◆発端

 幾田が古なじみと往来で出会ったのは、まったく偶然であった。

 紳士然とした装いの中年男は、気さくな挨拶を飛ばすと、青い丸めがねをちょいと持ち上げて、幾田の持ち物をまじまじと見つめた。

 幾田はちょうど写生帰りで、小脇にスケッチブックを抱えていた。京の紅葉が見ごろなので、ちょいと見物がてらに描きに行ってきたところだ。ちょうど学校の課題で煮詰まっていたところなので良い気分転換になった――――などと言いながら、青い丸めがねの男に見せたページには、色合いこそ淡いけれども見事な紅錦が、清流に彩を添えていた。

 ――――色鉛筆かい? そうだよ。へえ、見事じゃないか。どこのを描いてきたんだい? 貴船だよ。まだあの辺りは多少ましな眺めだからさ。

 そんな風なことを、二人は取り留めなく道端で喋った。話題は一向尽きなかった。生来お喋りな幾田青年は道端での世間話程度では満足せず、青めがねの男もちょうど退屈をもてあましていたところだったので、二人は目と鼻の先にあった喫茶店へとなだれ込んだ。

 土曜日のおやつ時である。ちらほらと席は埋まっていたけれども、奥の方は比較的に空いていた。広々とした四人席の奥側のソファ席を、青めがねが占めてしまったので、幾田は仕方なく向かいの椅子に落ち着いた。
 コーヒーで体を温めながら、幾田がしみじみとつぶやいた。

「昔はよかったよなあ」
「そうかい?」
「よかったよ。少なくとも今よりはずっと暮らしやすかった」

 彼はぱらぱらとスケッチブックをめくると、青めがねに渡した。開いたページには、人々がせわしなく行きかう交差点の鳥瞰図。一枚めくってみると、駅のホームで何やらわめいている様子のサラリーマンと、たじたじの駅員。そのほか、おおよそどこかで見たことのあるような日常風景が、彼らしい軽快な筆致で切り取られていた。

 一通り眺め終えると、青めがねはスケッチブックを彼に返した。

「木のかわりにビルがにょきにょき生えてさ。どこもかしこもカメラカメラカメラ。時計が人間を働かせて、規定のレールからちょっとでも外れようもんなら罪人扱いだ。こうも機械様に見守られてると、息詰まっちまうよ」
「でも、便利じゃないかい?」

 青めがねの男はスマートフォンを取り出して、画面を彼に見せびらかした。

「指一本で遠く離れた相手とお喋りができるなんて、昔じゃ考えられないよ」
「オレ機械さわれねーもん」

 幾田はすねたようにそう言って、ぷいとそっぽを向いた。

「科学なんてクソの役にも立たねーよ」
「なんだい。結局君のやっかみじゃないか」

 青めがねは目を細めて、カップに口をつけた。

 それから彼は何気なく店内を見回した。
 カウンター席の客にコーヒーのうんちくを垂れていた頑固おやじも引退し、若夫婦が精を出している。レコードを引っ掻いていた古びた蓄音機もお払い箱となり、スピーカーからは有線の音楽が流れている。かつていたずら小僧が落書きをしたテーブルも、不良少年がたばこの灰を落として焦がした椅子も刷新され、現代的で統一感のあるテーブルセットが整然と並べられている。居心地の良かったたまり場は、時の流れとともに失われたかのように見えた。

「確かにねえ」
「ん? なんか言った?」
「いや…………確かに君の言う通り、昔は楽しかったと思ってね」

 女子高生と思しき少女たちをまぶしげに眺めながら、青めがねの男は言った。

「とりわけ青春時代というのは、何とも言えない魅力があるね」

 女子高生たちは恋の話で盛り上がっているようだ。二人はそれを聞くともなしに聞いていたが、カップの空になったのを皮切りに、青年が言った。

「そういやオレ、お前の学生時代の話って、聞いたことないかも」
「おや。そうだったかい?」
「うん。ないない。つーか想像もつかない」
「ふーん……」

 青めがねは頬杖をついて、幾田のメニューとにらめっこするさまを眺めた。
 幾田がオーダーを悩んでいる間に、隣のテーブルに新客がやってきた。肥痩両極端な連中が笑いながらどやどやと席についた。手にした紙袋は、そばに店を構えたオタクショップでの戦利品だろう。地続きの座席が侵掠されはじめると、青めがねはそれとなく、彼らとは反対の方へ移りながら、

