◆虹谷少年

 ああ、そうそう。その事件のあった頃、つまり、謹慎を食らった私の代わりに、エイト君が生徒指導室で缶詰になっていた頃だね。

 私はエイト君と入れ替わるような格好で、彼になりすまして隣のクラスにいたわけなんだけど、その時に、虹谷君とは随分仲良くなったものだ。
 私がエイト君に化け続けるにあたって生じるちょっとした問題を、解決する手助けを、虹谷君はしてくれたからね。

 要するにだね。――――エイト君は成績優秀だったのだよ。私と違って。

 机にかじりついて本なんか読んでいるより、誰かに悪戯したりお喋りしたりする方が断然楽しいから、私は学校の勉強なんて全然してこなかった。しかし私の代わりに一肌もふた肌も脱いで、生徒指導室という名の独房で反省文と課題に追われる彼の成績を、ただただ落とすのも忍びない。そう思って、エイト君の服を着て、エイト君の席に、エイト君らしくお行儀よく座って、退屈な授業を聞き流している間、ぱらぱらと教科書をめくってみたりもしたが、何が何やらさっぱりだ。

 難しい顔で教科書をにらんでいると、先生が「桃園」と指名する。呼ばれたからには、彼に扮している私は、何かしら答えないわけにはいかない。返事をしたきり黙っていると、先生は怪訝な顔をして、問いを繰り返す。きっとエイト君なら難なく答えられる問題なのだろうが、私はそうはいかない。困って周りを見回すと、虹谷君が機転を利かして助け舟を出してくれた。ノートに答えを書いたのを、それとなく私に見せてくれたのだ。それでまあ、どうにか事なきを得たわけだが、それをきっかけに、虹谷君が勉強を教えてくれるようになったんだ。

 それで、しみじみ思ったのだけどねえ。虹谷君は本当に、すてきな人だよ。

 彼は同級生の中でもとりわけハンサムだった。艶やかな黒髪を品よく整えて、眉は凛々しく、鼻筋はすっと通っていた。いつでも唇の両端を自然に上げて、穏やかな眼差しを万物に注いでいた。背丈はすでに大人と比肩するほどに高く、すらりと手足長く、運動神経も抜群だった。

 天は彼に二物も三物も与えた。しかも容姿以上に美しかったのは、その心根だ。

 虹谷君は優しかった。大事な試験の時には、エイト君も、私と末の弟の勉強を見てくれたのだが、虹谷君は、エイト君より断然教え方が丁寧で、わかりやすかった。エイト君に何十回説明されてもわからないところが、彼の言葉ではただの一度で腑に落ちた。しかも、できたら褒めてくれるし、できなくても「なんでこんなこともわからないんだ」とか「ばかやろう」とか、そんな意地の悪いことを言ったりしない。

 虹谷君の隣は居心地が良かった。彼のそばは、まるで陽だまりのようだった。大嫌いな勉強も、虹谷君と一緒だと楽しかった。エイト君には悪いけど、ずっと独房に入っていてほしいなと、ちょっぴり思ってしまった。



◆サブレとクッキー

 しかし夢にはそう長くは浸れないものだ。

 とりわけ虹谷君が、私を「詠人」と呼んだ時、私ははっと夢から醒めたような心地がした。

 彼の唇がその名を紡ぐたびに、あたたかい特等席が私のものでないことを痛感させられた。

 結局のところ、虹谷君が私をちやほやしてくれるのは、私がエイト君の格好をしているからだ。彼と友好を築いているのはあくまでエイト君であって、私はその代役に過ぎない。虹谷君は、友人の顔に泥を塗らないために、私のサポートをしてくれるに過ぎないのだ。

 エイト君を演じることは、虹谷君の隣に存在する上での、必要条件だった。

 学校にいる間中ずっと、私はエイト君でいなければならなかった。詠人は昨日家で何をしていたか、夕飯に何を食べたかなどと、虹谷君のあれこれ尋ねてくるのに、私はいちいちエイト君のことを思い出して答えた。私は利口ぶった探偵少年であり続けた。

