◆脅迫

 私が解放されたのは放課後近くなってからのことだった。

 行為が済むと鮫島は、また明日も保健室に来るよう私に言った。
 心底から嫌だったが、兄弟を盾に取られては、頷くしかなかった。

 悪いことに私は、常日頃から悪戯三昧の問題児だ。誰かに正直に話して助けを乞うたところで、おそらく信じてはもらえまい。またいつもの悪戯と思われるのが落ちだ。そしてSOSが不発に終わったが最後、いよいよ兄弟たちが鮫島の餌食になるのだ。

 私が急病で寝込んでいると猫柳先生の口から伝えられたら、彼らはきっと、悪漢が手ぐすね引いて待つ保健室へ来てしまうだろう。そうなったら、おしまいだ。

 兄弟たちに辛い思いをさせたくはない。私は沈黙し、日頃の悪戯の報いを甘んじて受けるよりほかに道はないのだった。

 重い体を引きずるように帰宅し、シャワーを浴びた。温かい水で洗い流しても、おぞましい異物感は消えなかった。



◆探偵少年

 風呂を上がると、物音がした。どうやら風呂に入っている間に、家族の誰かが帰って来たらしい。

 私はいつも腰にタオルを巻くだけで済ませるので、この日もつい、そうしてしまっていた。だが鬱血跡は胸元までも散っている。情事の痕跡を隠すために、私は胸からタオルを巻き直し、ドアの隙間から廊下を覗いた。

 戻っていたのは、上の弟のエイト君だった。彼は私を見るなり「女子か」と言い捨てて、階段を上がった。

 実にまずい。着替えは部屋のタンスだ。しかもエイト君は私と同室だ。そのうえ彼は帰宅すると夕飯までデスクに張りつく習慣があるのだ。

 探偵趣味をこじらせてミス研を立ち上げ、推理小説に対してだけでなく現実世界でまでも探偵に明け暮れるエイト君だ。キスマークなど見つかったら、徹底的に詮索されるに決まっている。

 どうすべきか考えあぐねているうちに、エイト君が階段を下りてきた。鞄だけ部屋に置いてきたらしい。すれ違いざまに彼は言った。

「ああ、そうそう。君、早引けするならひとこと言ってからにしたまえよ。先生たちが心配してたぞ。今度はどんな悪戯をしてるやら、ってね……」

 皮肉っぽく唇をゆがめると、彼はリビングの方へ歩いていった。

 リビングへのドアがばたんと閉まった。――今しかない。私は階段を駆け上がった。タンスの中から着替えを引っ張り出した。ちょうどその時、子供部屋のドアが開いた。

 エイト君はペットボトル入りのコーラと割りばしを手にしていた。脇にはポテチの袋が挟まっていた。彼は私の方へちらっと目を向けると、自分の机に落ち着いた。

 椅子に座ったあとも、彼はコーラを喉に流し込みながら、おそらくは何の気なしに私を見ていた。

「着替えないのかい?」

 コーラを置いて一息ついたあと、エイト君が言った。そうしている間も、彼は一向に視線を外そうとしなかった。
 私は部屋着を抱えたまま、困り果てた。兄弟の目など、いつもなら別に気にはしないのだが、この日だけはまずかった。

「あの……エイト君」
「なに?」
「ちょっと……向こう向いててくれないかい?」
「は?」

 彼はおかしなものを見るような目で、じろじろと私を眺めまわした。

「いや。なんでもない。……気にしないでくれ」

 そう言ってはみたものの、彼の視線は私に絡みついたままだった。

 私は着替えをぎゅっと胸に抱いて、逃げ道を探した。忘れ物をしたふりをして、いったん風呂場へ戻るか? それともトイレで着替えてしまうか……。いや、かなり不自然で言い訳が難しそうだ。どうしたものかと辺りを見回して、私は良い場所を発見した。私のベッドは二段ベッドの下の方だ。陰があるので多少は見えづらい、かもしれない。

