◆保護

 着の身着のままで私は家を飛び出した。

 雲間から三日月が顔を出していた。友人の家にお邪魔しようかと思ったが、財布も取らずに来たので電車にも乗れない。結局私は、あてどもなく歩いていた。

 すっかり夜の帳は下りて、行き交う人もまばらだった。街灯の照らす寂しい道をトボトボ歩いていると、とんと私の肩を誰かが叩いた。

「きみ。こんな時間に何してるの」

 制服姿の警官だった。
 まだうろうろしていて怒られるような時間でもないと思っていた。しかし、これ見よがしに向けられた腕時計では、二十三時を回っていた。

「学生さんだよね?」

 警官は厳しい顔つきで、ジロジロと私を見た。

 まずい。

 私は反射的に目を伏せた。そうすると、かえって怪しまれてしまった。歳は、学校名はと、畳みかけるようにして質問が飛んできた。どうにか上手いこと切り抜けられないかと試みるも、スウェットにサンダルという出で立ちでは、説得は困難だった。
 必死の言い訳もむなしく、ついに私は、署までご同行を願われることになってしまった。

 非常にまずい。ただでさえ先日の謹慎の件で、ママはご機嫌斜めなのだ。その上補導なんてされた日には……考えるだけで恐ろしい。

 警察署へ連行されている途中、黒塗りの車が我々の脇を通り過ぎていった。路肩に停まったあれが、天の助けだったらいいのに。そう思ってじっと見つめていると、本当に天の助けだった。

 後部座席のドアが開いて、タキシード姿の男が出てきた。彼は車を降りるやいなや、我々の方へ走ってきた。

「何かありましたか?」
「知り合いかね?」

 警官が尋ねた。私は戸惑いながらも頷いた。ただその警官は、駆け寄ってきたその美男子を見て、怪訝な顔をしていた。無理はない。虹谷君は、まるで舞踏会から抜け出してきたかのような見事な夜装姿で、私も一瞬、誰だか気づかなかったくらいだ。

「彼、学校の友達なんです。ちょっと会う約束をしていたんですが、行き違いがあって、はぐれてしまって……見つかってよかった」

 虹谷君はさらりと嘘をつき、そっと私の肩を抱いた。

「詠人も心配してるから。行こう」
「う、うん……」

 私は警官の方を振り返った。行ってもいいのだろうかと思ってじっと見ていると、彼は目を細めた。

「うろうろしないで、早く家に帰るんだよ」
「……はい」

 自転車に乗ってパトロールに戻ったのを見届けると、私はほっと胸をなでおろした。

「ありがとう、虹谷君。助かったよ」
「ああ。じゃ、やっぱり補導されてたんだ?」
「うん」

 それにしても気になるのは、虹谷君の格好だ。
 彼はいつにも増して華やかだった。正装姿は洗練されて美しく、何かオーラめいたものが出ているように見えた。彼のために車の扉をうやうやしく開く運転手の態度からしても、ただものではない様子だ。

 虹谷君は家まで送ると申し出てくれた。だが、私は家には帰りたくないのだ。エイト君の顔など見たくもない。でも、せっかく会えた虹谷君と、すぐお別れするのも惜しい。黙り込んでいると、虹谷君が再度促した。

「立ち話もなんだから。ね?」
「……うん」


 座り心地の良い革張りのシートに、虹谷君は慣れた風情で足を組んでいた。彼のタキシード姿に対し、スウェットにサンダルという私の出で立ちは、なんとも場違いな感じがした。しかし虹谷君の態度は、普段と何一つ変わらなかった。彼は常と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて、私をのぞきこんだ。