「じゃあ、アルバムでも見るかい? 多分、家にあるはずだ。ここからそう遠くはないし、なんだったら……」
「見る見る!」

 幾田はメニューを閉じて、勢いよく立ち上がった。

   *

◆青めがね少年時代

 さくらのキーホルダーのついた鍵を通すと、青めがねの男はドアノブを回した。

「おーい。上がるよ」と言って、青めがねが靴を脱ぎ終わるか脱ぎ終わらないかのうちに、家主がやってきた。めがねをかけていないほかは、青めがねの男とそっくり同じ顔つきの、車いすの男だった。

「家に来るときは一言連絡を入れろって、何度言ったらわかるんだい。…………お客を連れてくるときはなおさら」
「いや、お気遣いなく」
「僕が構うのだよ」

 車いすの男は、リビングの方を向いて声を張った。

「おーい。お客さんだ。悪いけど、お茶を二つ淹れてくれるかい」
「ああ、本当にお構いなく。ついさっき喫茶店でたらふく飲んできたところなんだ。……それよりエイト君。我々の学生時代のアルバムってどこにあったっけ?」
「アルバム? …………物置じゃないかな。学生時分を思い出すために、去年ちょっと開いて、それきりだから」
「そうかい。どうもありがとう」

 脇に昇降機の設えられた螺旋階段を、青めがねの男はすたすたと上っていった。青年も後に続いて階段に足をかけた。と、その時、車いすの男が彼を呼び止めた。

「ちょっと待ちたまえ。……君は、僕の兄とどういう関係で、何のために、今日ここに来たんだい?」

 彼は間違いなく微笑んでいたが、何やら妙な凄みがあった。幾田が返答に詰まっていると、青めがねが吹き抜けの上からひょっこり顔を出した。

「幾田君っていうんだ。美大生だよ。絵がすごく上手なんだ」
「へえ。自分の黄金時代でも描いてもらおうってのかい?」
「まあ、そんなところさ」
「ふーん……」

 男は幾田に目を戻した。彼は幾田を頭のてっぺんからつま先までさっと眺めると、口の端をつり上げた。――――目は笑っていなかった。

「まあ、ゆっくりしていきたまえ」


 廊下を歩きながら、幾田は青めがねに耳打ちした。

「お前の家じゃない、んだよな?」
「うん。エイト君……弟の持ち家だよ」
「だよなあ。……オレ、上がってよかったの?」

 歓迎されているとはお世辞にも言いがたい家主の態度を思い出して、幾田がそう尋ねるが、青めがねはどこ吹く風だった。

「構やしないさ。エイト君はいつも血圧が高いんだ」

 突き当りの扉を開くと、段ボールが山と積まれていた。その奥の方では、ハンガーラックに吊るされた大量の服が見えたが、どれも普段着にしては派手なものばかりだった。入口付近の段ボールを改めていく青めがねを横目に、幾田は部屋の中を眺めまわした。

「変わったものがいっぱいあるな」
「ああ。まあ、私の商売道具もちょっと置かせてもらっているのでね」
「ふうん……?」

 部屋の奥へ進んで衣装をよくよく見てみると、気取ったタキシードや、スパンコールつきのジャケットを発見できた。その奥へ視線を投じれば、幾つもの剣の刺さった大きな箱があり、その柄の部分にシルクハットや色とりどりのロープが掛けられていた。そしてその手の道具は、部屋の半分以上を圧迫していた。

「お前の家じゃないんだよな?」
「うん。弟が固定資産税を払っている、私の物置だ」

 しばらくして、学校と書かれた段ボールを、青めがねは見つけた。
 中の制服や教科書類を引っ張り出して、一番底にあった正方形の分厚い本を掘り当てると、青めがねは表情を明るくした。

「ああ、あったあった。これだ」

 彼は大判のアルバムを床に広げた。開くと少年少女の写真がずらり。青めがねの男が手近な段ボールに腰を下ろしたので、幾田も彼にならって、アルバムを覗き込んだ。

 桜の散りかけた校門の前に、色違いのめがねをかけた揃いの顔が三つ並んでいる。明後日の方向を向いてガムを膨らませるめがねの赤いのと、取りすました笑みを真正面に向ける黄色いの。そしてすました黄色いめがねの少年と肩を組んでにこにこする、青い丸めがねの少年。右端のその青めがねを、幾田は指さした。

「これ?」
「ん? うん、そうそう。ええと……確かこれが、入学式だね」

 彼らは美しいというほどではないが、なかなか愛嬌のある顔立ちだった。屈託のない笑顔の写真の多いことも、親しみやすさに一役買っていた。

 アルバムを眺めているうち、幾田はふと、あることに気づいた。

 兄弟たちと顔の造作は同じなのに、青いめがねの彼には、どこか妖魔じみた色気があるのだ。それは決して、あからさまでわかりやすい類のものではない。ちょっとした表情やしぐさから、そこはかとなく匂い立つような類のものだ。面と向かっている時には、めまぐるしく変わる表情や、巧みな話術によって煙に巻かれてしまうような、かぐわしいその一瞬間が、時折みごとに切り取られ、L版の写真紙の中に写し取られているのだった。