 私は服を手に、寝床にもぐりこんだ。そして彼に背を向けて、フードつきのスウェットを、タオルの上からかぶった。

「なあ、タケ」

 エイト君が言った。

「君、今日はちょっと変だぞ」
「何がだい?」

 私は袖に腕を通しながら、平静を装って答えた。

「挙動がだよ」
「そうかい? いつもと変わらないと思うけどね」
「いや、変だ。タオルの巻き方といい、階段の下で呆けていたのといい、そんな珍妙な着替え方といい……。考えてみれば無断早退だってそうだ」

 上着に続いて、下着に足を通そうとしたところで、ふっとベッドに影がさした。おそるおそる振り返ると、エイト君が上段のベッドの側板に手をかけて、私を覗き込んでいた。

「何か隠してるだろ」
「な……なにも隠していないよ」

 私は彼に背を向けて、急いでパンツを履いた。

「慌てるところがますます怪しいぞ」

 彼は転落防止の柵を乗り越え、ベッドに侵入してきた。私はぎょっとして、ベッドの奥へ逃げ込んだ。

「なあ、何隠してるんだよ」
「だから、なんにも隠しちゃいないよ」

 にじり寄ってくる彼から、私はさらに逃げようとした。だが、腕で逃げ道を封じられ、私はベッドの角に追いこまれてしまった。

「よし、追い詰めたぞ。観念しろ」
「本当に、何にもないったら!」
「君が何もないって言う時は、九割がた何かあるんだ。さあ、見せてみろ」

 エイト君の手が伸びてきた。彼の手はすばやく、私の腰からバスタオルを引っこ抜いた。私は慌ててスウェットのすそを引っ張り、太ももを隠した。すると彼は今度は、スウェットをめくり上げようとしてくる。しつこくまとわりついてくる手を何度も払いのけて健闘したものの、異様な握力で手を封じられ、結局、押し切られてしまった。

 片手で私の両手を押さえつけたまま、彼はスウェットをめくった。
 私の肉体を目にすると、にやにやしていた彼の顔から笑みが消えた。

 ――当然だ。私の胸から太ももにかけては点々と朱が散り、内ももの奥まったところには、鮫島の歯型がついていたのだから。

 沈黙が続いた。先に口を開いたのは、私の方だった。

「服、着るから。……どいてくれるかい」

 彼は何も言わずにベッドを降りた。私の着替えが完了するまでの間、彼はまるで看守のように、私の一挙手一投足に目を光らせていた。



◆泣き虫にささげるスライハンド

 着替えが終わっても、エイト君は眉間にしわの寄った顔をずっとこちらに向けていた。いたたまれなくて、私は布団を手繰り寄せた。ふんわりとした羽毛布団にくるまって間もなく、強い力で布団が引かれた。エイト君にちがいない。こちらも奪われないよう引っ張り返した。

「離してくれよ」
「…………………………」
「眠りたいんだ」

 綱引きのように布団を引きあったが、とうとう、取り上げられてしまった。

 エイト君は布団を丸めて自分の背に追いやった。返してと頼んでみたけれど、とりつくしまもない。仕方がないので、私は壁を向いて丸くなった。
 まだ春先だというのに、ひどく寒かった。

「濡れたタオル、そのままにしとくつもりかい」

 声には少し険があった。無視すると、エイト君はあきれたような調子で言った。

「ちゃんと片づけないと。母さんに怒られるよ」

 私は仕方なく身を起こした。湿ったバスタオルは、ベッドの柵に引っ掛けたままだった。私はそれを手にとると、エイト君と目を合わせないようにして、ドアへ向かった。だが、出口へたどり着く前に、エイト君に腕をつかまれた。

「どこの誰だよ」
「なんのことだい」
「君が今日、淫行に耽ってた相手だ」
「………………」
「今朝まではそんなのなかったもんな。今日だよな。しかも美男美女ではないよな。きれいな人とちょっと目があったくらいで大はしゃぎするんだから、万一そこまで進んだとしたら、君は嬉々としてのろけるはずだもんな」
「………………」
「すると相手は、君のタイプではない人間ということになってくる」