 誰も彼もが私を「詠人」と呼ぶその生活に、私はだんだんうんざりしてきた。学校にいる間、優等生らしい装いや立ち居振る舞いを崩せないことも、それに拍車をかけた。


 「私」の謹慎は、いつ明けるとやら知れなかった。

 私はエイト君に尋ねた。さしもの彼も、生徒指導の山内繰り出す怒涛の課題攻撃に手こずっているらしく、帰宅後はたいていプリントの塔と格闘していた。

「ねえ。私はいつまで、君に化けていなくちゃならないんだい?」
「こいつが全部片づくまでだね。もうちょっとだから、辛抱してくれよ」
「……もう我慢の限界だよ」

 私は首を振った。

「じゃあ、明日から戻る? 生徒指導室で、山内に四六時中監視される中、課題に取り組む?」
「………………」
「それも嫌だろ?」

 嫌だった。ただ、独房生活が嫌というよりは、虹谷君と別れ別れになってしまうのが名残惜しかった。虹谷君とほとんど一日中一緒に居られるのは、エイト君の姿を借りているおかげでもあるのだ。
 沈黙していると、彼は続けた。

「君も大変だろうけど、僕だって色々、考えてるんだよ。たとえばだね……これだよ。こんな課題なんて、君の癖を真似する手間がなけりゃ、一週間で終わるんだ、一週間で。でも、いきなり完璧に仕上げたら怪しまれるから、わざと書き損じたりミスしたりしてるんだ。三歩進むのに二歩下がらなきゃならないんだよ。君のふりをしようと思ったら」

 彼はペケだらけのプリントをひらひら振って、ため息をついた。

「そもそものことを言えばだ。君のオツムがもう少しよかったら、こんなに手間暇かかることはないんだ。だから勉強しろ勉強しろと常日頃から言っておいたのに、君ときたら…………」
「お小言なら結構だよ」

 エイト君は肩をすくめて、また課題に向き合った。しばらくして、彼は「そうだ」と言って、振り返った。

「なあ、タケ。君が手伝ってくれたら、謹慎は早く解けるぞ。僕が君の癖を真似て書くより、君がいつも通りに書く方が断然早いんだ。うん。テストも近いし、ちょうどいいや」

 エイト君の机にどっさり積みあがったプリントの半分ほどが、私の机に移動してきた。暗号文めいた記号の羅列がちらっと目に入ってしまった。

「…………テストが終わるまで、入れ替わっておくというのはどうだい?」
「だめだめ。そこはズルしちゃいけないよ」

 無情にも、プリントの脇に参考書がどさどさ積み上がっていった。机に背を向けると、首根っこをつかまれた。

「こらこら。どこへ行くんだ」
「ちょっとトイレに」
「さっき行ってきたんじゃないのかい?」
「……じゃあ、おやつ」
「あれをあげるよ」

 彼は自分の机を指差した。箱から引きずりだされた袋の裂け目から、行儀よく並んだクッキーの頭が見えた。

「悪いけど、クッキーの気分じゃないんだ」
「じゃあ何の気分なんだい」
「……サブレ」
「大差ないじゃないか。ほら」

 忌々しいバベルの塔のふもとに、クッキーがやってきた。飲み物を、とごねる前に、マグカップ入りのミルクが引っ越してきた。

「他に何かあるかい?」

 にこにこする彼をちらっと見て、私はため息をついた。

「勉強したくない」
「やらなきゃだめだよ。落第しちゃうよ。落第したら、君は最後の年を一人ぼっちで過ごさなきゃならないんだぞ。僕も、たぶん末広も卒業してしまっているだろうし……虹谷君だって。君一人置いてけぼりになっちゃうぞ」

 それはちょっと困る。しかし、ごたごた並ぶ数字や文字を目にすると、どうも気が萎えてならない。

「自信がないなら僕が見てあげるけど?」
「……エイト君は優しくないからいやだ」
「何言ってるんだよ。僕はいつも優しいじゃないか」

 いつもと言うには語弊があるが、確かにエイト君は、たまに優しくしてくれる。だがその稀な優しさは、これまで彼が私に振るってきたスパルタ式教育の記憶をすっかり塗り替えるには十分ではなかった。
 私が黙っていると、エイト君はため息をついた。

