「限りなくクロに近いブルー(Ⅱ-5)」

◆11

 翌日ルイスは、電子端末にキーボードをくっつけて、何か書類を作っている様子のミトに尋ねた。

「あの、司令部の人って、ボクらの居住区に来たりすること、ある?」

 ミトはキーボードを叩く手を一瞬止めた。

「司令部って一口に言っても、いろいろあるからね。よその部署は、どうかわからないけど。でも、少なくとも管制室の人間は行くことないかな」
「ほんとに?」
「うん。別に用事もないし、そんな暇もないしね。……でも、どうして?」

 過日のことを話そうかどうか、ルイスは悩んだ。

 ルイスはてっきり、あの人はミトだと思っていた。あの夜に、ルイスに外套の切れ端と、甘い胸痛を残していったあの長身痩躯の黒外套の人物は、目の前にいる美青年だと思っていた。でも、口ぶりからするに、どうやら彼ではないらしい。
 となると、やはりあの日の黒外套の人物は、居住区への招かれざる客であって、得体の知れない不審者なのだ。司令部の彼に話したら、捕まえられてしまうかもしれない。

「ううん……なんでもないんだ」

 ルイスは首を振った。ミトは不思議そうに首をかしげて、また自分の仕事に戻った。

 黙々と作業するミトの背中を、ルイスはじっと見つめた。ポケットの中のお守りを握りしめながら。
 この布切れの主人がミトではないとしたら、あの日出会った人は、いったい誰なのだろう。そして、目の前の美しい青年に感じるこの感覚は?

 ミトのことをじっと見つめているだけで、ルイスの心臓は騒いだ。体が妙に熱くなり、息も切れる。時には、クラクラすることもあった。恋に狂った先輩たちが熱に浮かされたように語るその感覚を、ルイスは恋だと信じていた。

 同じ部屋で生活していると、自然、彼との距離は縮んでいった。だが、ミトのきれいな指先がルイスの肌に触れようとすると、ルイスはどうしてもその場にとどまっていられなくなってしまう。身を引いて、気まずい空気をごまかすための適当な言い訳をし、洗面所に逃げ込むのが常だった。

 ドアを閉めると、ルイスはため息をついた。

 はっきり言ってルイスは、ミトのことを好きだと思っていた。ミトに対して悪い感情を抱いていたという認識はなかった。だからルイス自身、どうしてそんな行動をとってしまうのか、まったく、理解できなかった。



◆12

 春宵館を訪れて、早一週間が経った。

 他のΩは着々と勤めを果たしているらしい。もうちょっと一緒にいたい気持ちもある。それはミトも同じらしく、ルイスの前で笑顔を見せる機会も増えた。実際、居心地はよかった。ただ、体の不快感だけが違和感だった。

 若くして司令部に入ったエリート。背が高くて優しくてハンサムな、理想的なダーリンだ。なのに、なぜか、体が受けつけない。

 頭をなでる手つきはやさしくて、気持ちいいはずなのに、脳は不快を認識する。慈愛に満ちた微笑みも、うっとりしてしまうほど素敵なのに、いざ彼のきれいな指が肌に触れると、ぞっとして鳥肌がひろがる。

 多少なりとミトに好意を抱いているだけに、こうした体の反応はわずらわしかった。
 ――相性が、よくないのかな。それとも、あいつに、うなじを噛まれたせい?
 ルイスは首を振った。
 ――そんなわけない。そんなわけないよ。

「ちょっと噛まれたくらいで、好きになる人も選べなくなっちゃうなんて、そんなのあるはずないよね」

 キスとかしてみたら、案外、あっさり解決するかもしれない。
 そう思って、ミトに唇を寄せようとしたこともある。けれど、体を近づければ近づけるほど、いやな汗が滝のように噴き出してくる。やがてひどい緊張がルイスを支配して、どうしても彼から背を向けずにはいられなくなるのだ。