「それで、武彦くん。こんな遅くに、どうしたの? 君の家からこんなところまで、部屋着にサンダルでうろうろするような距離でもないだろ?」

 掛け持ちとはいえさすがにミス研だ。なかなか鋭い。

「ママに怒られちゃった?」
「ママじゃないんだ。……エイト君だよ。悪いのは」
「……何かあった?」

 思い出すと、ふつふつと怒りがよみがえってきた。私はエイト君の悪行を、余すところなく暴露した。

「なるほどね。試験前に嘘を吹き込まれたのか」

 私は力強く頷いた。

「……まあ、詠人ならやるかもしれないね」
「ひどいだろう?」
「ひどいね」

 彼は苦笑した。私が追加でエイト君の悪口を言う前に、虹谷君が口を開いた。

「まあ、でも、詠人もね。ちょっと神経質になってるんだと思うよ。彼はブラ…………ええと。兄弟想いだからね」
「兄弟想いなら、あんな意地悪するものか」

 私は頬を膨らませて、そっぽを向いてみせた。どうせ彼はエイト君の味方なのだ。
 車を降りようとすると、虹谷君が言った。

「あ、武彦くん。どうしたんだい」
「降りるよ」
「え? まさか歩いて帰るつもり?」
「帰るもんか。あんな家」

 ドアをがちゃがちゃやったが、ロックがかかっていて開かない。

「君の気持ちもわかるよ。でも、もう随分遅い。今日のところは帰った方がいいと思うよ」
「……………」
「それとも、どこか他に、行くあてでもあるの?」
「……あるよ」
「本当に?」
「…………」

 私はハンドルをいじめる手を止めて、ちらっと車外を見た。街灯の照らす寂しい通りに、飲み屋の看板が光っている。近くで事件でもあったのか、警官隊がうろうろしている。車を降りてしまったら、もれなく捕獲されそうだ。

 考えてみれば、駅に着いたとしても、もう終電はないのだ。迎えに来てもらうにしたって、財布も何も持たずに来たので、十円玉すらないときている。
 困り果てていると、虹谷君が言った。

「一旦、おれの家に来る?」

 虹谷君のおうちと聞いて、一瞬喜んでしまったが、私はすぐに首を振った。

「ううん。気持ちだけ受け取っておくよ。こんな遅くにお邪魔しては、お家の方にもご迷惑だろうし……」
「構わないよ。こんな時間に夜道に放り出すよりは、断然いい。…………やってくれ」

 車が動き出した。私はうろたえたが、虹谷君はにこにこしていた。



◆美術品だらけの家

 虹谷君の家ははじめてだ。夜分に申し訳ないとは思いながらも、彼の家は一体どんなものだろうと、私はちょっぴりワクワクしていた。

 数十分ほどして降り立ったその場所は、私の想像をはるかに超えていた。

 それは緑豊かな郊外に建てられた、見事な洋風の邸宅だった。

 月光の降り注ぐ庭で、石になった妖精たちが踊っていた。その芝の舞台を縫って、車の通ってきた石畳が、はるかかなたまで伸びていた。我々を下ろすと、車はゆっくりと、遠ざかっていった。

 屋敷は赤れんが作りで、三階建てだった。一階の外窓の上から彫刻の鷲が見下ろして、なかなか荘厳な雰囲気だ。
 玄関ホールの天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がり、二階へ通じる階段の手すりには、素人目にも手の込んだ見事な意匠が施されていた。

 大したことはないと虹谷君は謙遜したが、とんでもない。大した豪邸だよ。

 なにせ、三百六十度四方、どこに顔を向けても美術品が目に入るのだ。ただごとではない。

 美術商である彼の父が集めたという絵画や彫刻のずらりと並ぶ廊下を経て、私は応接間と思しき部屋に案内された。

 そこも素晴らしい部屋だった。ソファは車のそれより、遥かに座り心地が良かった。ふんわりと体を優しく包み込むような極上品で、これに比べたら我が家のソファなんて煎餅だよ。

 そのまま眠ってしまえそうなくらい快適なソファに沈んでいると、虹谷君が笑みを深めた。

「そのソファ、詠人も好きなんだよ」
「エイト君は来たことあるのかい?」
「うん。何度かね」

 そんな話をしているうちに、上品な老紳士がココアを持ってきてくれた。
 虹谷君が口をつけたのを見て、私もカップに口をつけた。

 一息ついて部屋を見回すと、上質な調度の数々に改めて舌を巻いた。エレガントな背もたれの猫足の椅子は、もしやチッペンデールの作ではあるまいか。暖炉の上に飾られた肖像画も、虹谷君にそこはかとなく面影がある。

 その部屋に、虹谷君はまったく見事になじんでいた。最高級の工芸品や美術品の中にあって、少しも浮くことなく、空間全体が彼を含めた一枚の絵画であるかのように、自然に溶け込んでいた。それは彼の生まれ持った美貌のためというよりも、むしろ今日までに培われてきた気品と教養のあらわれのように見えた。