「何が不満なんだよ」
「……教え方」私は唇を尖らせて言った。
「わかったわかった。じゃあ、なるべく丁寧に説明するよ。それでいい?」
「うーん……」
「いいね?」

 私は仕方なく頷いた。

 エイト君は、絨毯の上にちゃぶ台を引っ張ってきて、勉強道具をその上に移した。そして私がプリント課題に取り組むのを、真向いに座って監視した。
 エイト君の教え方は、確かに、心持ち優しかった。しかし、やはり私は、虹谷君のそれが恋しく思えてならなかった。虹谷君は口調は穏やかだし、表情も柔らかいし、何より、ただ目の前にいるというだけで、私を鼓舞するのに十分な外見的魅力を備えているのだ。然るにエイト君ときたら…………。

 夕食を挟んで、マンツーマンの指導は続いた。だが、あまり私が間違えるせいか、だんだんと口調が乱れてきて、いつもの「ばかやろう」が飛び出した。二度、三度くらいまでは私も辛抱したが、それが十回を越えると、さすがに我慢ならなかった。

「私がばかなわけじゃない! 君の教え方が悪いんだ!」
「僕はちゃんとやってる! 君の飲み込みの方が悪いんだ!」
「私は別に、君に教えてほしいなんて頼んじゃいない!」
「何言ってんだ! 僕が面倒見てなきゃ、君は絶対に進級できないぞ!」
「私の進級なんて君には関係ないだろ! もう放っておいてくれよ!」
「それができりゃ僕だって苦労しないんだよ! ほら、文句言う暇があるなら手動かせよ!」

 そう言って彼はまた、どこが違うの何のと、重箱の隅をつつくようにチクチクネチネチ指摘した。腹が立つほど嫌ならやめればいいものを、彼は不機嫌そうに眉を寄せながらも、私の監視をやめようとはしなかった。

 強制的で不愉快な勉強会は、毎日のように続いた。
 日中は優等生であることを強いられ、夜はその優等生に勉強を強いられた。

 私は学校でも家でもくたびれはてていた。鬱憤は募りに募っていた。――ガス抜きが必要だった。



◆交換条件

 疲れた時はやっぱり悪戯に限る。

 謹慎期間中、私は学校では、ずっとエイト君の格好をしていた。だから黄色い丸めがねをかけて、髪は特に何もせずに無造作に垂らしていた。シャツの第一ボタンまできっちり締めた上からネクタイで喉を締め上げ、その上から胴を締めつけるベストを、ジャケットで封印していた。とどのつまり、うんざりするほど窮屈で、野暮ったい格好をしていた。

 ホームルームが終わると、私は鞄を抱えて、トイレへ走った。個室に鍵をかけ、鞄から変装道具を取り出した。つまり、自分の予備のカーディガンと、めがねと、整髪剤だ。

 ジャケットとベストを放り捨て、ネクタイをゆるめると、随分楽になった。シャツのボタンを三つ外して、うっとうしい前髪をかきあげると、久方ぶりに自分と再会できたような気分だった。

 私はカーディガンを小脇に抱え、髪を整えるために鏡の前に立った。

 黒髪を伊達男らしく立たせて、青縁の丸めがねをかけてやれば、すっかりいつもの私だ。そう思ったが、くるりと回ってみると、後ろ髪が今一つ。
 鏡の前でクルクル回って、身なりを入念に整えていると、ふと、胸のあたりにまだ赤みが残っているのに気がついた。あれから随分経っているので、まあ虫刺されか何かだろうとは思ったのだが、人に見せるのはちょっと決まりが悪い。シャツのボタンを一つ締めるとほぼ見えなくなった。少し窮屈だが、かの野暮男スタイルよりは幾分マシなので、それで我慢することにして、袖余りのカーディガンに腕を通した。

 獲物を探して放課後の校舎をぶらついていると、向こうから虹谷君がやってきた。誰かと一緒だ。虹谷君と連れ立って歩くのは、背の高いすらりとした少年だ。虹谷君と並んでもほとんど高低差がない。