 ルイスが事を急ぐそのたびに、ミトは穏やかに言った。

「ヒートが来てからでいいから」

 そうなれば、いやがおうにも、交わらずにはいられなくなる。どうしようもないほど圧倒的な、かの情欲の力は、ルイスもよく理解していた。

 実際、時間の問題ではあった。

 ルイスはそれが来るのが心待ちでもあり、恐ろしくもあった。体の調子からするに、あと数日といったところだった。

 ミトと結ばれる日まであとわずか。当たりか外れで言えば当たりのαなのだから、喜ぶべきことだし、子を成すのは、市民として、Ωとして、当然のことだ。だが、何とも言えないあの感覚が近づくにつれて、なぜか、自分のうなじを噛んだ意地悪な男の顔がちらついた。

 そういえば、最後にヨルシェと会ったの、いつだっけ。青いラボコートの男の顔を思い出し、ぼんやりと空想に耽っていることに気づき、ルイスは首を振った。

 ああ、もう、うっとうしい。ボクは、ミトと一緒にいたいんだ。自分に言い聞かせるようにそう念じるばかりでなく、ミトに向かって、はっきりと声に出してみたりもした。青年がうれしそうに眼を細めると、ルイスは正しいことをしたような気分になった。

 しかし彼の手がいざ自分の肉体に触れようとすると、怖気が走って、彼から逃げてしまう。そうするたびにミトが寂しげに顔を伏せるのが申し訳なかった。

 どの道、コトが済むまで外には出られないのだ。検査薬の結果が陽性を示すまでは。

 熱情に狂わされて、右も左もわからないうちに何もかも終わってしまうより、意識のあるうちに、自分の意思で結ばれる方がいい。それに、そうすることで、忌々しいつがいの存在を、頭から追い出せるような気がした。

 ルイスは、その夜、意を決した。
 机に突っ伏して、うとうとする彼の肩を揺らして、ルイスは言った。

「ねえ、ミト!」
「なに……?」
「しよう。今日」
「え? ……でも……」
「したいんだ! 今!」
「んん…………わかった」

 バスルームから上がって、温かくなった体でベッドへ向かった。

 ミトは緊張した面持ちで待っていた。広げた腕の中にそっと入ると、ルイスは、ミトに唇を寄せた。

 彼の肌に触れていると、やっぱり、なんだか眩暈がした。ぷつぷつと、じんましんが全身に広がっていった。息が苦しくなっても、我慢した。--こういうものなんだ、きっと。恋は甘いだけじゃない、時には苦いこともあるって、先輩が言っていた。

 バスローブが、はらりとはだけた。彼のきれいな指が、ルイスを優しく愛撫した。
 頭が、ぼうっとしてきた。なんだか視界もにじんできた。目の前にいるはずの青年の顔もおぼろげだったが、ルイスは手探りで、ミトの手を握りしめた。そうしているうち、彼の声も遠くなってきた。心臓は破裂しそうだった。ーー比喩でなく、その激しい拍動はルイスの呼吸を苦しめた。

 そしてとうとう、ルイスは意識を手放した。

 ルイスの名を呼ぶ美しい青年の声が、部屋にむなしくこだました。



◆13

 刺激的な薬物の臭いが鼻をついた。ルイスがまぶたを開くと、明るい色の天井が目に飛び込んできた。

 青ずくめの人物が数名、ルイスのそばで忙しそうに働いていた。Ωのフェロモン対策のために、彼らのほとんどはガスマスクを着けていたが、ひとりだけ、素顔をむきだしにしている者がいた。
 炎のように赤い髪の、美しい女性だった。首から下がったカードキーの名前は「ヘルミーナ」と読めた。

「ああ、お気づきですか」

 平板な声で、表情もさして変わらなかったけれども、彼女の口元は心なしかほころんでいるようだった。

「こちらはセントラル医療センターです。私は保健局長のヘルミーナ=モーリアン。貴方は春宵館で倒れて、こちらへ運び込まれたのですよ、ルイス=レイクサイドさん。……ご気分は?」
「悪くは、ない、です」
「そうですか、なるほど」