 優雅にカップを傾ける彼は、どうも本当のお金持ちらしいというのが、私にもしみじみわかってきた。

 彼の品のよさや人当たりの良さは、考えてみれば確かに、上流階級のそれだ。生徒たちが彼を慕うのも、民衆が王子を慕うのによく似ている。

 虹谷君は、人の上に立つべくして生まれ、育ってきた人であるかのように思われた。輝かしい将来を約束された、良家の御曹司だ。私なんぞと火遊びをしてもいい御仁ではない。

 虹谷君が、デートの条件として、私にとって非常に厳しいものを突きつけてきたのも、エイト君が躍起になって邪魔をしようとしたのも、少しはわかるような気がした。

 虹谷君のことを好きな気持ちに嘘はない。でも、お金目当ての浅ましい男だと思われたら……。そう思うと、なんだか恥ずかしくて、いたたまれなかった。

 ココアを飲み終わったらおいとましよう。そう決めたが、虹谷君の姿のよく見える、快適な特等席は、非常に離れがたかった。ココアが飲み頃の温度になっても、私は諦め悪く、ちびちびとすすっていた。



◆美男子すぐ脱ぐ

「そういえば、武彦くん」
「うん?」
「その……この間言ったのって、本気?」
「この間のって?」

 虹谷君は頬を染めた。伏せた目に長い睫毛の影が落ちた。

「詠人より、仲良くなりたいっていう……」
「ああ……それなんだけどね」

 私はコップを空っぽにすると、彼に微笑みを返した。

「……忘れてくれないかな」

 虹谷君は眉根を寄せた。気を悪くさせてしまったと思い、私は慌てて釈明した。

「ああ、いや。君と友達になりたくないってわけじゃないんだ。ましてや冗談半分や、からかうつもりで言ったわけでも、ないんだ。ただ……君のこと、よく知らなかったものだから」

 虹谷君に目を向けると、必然的に、彼を彩る数多の美術工芸品も視界に入った。
 きらびやかな空間に、私はひどく場違いだ。この場所が、スウェット姿で存在しても良い場所ではないことは、さすがに私でも理解できる。

「不躾な頼みだったと自覚してる。もう分不相応なことは言わないよ。……だけど、もしよかったら、これからも、エイト君と仲良くしてやってくれ」

 私はカップを置いて、重い腰を上げた。

「面倒かけて悪かったね。迎えを呼ぶから、電話をお借りできるかな」
「待って。武彦くん」

 虹谷君は駆け寄ってきて、私を再びソファに導いた。

「帰るなら送る。……し、君の言うことに、おれは納得できない」

 目をぱちくりさせる私を見下ろして、彼は言った。

「まず、分不相応って何?」
「……これだよ」

 私はスウェットの肩のあたりを、ちょいちょいと引いて見せた。

「君のに比べたら、随分格が落ちるだろ? 足元なんてサンダルだしね。楽だから、私は常日頃、こういう、だらだらした格好でいるんだ。お目にかかっても差し支えのない服なんて、制服くらいのものだよ。……いや、どうも、失礼をしてすまなかったね」

 虹谷君は顔をしかめていた。どうやら怒っているらしい。まあ、当然といえば当然の話だ。

「本当に、悪かったよ。すぐおいとまするから、気を悪くしないで……」

 私はぎょっとした。なぜって虹谷君が、おもむろに服を脱ぎ始めたのだ。

 純黒のジャケットを脱ぎ捨て、蝶ネクタイを放り投げ、シャツのボタンを外し、彼は身につけていたものを、次から次へと、そこらに脱ぎ散らかしていった。黒光りする革靴を投げ捨て、靴下を脱ぎ捨て、そして彼がベルトに手をかけたところで、私はようやく止めに入った。

