◆確認作業

「それでねえ、まったくエイト君ときたら困った奴でねえ…………」

 兄弟の愚痴をのたまう彼は、言葉でこそ文句たらたらだが、顔つきは穏やかだった。
 幾田はこれに似たものを知っている。つい先週、先輩に飲み屋へ付き合わされた時にも、同じ状況に見舞われた。

 とどのつまり、女が彼氏の愚痴を言う時と全く同じなのだ。
 あいつは全く仕方がない、どうしようもない奴だ。恋人の愚痴を吐き散らかしながらも、表情はまんざらでもない。

 自覚なく繰り出される、一見悪口めいたそれは、反語なのだ。自分の味方である第三者から、同情と羨望を引き出すための誘い水。自慢ではないのだという体裁をとることで自身の品位を守りながら愛をひけらかし、己が選定眼の正しさを再確認するための手段。そう、惚気である。

 青めがねは絶え間なく語り続けた。エイト君が、エイト君は、エイト君に、エイト君と、エイト君がエイト君でエイト君にエイト君のエイトエイトエイトエイトエイトエイトエイトエイト…………。

 まるで呪文のようなそれに幾田がややげんなりしかけてきた頃、呆れたようなその声はした。

「君は僕の悪口を聞かせるために、わざわざ僕の家に人を連れ込んだのかい」
「おや、エイト君。盗み聞きとは悪趣味な」
「何言ってるんだ。ドアを開け放して、聞こえよがしに喋っておいて。廊下まで筒抜けだぞ」
「そうかい。それは気づかなかったよ。失敬失敬」

 青めがねの男はコロコロと笑った。扉を閉めようとする男に、詠人は言った。

「ああ、待て待て。用があるから来たんだ」
「なんだい?」
「君らは、夕飯をどうするのかと思ってね」
「ん? ああ、もうそんな時間か…………」

 腕時計を確かめると、青めがねは振り返った。

「よし、出陣だ。幾田君、何が食べたい?」
「え? 君たち、外で食べるのかい?」
「うん。何か問題でもあるのかい?」

 詠人は顎をさすった。

「問題ってほどじゃないけど。……僕もまだなので、一緒にどうかなと、考えてただけさ」
「悪いけど私はア……幾田君とデートの途中なんだよ。さあ行こうじゃないか、ダーリン。ふふふ。今夜は帰らせないぞ」

 青めがねの男はこれ見よがしに幾田の腕をとって、階段の方へ歩いていった。

「あー、待て待て、タケ。君には残ってもらわなきゃちょっと困るんだ。君らが出かけてしまうと、僕一人になってしまうから……」

 男はくるっと踵を返した。腕を振り回されて、幾田の視界もぐるんと回った。

「へえ? エイト君、私がいないと困るのかい?」
「ああ。君がいないと、僕は大いに困るんだよ」
「何がどう困るんだい?」
「そうだな。差し当たっては……」

 にやにやする青めがねに笑みを返しながら、詠人は言った。

「差し当たっては、そうだな。吊り棚に入ってるポテチが取れない」
「………………」

 唇をとがらせ、青めがねはまた階段を目指し始めた。遠のいてゆく背中に向かって、詠人は声を張った。

「あー……あと、あれだ! 僕は無性に麻婆豆腐が食べたいんだ」
「出前をおすすめするよ。白虎軒なんて悪くない味だと思うがね」
「店のじゃだめなんだよ。知ってるだろ」
「だったら明日にでも竹内君に作ってもらったらいいじゃないか。どうせ明日も明後日もそのまた次も、君のお世話をしに来るんだろ」
「今欲しいんだ。ね、彼にも食べてもらったらいいよ。君の十八番を。……幾田君と言ったかね。ぜひうちで食べていきたまえよ。取り柄なんて数えるほどしかない愚兄だが、料理の腕はちょっとしたものなんだ」
「一言余計だよ」