 腕に、彼の指が食い込んだ。

「誰だ」
「……………………」
「誰だよ! 言えよ!」

 彼は私の肩をつかんで激しく揺さぶった。

 この程度のことは、いつもならどうということもないのだけど、その時は精神が弱っていた。
 厳しい詰問に耐えかね、私の目頭は熱くなった。じんわりと涙がにじんだ。

 肩をつかんでいた指が、ぱっとほどけた。と同時に、驚き慌てたような声。

「ご…………ごめんよ。僕が、悪かったよ。乱暴、だったね。ごめんね」

 乱暴という言葉が、とどめだった。堰を切ったように、涙が流れだした。最悪の形で先生に失恋したのと、鮫島に無理矢理に犯されたこととが、思いのほか、私の心にダメージを与えていたらしい。

 私はその場にへたりこんで、泣き崩れてしまった。

「ああ……参ったなあ。どうしよう……」

 彼を困らせていることはわかっていた。違うんだ。悲しいのは、君のせいじゃないんだ。そう伝えたかったが、私の口から出てくるのは、ただ、嗚咽ばかりだった。

 袖が吸い取り損ねた涙が、絨毯を濡らした。
 私の前を行ったり来たりしていた足が、ふと立ち止まった。それはちょっと私の前から離れて、またすぐに戻ってきた。

 優しい声が私を呼んだ。

「ねえタケ、タケ。ほらほら、見てごらん」

 そうしたいのはやまやまだが、顔を上げたら涙が落ちそうだった。
 スウェットの袖が涙を吸い尽くすまで、エイト君は待っていてくれた。時々は、彼のシャツの袖も涙を飲んだ。

「ありがとう」を言えるまでに私が落ち着くと、彼はほっと一つため息をついて、軽くあぐらをかいた。

「見ててね」

 彼は絨毯の上から、銀色のコインを拾った。そしてそのコインを、もう一方の手に渡して握った。だが、開いたこぶしの中に、コインはなかった。……消えたコインは、もともとコインを持っていた方の手から出てきた。

 ふしぎに思って、彼の手をまじまじと見つめていると、エイト君が言った。

「もう一回やるよ」

 彼はコインを右手につまんで、しっかりと私に見せた。そして先ほどと同じように、滑らかに左手へ移すような仕草をして、その手を握った。しかし左手を開くと、コインがない。

「どこに行ったと思う?」

 私はぐすっと鼻をすすって、彼の右手を指さした。

「ちがうんだなあ」

 エイト君はにっこり笑って、右手の袖を振った。コインは袖の中からぽとりと落ちてきた。

「じゃあもう一回。……当たるまでやるからね」

 彼はにこにこしながら、また、コインを消してしまった。

「さあ、どーこだ?」

 私はちょっと悩んでから、やっぱり右の手を指さした。「残念」コインは彼の足の間から出てきた。

 そういうことをさらに何度か続けた。そしてとうとう、私の指さしたその先からコインが現れた。のらりくらりと逃げまわるコインをやっと捕まえられたような気がして、私はちょっぴり嬉しくなった。

「よしよし。やっと笑ったな」

 コインを置くと、エイト君は私の頭を撫でた。

 そうしてもらってはじめて、私は彼の意図に気がついた。彼の唐突ともいえるマジックショーは、私のために開かれたのだ。コインを追うのにすっかり夢中になって、泣くことなど忘れていた。

 彼のかけてくれた微笑みの魔法は、しばらく解けなかった。

 頭を撫でる手が心地よかったので、私はされるがままになっていた。穏やかな顔つきで私の髪をくしゃくしゃかき混ぜながら、エイト君が言った。

「…………ちなみになんだけどね。今日、何があったのか、僕に話してみる気にはならないかい?」

 私はうつむいた。また私の気分が落ち込む前に、ぬくもりが私を包み込んだ。

「オーケーオーケー。大丈夫だ。何も言わないでいい。大丈夫。うん。何もかも大丈夫だから、心配するな。万事、僕に任せておきたまえ」

 彼は私を抱きしめて、背中を撫でた。あたたかかった。そうしてもらっていると、とても気持ちが安らいだ。心身の疲労もあったのだろう。背を撫でられているうち、だんだんと瞼が重くなってきた。私はいつしか、眠ってしまった。


【NEXT】


トリック
1.リテンションorトス(右)
2.リテンションorトス(右)→スリービング(右袖)
3.手の位置を低くして右から左に渡す途中で落とせば、足の組み方次第じゃ陰になって見えないんじゃないかと思ったけど、これ実際できるのかなあ……