 どういう仲か知らないが、虹谷君と親しげに腕を組んで、随分馴れ馴れしい男だ。私は釘を刺しに、もとい、首を突っ込みに行った。

「やあ、ミス研の花形殿。今度は何を探偵してるんだい?」
「虹谷はバスケ部だよ」
 背の高い少年が言った。虹谷君は苦笑いで「掛け持ちなんだ」
「金曜日にはちゃんと顔出すからさ」

 申し訳なさそうにそう言うと、虹谷君は片目を閉じた。それで思い至ったのだが、私の謹慎の間、私、つまり桃園武彦に化けているのは、エイト君なのだ。それは虹谷君も当然知るところだ。だが、私が変装を解いていることを彼は知らない。だから桃園武彦の格好をした今の私のふるまいは、虹谷君の目にはエイト君の巧みな芝居に映るのだ。

 エイト君に化けていようといまいと、虹谷君にとって私は、エイト君か、さもなくばその付属物なのだ。そう思うと、なんだかむかむかしてきた。

 だが、考えようによってみると、これは面白い状況だ。今なら何をやっても、虹谷君にはエイト君の仕業と映る。私は虹谷君を獲物と定め、彼らを追いかけた。幸い、すぐに追いつくことができた。

「どうしたの?」と、振り向いた虹谷君の腕の空いた方に、私はしがみついた。

「浮気しちゃいやだよ」
「う、浮気って……」

 虹谷君はうろたえている。バスケ部員はといえば、組んでいた腕を離して、ぎょっとした顔で虹谷君と私とを見ている。しめしめ。

 私は虹谷君に、追い打ちをかけた。

「ミス研のメンバーは、君を除いたら、エイト君一人じゃないか。エイト君が可哀想だと思わないのかい?」
「でも、それは、そういう約束だったし……というか、ええと……武彦くん。ちょっと、離れてくれないかな」
「そんなつれないこと言わないでくれよ。君と私の仲じゃないか」

 私は虹谷君にひしと抱きついた。どさくさに紛れて尻もなでてやった。虹谷君は顔を真っ赤にして、本気で狼狽していた。かわいい人だ。うぶな反応が面白かったので私はさらにちょっかいを出し続けた。ジャケットのボタンを外し、ネクタイを引っこ抜いた。やがて怪しげな雰囲気に恐れをなしたか、それとも虹谷君の色香にやられたか、バスケ部員は目をそらしながら「今日はいいよ、虹谷」とだけ告げて、足早に引き上げていった。

 二人きりになると、虹谷君は小さく息を吐いた。彼の頬はまだ紅潮していた。

「……武彦くん」
「ん?」
「そろそろ勘弁してくれ。詠人に殺される」
「何言ってるんだよ。エイトは僕じゃないか」
「あ、詠人……」

 虹谷君が明後日の方を向いて呟いたので、私は慌てて虹谷君の背に隠れた。おそるおそる様子をうかがってみるが、エイト君の姿などどこにもない。虹谷君を見上げてみると、彼はにこにこ笑っていた。

「お返しだよ」
「…………君も人が悪いね」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。さ、いい子だから、ネクタイ返して」

 私は戦利品を袖の中に押し込んで、ふいとそっぽを向いた。だが「武彦くん」と優しく呼ばれると、どうにも弱い。私は仕方なく、虹谷君の手にネクタイを乗せた。

 服を整えると、虹谷君は歩きだした。結局、ミス研の部室へ向かうらしい。別に離れる理由もなかったので、私は虹谷君のあとをついていった。

 エイト君は放課後も缶詰らしく、部室へは来ていなかった。虹谷君が椅子に落ち着くと、私は彼の顔がよく見える向かい側に陣取った。

「それで……武彦くんは、どうしてそんな格好してるの?」
「私が私らしい格好をしちゃいけないかい?」
「悪いってことはないけど。今、詠人が君に扮して謹慎してるだろ? そこへ来て、武彦くんが武彦くんに戻ってしまうと、君が二人いることになる。帳尻が合わなくなってしまうよ」
「でも、本物は私だよ」
「うーん。まあ、そうだけど……でも、詠人が困るよ、きっと」
「別にいいさ」