 ふてたように言いながらも、青めがねの男の足は止まっていた。彼は服の袖をもてあそびながら、ちょっと考えるようなそぶりをしたあと、幾田に流し目を使った。

「…………まあでも、幾田君がどうしてもと言うのなら、腕をふるうのもやぶさかではないがね」

 正直なところ、幾田はどちらでもよかった。しかし彼の手料理というのも、考えてみれば食べたことはないのだ。幾田は興味本位でうなずいた。



◆暴君御用達

 レンゲを手に、幾田は己の選択をずっと後悔していた。
 幾田に供された、彼らが「麻婆豆腐」と呼ぶところの代物は、炎熱地獄か、さもなくば血の池地獄からデリバリーされたかのような恐ろしい色をしていた。罪人の生き血をじっくりコトコト煮詰めたようなどす赤い液体に、赤々とした断片が浮いている。理性の方に一旦持ち帰って精査するまでもなく、直感がデンジャラスを告げている。だが、この地獄の晩餐をリクエストした対面は、涼しい顔で食べ進めていた。

 こわごわ、においを嗅いでみると、存外悪くはなさそうだ。

 おそるおそる口に含み、咀嚼して数秒。見た目のわりには辛みはない。出来立てで、ちょっぴり熱いくらいだ。なんだ、大したことはないじゃないか。そう思って次の一口をすくおうとした時、それは来た。

 暴虐的な刺激が口中を駆け巡った。幾田は絶叫しながら、辺りを意味もなく走り回った。差し出された水をがぶがぶ飲んだ。それでも刺激は一向に引かない。

「何これ!? ……何これ!? 何!?」
「麻婆豆腐だよ」

 緩慢にそれを口へ運びながら、青めがねが答えた。

「…………暴君風のね」
「店のはどうも味気ない。やっぱりこれくらいでなくちゃねえ」

 一皿目をペロリと平らげ、詠人はおかわりを要求した。むすっとしながらも青めがねが席を立つと、家主は幾田のコップに水を注いだ。

「大丈夫かい?」
「…………死ぬかと思った。てか、まだ死にそう」
「ははは。唐辛子特盛だからね。はい、どうぞ」

 差し伸べられたコップの中身を、幾田は一気に流し込んだ。
 なかなか二口目へ手を伸ばせずにいる幾田をよそに、詠人は地獄の晩餐をスープのように流し込んだ。席へ戻ってきた青めがねも、ゆっくりではあるが、着実に箸を進めた。幾田は信じられないようなものを見るような目で、二人を見た。

「なんで平気なの?」
「辛さは痛みだからね。痛み刺激に人は慣れるものさ。な? タケ」

 詠人は、意味深な笑みを青めがねに向けた。青めがねは詠人の尋ねたのには答えずに、心配そうな顔つきで幾田を覗き込んだ。

「悪かったね、幾田君。……水より牛乳の方が和らぐよ。もってこようか。それとも何か、別の料理を用意しようか」
「いや……いいよ。大丈夫」

 実際それは、味は良いのだった。水を片手にひいひい言いながら幾田は激辛麻婆豆腐を食べ進めた。

 食べ終えるころには汗だくになっていた。

 幾田がジャケットを脱ぐと、青めがねの男もボタンをプチプチと外して、ふうと大きく息を吐いた。香辛料に蹂躙された唇は、赤く腫れぼったくなって、なんとも言えず艶めいていた。汗ばんだ額に張りつく髪も、紅潮した頬も、熱っぽく潤んだ瞳も、なにやら妙にあだっぽい。やはり写真で感じた色気は、勘違いではなかったなと、幾田はしみじみ思った。

 やっぱり絵のモデルは、彼に頼もう。そんなことをぼんやり考えながら、幾田はまたコップに口をつけた。

 一通り皿が片づいたあと、幾田は話を切り出した。青めがねは驚きながらも、二つ返事で快諾した。

 話はとんとん拍子に進んだ。場所はどうしようだの、どんな衣装がいいかだの、青めがねは大いにはしゃいでみせた。幾田と青めがねとが仲睦まじく話し合うところに、詠人は一切、口を挟まなかった。彼はまるで猛獣が獲物に飛びかかる好機を息を潜めてうかがうように、幾田を見つめ、時々は時計を気にしていた。ほどなくして、幾田が机に突っ伏すと、詠人はかすかに口角を上げた。