「に、虹谷君。それ以上は……」
「そう?」

 鍛え抜かれた見事な上半身をあらわにしたまま、虹谷君は微笑んだ。

「君の格好に比べたら、おれのは随分格が下がると思うけど、大丈夫?」

 私は頷くよりなかったよ。実際、仕方がないじゃないか。彼にそこまでさせておいて、邪険になんて、一体誰ができるっていうんだ。



◆特権

 空になったカップは下げられ、二杯目はホットミルクを供された。

 虹谷君は相変わらず半裸だったが、堂々としたものだった。
 私の心臓にはあまり優しくなかったが、眼福ではあった。彼が相手なら、もうどうかなってもいいとすら思えた。

「デートに誘ったの、迷惑だった?」

 私は首を振った。

「嬉しかった。とても。だから、勉強なんて大嫌いだけど、頑張ったんだ」
「じゃあ、また改めて誘ってもいい?」
「もちろん。……今度のテストは、もっとうまくやるよ」

 そう答えると、虹谷君ははにかんだ様子で、頬をかいた。

「いや……ええと。できたら、今度の週末にでも。どこかご一緒できたらいいなあ……とか、思ってるんだけど」
「え? でも、そういう条件じゃ……」
「あれはね。あれは…………おれと遊んでて成績下がったりしたら、絶対、詠人がいちゃもんつけてくると思ってさ。……うるさいだろ? あいつ」
「すごく」

 私は深々と頷いた。

「でも、おれとつるむようになって君の成績が上がったとなれば、詠人だって、認めざるを得ないと思うんだ。おれは武彦くんにとって非常に有益な存在で、友好を結ぶに値する人間だってことをね。そしてそれは、きっともう、証明済みなんだ。
 それにね。おれは、とうの昔に、君とは友達のつもりでいるんだよ。だから、お茶くらいいつでも付き合うし、行きたいところがあるならご一緒させて欲しいんだ。詠人はうるさく言うだろうけど、まあ、おれには、君と喋る権利があるからね……」
「権利?」
「そう。……より正確に言うなら、担保かな」

 私は首を傾げた。彼が「実はね……」と言いかけたその時、ノックの音がした。

「ああ、来たみたいだ」

 虹谷君が老執事に目配せすると、扉が開いた。

「こちらでございます」
「ありがとうございます」

 誰ぞやを案内してきたメイドが、私の顔を見て目を丸くした。私もきっと、彼女と同じ表情をしていただろう。全く動じずにいたのは、主人が脱いでさえ平然と構えていた老執事と、事情を全部知っていた虹谷君、そして部屋に入ってきた新しいお客さん、すなわちエイト君くらいだった。

「君にしては遅かったね」
「タクシーが捕まらなくてね。……金曜日だから仕方ないけど」

 そう言うとエイト君は私を一瞥し、肩をすくめた。

「どうしてここに……」
「おれが連絡したんだ。……いや、悪く思わないでくれよ武彦くん。何も言わずにいたら、おれが誘拐した風になってしまうから。それに時間が時間だし、詠人も気が気じゃないだろうと思ってね」
「ご親切にどうも。だけどーーーー」

 エイト君は冷ややかな眼差しを、虹谷君に向けた。

「僕に内緒で連れ出して、裸体を見せつける権利なんて、やった覚えはないんだけどな」
「補導されてた方がよかった?」
「……その点に関してだけは感謝してるよ。その点だけはね」

 エイト君はつかつかと私の方へ歩み寄ってきた。怒られるかと思ったが、彼はため息をついただけだった。

「帰るよ」

 エイト君の手のひらが、目の前に差し伸べられた。私はふいとそっぽを向いて、温かいカップに両手をくっつけたままでいた。ささやかな抵抗だった。彼は再びため息をつき、私の隣に腰を下ろした。

「タクシー待たせてるんだけどな」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、彼は結局、私がカップの中身を干すまで待っていた。

「ちょっと待って、詠人」
「……何?」

 エイト君が足を止めた。彼に手を引かれていた私も、虹谷君を振り返った。

「武彦くんのタクシー代をもらわなきゃいけない。それにサービス料も」
「はあ?」
「おれが機転を利かさなかったら、今頃彼は警察署だよ。警察署で君を待つのと、おれの家で君を待つのとは、随分差があると思うけどなあ」

 エイト君は舌打ちした。

「わかったよ。何がいいんだ、何が」

 虹谷君はちらっと私へ目を向けて、悪戯っぽく微笑んだ。

「武彦くんを一日連れ出す権利でどう?」
「……………………………………………………はんにち」

 エイト君は苦々しげな顔つきで、絞り出すように言った。

「一日」
「だめだ。半日以内。……六時間。ないしそれ以下だ。それ以上は一秒たりとも認めない」
「わかった、じゃあ、それでいいよ。貸してくれるね?」
「……………ああ」