 デスクの上の薄っぺらいコンピュータを操作しながら、ヘルミーナは言った。

「お休みの間にざっと検査を致しましたが、これといった異状は見受けられませんでした。慣れない場所で、少し、疲れが出てしまったのかもしれませんね。二、三日もゆっくり休めばよくなるでしょう。……ええと、お勤めの最中なのでしたか。お望みなら、春宵館へ戻っても構いませんよ。なんなら点滴でもしていきますか? 五徹明けでも半死半生でもこれ一本打つだけで身も心もシャッキリ元気を取り戻して出勤できますよ。気乗りしない夜でも幸せを感じられますし、痛みや苦しみとはまったく無縁のユートピアへとご案内できます。私謹製の『スペシャルブレンド』ならね……」

 ミトに、会う。ドキリとした。なんだか胸騒ぎがした。彼のことを思い出すと、また、胸が嫌な感じに、ざわつきだした。顔を曇らせたルイスを横目に、ヘルミーナが言った。

「……それとも、入院していきますか? もちろん、私どもとしてはそちらの方がありがたいですが」

 ルイスは液晶モニタをうかがい見た。カルテと思しきソフトには、細々とした文字で何やらいろいろ書かれていた。

「接見会の最中に体調を崩される方は、珍しくないんですよ。どちらかといえば心因性の問題なんでしょうね。発情期のΩを受け入れることもありますから、院内でのヒート対策は万全ですし。もしもの時はすぐに対応できますし」

 ルイスはちょっと迷ったけれど、うなずいた。

「では、入院ということでよろしいですね?」
「…………はい」

 ルイスが再度首肯すると、ヘルミーナは「素晴らしい」と叫んで立ち上がった。

「では、ついでに色々検査していきましょう。血を採ったり髪を採ったり体液を採ったり……大丈夫、命にまったく別状のない、簡単な検査です。貴方のご協力が明日の医学を支えるのです」



◆14

 入院同意書、個室使用同意書、等々。読んでサインをと言われた書類を、言われるままに承認していく。ルイスが最後の一枚にカードキーと指紋を通すと、ヘルミーナは唇を歪めた。

「よし……これで貴方の身柄は保健局のものだ」
「え?」
「いえ、何でもありません。ではこちらへ……」

 病棟の入り口まで来ると、彼女のもとにガスマスクをつけた職員が一人やってきた。彼か彼女かわからないが、手にしたお盆の上にはコップが一つのっていた。

「入院前に、患者さんにはこちらをお飲みいただく決まりになっております」

 ヘルミーナは涼しげな顔でそう言うと、ルイスにコップを差し出した。
 ルイスはコップの中身をじっと見つめた。中では玉虫色の液体がゴボゴボ泡立っていた。

「これ、飲むの?」
「ええ」
「…………ちょっと、いや……かな?」
「規則ですから」

 ヘルミーナはにっこり微笑んだ。

「このエリキシル剤は、人体の抵抗力を極限まで高めて96.4989%の疾病を予防・治療することができる素晴らしい薬です。もちろん私が開発したのですが、副作用等はこれまでに一件も報告されておりません。ですからさあ、ひと思いに、ぐいっと」

 再度促され、ルイスがいやいやながらもコップを唇に近づけた。と、脇にいた青服の職員がルイスの手からひょいとコップを取り上げた。そしてコップを逆さにして、中身を床へぶちまけた。

「何をするんだね、君!」
「……未認可の新薬を患者に投与する許可は、診療部の方では出しておりません。薬剤部長殿」

 ガスマスクの下から、篭った男の声がした。青いラボコートを着た彼の声に、ルイスは聞き覚えがあるような気がした。ネームプレートへ目を向けたけれど、ちょうどひっくり返っていて見えなかった。
 そうこうしているうちに、その男とヘルミーナは言い争い始めた。

「その診療部がもぬけのからだから、仕方なくこちらで診てやってるんじゃないか。まったく。君たちは仕事を何だと思っている」
「もとはといえば貴方の劇薬のせいではありませんか。……忘れたとは言わせませんよ。スタッフステーションのコーヒーメーカーにブツを仕込んで、夜勤の連中を全滅させたあの事件のことを。被害を受けた職員は今も昏睡状態。被害を受けなかった職員も激務で一人また一人と脱落しているのです」
「だからこれ以上業務が滞らないよう、諸君には私謹製の『スペシャルブレンド』を投与してやっているじゃないか」
「そういう問題ではありません!」

