂戴した。じっと突っ立っていると呆れた声で「座ったら?」と促されたので、ルイスは一つとんで隣の椅子に腰かけた。

 クッキーの入った袋を両手でぎゅっと握って、縮こまっていた。そういう姿をじっと見つめていたミトは、いったんは口へ運びかけたコップを、また胸のあたりまで下げた。彼は立ち上がって、コップをルイスの前に置いた。

「どうぞ」
「あ……ありがとう」
「こぼしたり割ったりしないようにね」
「いくらなんでも、ボクそこまで不器用じゃないよ!」

 ルイスが顔を赤くしてそう言うと、ミトは微笑んだ。その微笑みが、なんだか優しくて、穏やかだったので、ルイスの緊張も、少しはとけた。

 クッキーをかじりながら、ルイスはミトを盗み見た。ミトはスマートだった。美青年と呼んで差支えなかった。すらっとして、スタイルがよくて、いつまでも眺めていられる。すっと鼻筋が通って、切れ長の目にはどこか色気があって。しかも、ルイスが粗相をしても、大目に見てくれる。こんな人がつがいだったらいいのにな、とルイスは思った。

 そういう青年が、頬杖をついてじっと自分を見つめ返してくるので、ルイスは少しどきどきした。ひょっとして食べかすが口の端にでもついていたかと思い、ルイスは口元をぬぐった。でも、ミトは相変わらずルイスの方を見つめている。とうとうミトは、口を開いた。

「ごめん。やっぱりもう一枚ちょうだい。……おなかすいた」

 狙いがクッキーだったことに、ルイスはちょっぴりがっかりした。と同時に、気が抜けた。袋を返そうと差し出すと、彼はその中に指を入れて、一枚だけ抜き取った。そいつをぺろっと平らげてしまうと、ミトはため息をついた。

「早く晩ごはんにならないかな」
「……まだ、三時過ぎだよ。お昼は?」
「食べそびれたんだ」
「食堂に行って、取ってこようか?」

 ミトは首を振った。

「大丈夫。そこまで切羽詰まってないから。ただ……職業病かな。いつでも手をつけられるストックが手許にないと、少し不安なんだよ。忙しい時には丸一週間不眠不休だったこともあるし。……暇な時は、本当に、暇なんだけど」

 ミトはため息をついて、机の上にのびた。のびた拍子に、あくびを噛み殺したように見えた。ルイスは素朴な疑問を投げかけた。

「どうして、あんなところで寝てたの?」
「……まあ、いろいろあってね。ちょっと疲れてたんだ」
「そういえば、パートナーは?」
「パートナー? ああ……」

 ミトはちょっと答えに間を置いたけれども、紡ぐ言葉に淀みはなかった。

「ちょっと体調が悪いみたいだから、念のため医療センターで診てもらってるんだ。まあ、大したことはないと思うんだけど……」

 ミトは小さく息を吐いた。

「それより、君の方こそ、こんなところでじっとしてていいの?」

 ルイスがきょとんとした顔で瞬きしたので、ミトは言葉を変えた。

「僕とお喋りしてたって、薔薇は手に入らないよ。ほかのαと、話した方がいいんじゃない?」
「うん……。話してみたいんだけど、口利いてもらえないんだ」
「なんで? お茶をひっかけるよりヤバいことしたの?」
「そんなことしてないよ。来た時から、ずっと……」
「……それ、本当?」

 穏やかだった表情に、鋭気がにじんだ。

 それからルイスに二言三言何やら尋ねたかと思うと、ミトは不意に立ち上がった。

「どこ行くの?」
「君には関係ないところ」
「でも……コートは?」
「後で取りに来るから、そのままにしておいて」

 突っぱねるかのようにルイスに言うと、先ほどまでの眠たげな物腰はどこへやら。ミトは険しい顔をして、足早にどこかへ向かって行った。何か彼の気に障るようなことでも言ってしまっただろうかと、ルイスはしばらくその場で悶々とした。ただそのミトの態度は、別にルイスのことが嫌いだからそうしたわけではないことが、後でわかったのだけれども。




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