 返事をする声は震えていた。私の手を握るその手には、思いきり力が込められていた。痛みを訴えると、エイト君は「ごめん」と呟いて、ほんの少し力をゆるめた。

「でも、いいか、一回きりだぞ。それで今度の貸しはチャラだ」
「はいはい。わかったよ。じゃあ、そういうことだから、武彦くん。行きたいところ、考えておいてね」
「うん」
「おやすみ」

 微笑んだ虹谷君に、私は手を振り返した。たぶん、満面の笑みで。



◆虹谷の道楽

 それから一週間ばかりの後、虹谷君と遊園地に出かけたよ。……お邪魔虫つきでね。

「同伴しちゃいけないなんて約束はしてなかっただろ?」

 などとのたまって、エイト君は我々にしつこくへばりついてきた。

 コーヒーカップに乗っても、お化け屋敷に入っても、観覧車に乗っても、レストランに入っても、彼はくっついてきた。さも我々の一味であるかのような顔をして、我々のお喋りに口を挟んできた。ちょっと腕でも組もうものなら、間に割って入って邪魔をしてくる。しかも、引き離しても引き離しても、いつの間にか追いついてくる。まったく見事な尾行術だよ。

 アトラクションは楽しむものではなく、お邪魔虫を引き離すための手段に成り下がっていた。私と虹谷君は丸一日を費やして、エイト君をどうやって振り切るかという難問に取り組んでいたようなものだ。デートどころじゃなかったよ。

 ……まあ、それはそれで、楽しい思い出にはなったけどね。


 ああ、そうそう。それでね。

 逃げ疲れてベンチでちょっと休んでいる時、虹谷君に、先日聞き損なったことを尋ねてみたんだ。……ほら、彼がエイト君とちょこちょこ話していた、例の「権利」とやらについてだよ。

 なんでもね。エイト君、自分の探偵活動のために、虹谷君の私財を借用する見返りに、私との諸権利を切り売りしていたって言うんだ。

 やれ私を何センチ以内の距離で見る権利だの、声を聞く権利だの、においを嗅ぐ権利だの、話しかける権利だの、何のかの。……もちろん、当の私に一言の断りもなしにだ。まったく、ひどい話だよ。

 虹谷君が私に一向触れようとせずにいたのも、それが原因なんだ。結局のところ、私に触れる権利というものを、彼が持っていないという、ただその一点に過ぎなかったんだ。

 エイト君に付き合って、そんなばかな取り決めを律儀に守る虹谷君も虹谷君だ。だがまあ、別段嫌われていたわけではないということがわかって、私はちょっとほっとした。

「なんだよ。もう……嫌われているのかと思ったよ」
「ごめんごめん」

 虹谷君に寄りかかって、ため息をつくと、彼はぽつりと呟いた。

「でも、武彦くんは、もう少し危機感を持った方がいいと思うなあ」
「どうしてだい?」
「おれの権力の行使が、条件の範囲内である限り、詠人は君を助けてくれないからさ」

 彼は美しい顔を私の間近に寄せて、ちらっと脇へ目を向けた。その視線の先には、我々にしつこくつきまとうお邪魔虫がいた。
 エイト君がコーヒー缶を握りつぶしたのを見て、虹谷君はくすくす笑った。

「楽しいね」
「ん……? うん」

 約束の時間が来るとエイト君は、虹谷君からひったくるようにして、私の腕をつかんだ。
 虹谷君に慌ただしくお別れを告げて、お邪魔虫と帰る道すがら、私はしみじみ思ったものだ。

 虹谷君は美貌、知性、運動神経、品性、家柄と、すべてを兼ね備えた素晴らしい人だ。恋するに値するすてきな人だ。それにひきかえエイト君ときたら、顔は十人並みだし、美的センスはないし、口は悪いし、自分のために兄弟を売るような卑劣漢だ。頭がいいったって、働くのは悪知恵ばかり。

 …………まあ、時々は、優しいけど。でも、やっぱり意地悪な奴だよ。エイト君というのは。あったかいのは、手のひらくらいのものさ。


【NEXT】


たまには残念じゃないイケメンを書こうと思って頑張ってみたのですが、やっぱりダメでしたね。