 青年はちらっと本人を見やった。己が魔力の漏出を知ってか知らずか、彼はのんきに「これは確か文化祭でね……こっちは修学旅行で……」などと思い出話に耽っている。一通り写真の解説の終わった頃を見計らって、青年が言った。

「お前…………モテたろ?」
「え? いや。全然」

 きょとんとする彼の肩に手を置いて、青年はため息をついた。

「いや、絶対モテたはずだ。思い出してみろって。学生時代、めちゃくちゃモテただろ!? モテたはずだ! お前は!」
「思い出せって……なんだって藪から棒にそんなこと……」
「聞け。知っての通り、オレはおっぱいでかい姉ちゃんにしか興味がない」
「君、おっぱい星人だものね」
「そう。そんなオレですら、時々クラっとくるのがある」
「貧乳にもかい?」
「ちがう、そうじゃない。……まあ、ある意味合ってるけど……そうじゃなくて、これだよ! 問題は!」

 幾田は、かのアルバムをばしばし叩いた。

「心霊写真でもあったのかい」
「あったよ。心霊写真よりやべーのが。……見ろ」

 青年はとある一枚を指さした。まだ顔に丸みの残る少年の、妙に大人びた表情の一枚。彼は微笑んでいたが、その笑みは思わず近寄りたくなるような親しみを感じさせながらも、手を触れたら溶けて消えてしまいそうな儚さがあった。それが、オーバーサイズのカーディガンの無防備にはだけたのと相まって、妙に庇護欲を掻き立てるのだ。

「オレでも一瞬ドキっとするんだ。ゲイなんかひとたまりもないぜ」
「…………そうかなあ」

 青めがねは写真をまじまじ見つめたが、あまりピンとこない様子。だが青年の目に狂いはない。あまたの美術館を巡って養った審美眼は確かなものだ。

 彼は青めがねの肩に腕を乗せた。

「素直にゲロっちまえよ。モテたんだろぉ?」
「モテ……うーん…………」

 青めがねの男は眉間にしわを寄せて唸った。青年はアルバムを見せてみたり、制服や教科書を広げてみたりして、彼の記憶を探る手助けをした。

 青年がなぜここまで青めがねの過去に執着するのか。答えは簡単。--先に述べた、煮詰まっている学校の課題というのが、人物画であり、しかもそれが泣きの一回なのだった。

 担当教諭は自他ともに認める同性愛者だ。なので単に美しい少年を描いておけば良いだろうと安直に考え、ギリシャ彫刻の美男子像を下敷きにした作品を提出したのが悪かった。完膚なきまでの不合格をつけられたのである。

 運の悪いことに必修講義だった。落とせば留年である。そこを教授にどうにか頼み込んで、再度チャンスをもらった次第だ。

 必修講義の担当者であり、青年の生殺与奪を掌握するかの教授が口癖のように言うことには「芸術とは、対象の外形をただ模倣するのではなく、内形すなわちイデアを写し取ることであって……」云々。そして話は彼の過去の恋愛談へと移ろい、最終的に「いい人いたら紹介してください」という個人的要求に着地する。とどのつまり、学生たちに課している課題は教授の個人的な問題を解決するための手段を兼ねているのだ。

 --ということを、既に合格をいただいた友人に教えてもらい、課題の方向性が見えてきたはいいものの、肝心のモチーフが見つからない。

 それで幸運が降ってくるのを頼みに足を伸ばしてうろうろしていたところで青めがねに出くわし、とんだ掘り出し物を見つけたというわけである。

 そうした欲求のない幾田をゆさぶるほどなのだから、写真の少年の魔力は確かである。かのLGBT教授には効果てきめんのはずだ。だが現物はめがねの中年。しかも筋金入りの面食いで、目の前の青年にはさしたる関心がないらしく、色気のいの字すらにじんでいない。これを忠実に写したところで留年は免れない。

 そこで幾田は考えた。青めがねの男の黄金期の記憶を呼び覚ますことで、彼の本領ともいうべき蠱惑の遺伝子を、芋づる式に引っ張り出してやろう。そしてゲイ殺しの秘密兵器、すなわち教授のおめがねに叶う人物画(再提出)をここに完成させるのだ。

 --オレの進退がかかっているんだ。真に迫った青年の思いなどつゆ知らず、青めがねは一生懸命にうんうん唸っている。

 そしてとうとう彼は、何事か思い出した様子で、ぽんと手を打った。

「ああ、そうだ。そういえば…………」



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