 ルイスは、ヘルミーナと言い争う男の正体が気になって仕方なかった。声は絶対聞き覚えがあるのに、一体誰だろう。と、考えていると、不意にその彼に、腕をぐいと引き寄せられた。

「ともかく、彼は診療部で預かります。よろしいですね」
「えー」
「えーじゃありません。第一、貴方は薬剤部でしょう。入院患者の面倒はこちらで見ますので、どうぞご心配なく。ご自身のご研究に専念なさってください!」

 そう言い捨てると、男はルイスの手を引いて、ずんずん歩き始めた。

「……あの人は、他人を実験体と思っている節がある。ましてΩの検体は貴重だから、ヨダレが出るほど欲しいはずさ。とりわけ発情期寸前の、独身のそれなんて……」

 ぶつぶつ呟く男に、ルイスはとうとう尋ねた。

「あの。……あなた、だれ?」

 男は足を止めた。と思うと、その直後、深々とため息をついた。

「君は、ちょっと会わないうちに、自分のつがいの名も忘れたのかね」

 皮肉っぽいその語り口。尊大な態度。ようやくルイスは、彼の正体に思い至った。

「顔見えないし。……名札、ひっくりかえってるし」
「ああ、そうなのかい。どうも視界が悪くてね。君、よかったら元に戻しておいてくれ」

 ルイスは彼の胸元の名札を表へ返した。やはりそこには、ヨルシェ=メルディンと書かれていた。



◆15

 清掃の行き届いた廊下を歩いてしばらく行った突き当りで、ヨルシェは足を止めた。彼は病室の扉を開けると、ルイスに中へ入るよう促した。

「ここが君の病室だ。窮屈かもしれないが まあ、くつろいでくれたまえ」

 医療用のベッドのそばに、引き出しつきのサイドテーブルが一つ。春宵館の個室に比べると狭いが、ルイスの部屋に比べたら幾分か広いその部屋には、ベッドの両隣に椅子を広げられるくらいのスペースがある。入り口を入ってすぐ右手にはまた何やら扉があった。
 ヨルシェはテーブルの引き出しを開けた。

「必要なものがある時は、この中にある電子端末を使ってくれ。納入され次第スタッフが持ってくる……それから、君が婚姻届にサインしていないせいで、君はA級危険物――つまり、無差別にフェロモンを撒き散らして社会を混乱に陥れる生物兵器扱いに表向きなっているから、発情期が終わるまで、極力外には出ないように。バスルームはそこのを使ってくれ」

 それから彼はコートのポケットから小瓶を取り出した。その中から、青い錠剤を一粒出すと、透明な液体の入った小さなボトルと一緒にルイスに渡した。

「……なに?」
「ビタミン剤だよ。こっちは水だ。飲んでおきたまえ」

 ルイスが薬を飲んだのを確かめると、ヨルシェはようやく、大仰なガスマスクを外した。


【NEXT】(第三幕へ)


御覧いただきありがとうございました。
これにて春宵館編は終了とさせていただき、次話以降はメインヒーローのテリトリーである医療センターを主な舞台として物語を進めて参ります。(ヒートも来ます)

プロット通りに事が運べば、あと一幕(100枚以内)で終わるはずです。
最終幕でバーッと伏線回収しつつ、ハッピーエンドへ向けて突っ走っていければ……いいのになあ……。





あっ流れ星!
破綻しませんように破綻しませんように破綻しませんように!

2 thoughts on “「限りなくクロに近いブルー(Ⅱ-5)」

    1. > lilac 様
      拙作をご覧いただきまして、ありがとうございます。

      二幕では出番の少なかったヨルシェですが、三幕では多めに登場すると思います。
      設定等をさらに詰めつつ、ぼちぼち書き進めておりますので、気長にお待ちいただけましたら幸いです。


      コメントありがとうございました。

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