 私は机に頬をつけた。

「エイト君の恰好をしてたって、窮屈なだけだし。……つまらないよ」
「つまらない?」
「…………うん」

 彼のまとう穏やかな空気に促されるように、私は自然と、心中を吐露していた。

「誰も彼も、エイトエイトエイトエイト。私の名前は…………武彦なのに。エイト君じゃないのに、みんなが私をエイトと呼ぶから、私はエイト君でいなきゃならない。……いや、わかってるんだ。頭では。エイト君が頑張ってくれているから、私もちゃんとやらなきゃならないってことは。でも……寂しいんだ。みんなの目の前にいるのに、気づいてもらえないのが、私は一番おそろしい。
 ……虹谷君も、私がエイト君の兄弟だから、何かと良くしてくれるんだろうけど……」
「それはちがうよ」

 虹谷君に目を向けると、彼の手のひらが中空を漂っていた。その手は、ゆっくりと私の方へ近づいてきた。髪へ届くかと思われたその手は、私に触れることなく、彼の胸の前まで引っ込んでしまった。
 いつもそうだ。彼は手を伸ばして来るくせに、決して私に触れようとしない。エイト君とは、頬を引っ張ったり肩を叩いたりして、少年らしくじゃれあうのに。

「ほら。エイト君とはいちゃいちゃするくせに。私には、触ってもくれない」
「……ごめん。おれは君と仲良くしたいけど、詠人とも、友達でいたいんだ」

 私は頬を膨らませた。

「エイト君より、私と仲良くしてほしい」

 しばらく答えがないので不安になって、ちらっと上目にうかがってみた。彼は口元を手で覆っていた。頬はうっすら赤いように見えた。

「……それは、友達として?」
「え? ……うん。差し当たっては………」

 何だか告白めいた雰囲気になってきた。気恥ずかしくなって、カーディガンの袖を伸ばして、その中に手を引っ込めようとしていると、虹谷君が言った。

「じゃあ、そうだな。ええと……今度、詠人抜きでどこか出かける?」
「本当かい?」

 私は思わず立ち上がった。虹谷君はにこにこしながら答えた。

「うん。ただし、条件を一つつけてもいいかな」
「うん、いいよ。なんだい?」

 私は高鳴る胸をおさえて、虹谷君の言葉を待った。たっぷり十秒も経ったかと思う頃、彼の唇が動いた。

「君が、今度の試験で、おれよりいい点、取れたらね」



◆一念発起、だがしかし

 私は家に帰るとすぐ、机にかじりついて猛勉強を始めた。学習机に教科書とノートを広げ、鉢巻を締め、一週間後の学力考査に備えて気合いを入れた。

「やあ、また何か新しい悪戯の下ごしらえかい……」

 エイト君は机を覗き込んで、素っ頓狂な声を上げた。

「あれえ? ひょっとして君、勉強してる?」
「うん、そうだよ。だから邪魔しないでくれよ」
「しやしないけど……驚いたな。一体どういう風の吹き回しだい?」
「ん? ふふふ。実はねえ……」

 事と次第をエイト君に話すと、彼はにっこり微笑んだ。

「ふーーーーーーーーーーーん。そうなんだ。今度のテストでいい点取れたら、虹谷君が、君とデートしてあげるって、そう言ったんだ?」
「うん」
「ふたりっきりで」
「うん!」
「へえー。そうなんだ。虹谷がねえー」
「そうだよ。虹谷君がだよ」

 私は上機嫌で、机に向き直った。

「そういうわけだからエイト君。邪魔しないでくれよ」
「…………邪魔なんかしやしないよ。しないけどねえ。無謀な挑戦だと思うよ」

 エイト君は私の肩に腕を乗せた。

「虹谷君が新入生代表の挨拶をしたの覚えてるだろ? あれって入試での成績が最も優秀だった生徒がやるのが伝統なんだって。つまり我々内部進学組を抑えて、首席をかっさらっていったのがあいつだ。首席ってどういうことかわかるかい。トップだよ、トップ。学年トップ。一方の君はといえば、補習組のレギュラー……。結果は火を見るより明らかだ。君が虹谷君より良い成績を収めるなんて、逆立ちしたって無理な話さ。体のいい断り文句を言ったんだよ、虹谷君は」
「虹谷君はそんな人じゃないよ」
「そんな人だよ。虹谷君は。五つも六つも七つも八つも部活を掛け持ちして平然としているような優柔不断の八方美人野郎だ」

 私はペンを置いた。

「あのねえ。邪魔するなら向こう行ってくれよ」
「いやあ、悪い悪い。邪魔するつもりはないんだ、僕は。むしろ、君を応援しようって気持ちでいっぱいさ」
「どうだか」

 相手をしないようにしたが、エイト君はしつこく私に絡んだ。

「闇雲にやったってだめだよ。君、要点とか、ちゃんとわかってるのかい?」
「…………」
「僕でよかったら教えてあげられるけど」
「エイト君は意地悪だから嫌だ」
「まあそう言うなよ。虹谷を出し抜くのはそう簡単なことじゃないよ。まして日がないんだから、効率的にやらなくちゃ。その点、僕の指導は合理的だよ。ほら、思い出してごらん。僕の張ったヤマが今まで外れたことあるかい?」

 言うことはいちいちもっともだ。それに実際、エイト君の山勘は当たるのだ。テスト範囲を丸ごと覚えるといっても無理な話だ。悔しいが彼を頼って、要点を絞る方が、勝算が高いのは間違いない。

 私はちゃぶ台を準備した。エイト君は目を細めて、私の向かいに座った。
 エイト君謹製の問題に、私は真剣に取り組んだ。虹谷君とのデートが待っていると思うと、勉強には大いに身が入った。エイト君は私の指導をする片手間に、謹慎中の課題を黙々と片づけた。私が聞き分けよくしているせいか、暴言は一度も飛び出さなかった。
 私はエイト君の解説するのをしっかり聞き、覚えた。
 ところどころ、虹谷君に教わったところと違うところもあって、首をかしげることもあったが、そういう別解もあるというので、私は納得した。

 エイト君に教えてもらった内容を、私は正しく記憶した。ノートへきちんと書き写したのを、彼自身に確認までしてもらったのだから、間違いはない。

 総仕上げの問題の丸つけをする彼に、私は尋ねた。

「どうだい?」
「全部合ってる」

 ノートには花丸が踊っていた。私は思わず頬をほころばせた。

「驚いたな。まさかここまで君ができるとは思わなかったよ」
「エイト君のおかげだよ。どうもありがとう」

 私はエイト君に手を差し出した。彼はぎゅっと握り返して、「どうしたしまして」と微笑んだ。

「これで明日はばっちりだね」
「ああ。……完璧だよ」




◆逢引なんて許さない

 試験は未だかつてないほどの手応えだった。エイト君の山勘は見事に的中し、見覚えのない問題は一つとしてなかった。ペンは走りに走った。

 空欄はことごとく埋まった。時間は余ったくらいだった。どれも正解している自信があった。虹谷君とのデートも夢ではない。私はにやつきながら、デートの具体的なプランを練りさえした。

 私は成功を確信していた。

 だが、戻って来た答案は悲惨なものだった。

 もちろん、普段に比べると格段によい出来だった。だが私は、エイト君に教えてもらった通りに書いたのだ。返却された答案と、彼との勉強中にとったノートをきちんと照らし合わせたので、私の記憶の正しかったことは確かだ。にもかかわらず、ケチがついている。

 私は採点した教師に文句を言いにいった。すると、恐ろしいことが判明した。エイト君が教えてくれた、そのノートの内容の方に誤りがあるというのだ。
 まるきり間違っているというわけではない。だが教師いわく、授業のポイントというべき箇所が、ところどころ間違っているということだった。

 信じたくはなかったが、確かめないわけにはいかなかった。
 謹慎は既に明けていた。課題地獄から解放され、晴れて優等生に戻った彼は、部屋でのんびり本を読んでいた。

「ねえ、エイト君。そろそろテスト戻ってきただろう?」
「うん、戻ってきたよ」
「どうだった? ちょっと見せてくれよ」
「……まあ、僕の点数はいいじゃないか」
「そう言わずに、見せてくれよ」
「嫌だよ」

 などと言って、彼ははぐらかそうとした。
 しかしテストの結果は、ママに報告しなければならない。抜け目のない彼のことだ。いつ催促されてもいいように、十中八九、家へ持ち帰っているはずだ。

 エイト君が風呂へ行った隙を見計らって、私は部屋中をひっくり返した。答案をまとめたクリアファイルは、彼の本棚の奥から出てきた。

 エイト君の答案は、丸で埋め尽くされていた。彼に教えてもらった通りに解いた私の答案にはバツがついているのに、エイト君の答案は、同じ問題でちゃんと丸がついていた。とどのつまり……とどのつまり、エイト君は、正しい答えを知っていたにもかかわらず、私には、わざと、嘘を教えたということだ。

「あーあー。何だよ、もう。こんなに散らかして……」

 部屋一面に散乱した本や服や寝具を片づけながら、エイト君が言った。寝巻姿で戻ってきた彼に、私は詰め寄った。

「エイト君。これ、どういうことだい」
「ん? ああ…………」

 突きつけた答案を一瞥し、彼は面倒くさそうに答えた。

「今度の試験の答案だね。それがどうかした?」
「どうかした? だって……?」

 悪びれもしない態度に腹が立って、私は思わず、彼の答案を握りつぶしてしまった。

「よくもそんなことが言えたものだね。私には大嘘を教えておいて、自分だけちゃっかり正しい答えを書いて。こっちは、真剣だったんだぞ」
「知ってるよ。……でも、僕も完璧じゃないからね。時には間違えることもある」

 彼は集めた本の山を、どさっと机に置いた。

「…………テスト直前に教科書を確認するまで、僕も自分の理解が間違っているのに、気づかなかったんだよ。……試験の始まる前に、君に教えてやれなかったのは、悪いと思ってるけど」

 とってつけたような言い訳だ。とても信じられなかった。私は彼の答案をぐしゃぐしゃに丸めて、エイト君に放り投げた。彼は難なくそれを受け止めた。

「ああ、そうそう。虹谷君は、平均すると八十点そこそこだって。受験組のトップって言っても大したことはないね……。ところで君はどうだった?」

 彼はきょろきょろ辺りを見回して、私の机の上に目をとめた。重なった答案用紙を広げて、点数を読んだ。平均そこそこの数字に目を走らせた時、彼の口元にうっすらと、酷薄な笑みがにじんだのが見えた。

「へー。結構頑張ったね。いつもの君からすると、飛躍的な進歩だ。賞賛に値するよ。まあ、でも約束は約束だ。かわいそうだが、虹谷君とのデートは諦めたまえ」

 彼は私の肩をぽんとたたいて、淡々と部屋を片づけた。

「まあ、そう気を落とすなよ。次があるさ。それに君が頑張ったのは、僕がよくわかってる。君はやればできる奴だ。うん、立派立派」
「……………………」
「ああ、そうだ。このところ勉強勉強で疲れただろ? 今度の週末、気分転換にどこか遊びに行こうよ。遊園地とか……動物園とか、水族館とか……」

 私はエイト君に枕を投げつけた。それは彼の背中にぼすっと当たって、本の海に沈んだ。
 エイト君はため息をついて、ゆっくりと私に目を向けた。

「虹谷なんか顔だけだよ」
「顔も性根も、君なんかよりよっぽどきれいだ」
「学習能力ないなあ。…………ちょっとは懲りろよ」
「余計なお世話だ!」

 私は二つ目の枕をぶん投げ、部屋を飛び出した。


【NEXT】


当初の予定(プロット)に存在しない話ばかりが出来てゆきます。
虹谷君のエピソードは10枚くらいでサックリ終わらせるつもりだったのに、どうしてこんなことに……