◆ジェラシーVSジェラシー

 倒れこんでしまった幾田の肩を、青めがねはゆすった。青年は、声をかけても、引っ張っても、つねっても叩いても、一向に起きなかった。彼は不自然に昏睡していた。

 青めがねは詠人に目を向けた。

「エイト君。何か盛ったな」
「ああ。ちょっとね。……これがミステリなら、永久の眠りについているところだ。彼は実に運がいい。何と言っても僕は紳士だからね。ほんの二、三時間まぶたがくっつくだけで済むんだ。実にラッキーだよ」
「何がラッキーだ。……ごめんよ、幾田君。こんな男のところへ連れてきてしまったばっかりに」

 青めがねはグッタリした幾田を、ソファまで引きずっていった。あまり大柄ではない青年をどうにかソファへ寝かせてやろうと、奮闘するさまを眺めながら、詠人は言った。

「サミー君といい、彼といい。最近は年下好みなのかい?」
「……それは、君の方だろう」
「何のこと?」
「年下の美男美女を、囲って、楽しんでいるのは、君の方だと、言っているんだ」

 どうにかこうにかソファに転がした幾田にブランケットをかぶせてやると、青めがねは皿を片づけ始めた。

「だからさあ。ビジネスだよ、あれは。人気商売なんだから、見目がいいに越したことはないだろ」
「そうだねえ。お世話をしてもらう人も、そりゃあ、若くて、きれいで、親切で……料理上手な人の方がいいものね」

 キッチンの壁に整然と並んだ調味料類へ目を向けて、青めがねの男は鼻を鳴らした。

「お気に入りの役者に、メインディッシュを手ずから作ってもらって、デザートにはご本人を召し上がるんだろう? いやはや、いいご身分だね」
「君もたいがいしつこいな。竹内君とは何もないって、何度言ったらわかるんだよ」

 最後の一枚を食器洗浄機に放り込むと、青めがねはまた、幾田がのんきに寝息を立てるリビングへ戻った。

「何度抜き打ち検査をしたってねえ、なーんにも出てきやしないぞ。だって事実がないのだからね」
「証拠の隠滅も捏造もお手のものだろう」
「ばか言え。僕が君一筋なのは、君が一番よくわかってるだろ」
「ああよく知ってるよ。君が嘘つきだってこともね」

 青めがねは本棚から本を引っこ抜いて、ぽいぽいと床にばら撒き始めた。

「おい。何の真似だ」
「魔よけだよ。君がこれ以上、私のかわいい幾田君に悪さをしないようにね」

 私のかわいい、の部分をとりわけ強調してそう言うと、彼はソファの周りを囲むように、書物の円陣を作っていった。青めがねはひょいと軽くまたげるほどの段差だが、彼自身の愛書でもって築かれたそれは、車いすの男には効果てきめんだった。

「……ああもう、まったく。仕方がないな」

 詠人は壁際に立てかけてあったマジックハンドを手に取った。彼は車いすを転がしながら、床に散らばった本をつまみ上げて、一つ所に積み上げていった。そうしていると、ふと青めがねが、彼の手にした便利道具に目をとめた。詠人はこれ見よがしに、はさみを開いたり閉じたりしてみせた。

「それがあれば君、吊り棚に手が届くんじゃないかい」
「うん、まあね。だけど君にはいてもらわなきゃ、実際僕は困るんだ。竹内君にはどうしても頼めないことが、一つあるからね」

 本のバリケードを突破すると、詠人はマジックハンドの先で、青めがねをつついた。青めがねは無視を続けたが、彼は服の裾をつまんで、ぐいぐい引いた。

「なあ。…………なあ。いい加減、キスくらいしてくれたっていいんじゃないのかい?」
「………………」
「君が来てから、僕は結構がんばったんだぞ。久々津さんを帰して、竹内君と祥子を追い払った。今夜の会食もキャンセル。明日朝イチの予定だって無理言ってずらしてもらった。……余計な手間をかけさせた罪滅ぼしに、ちゅーくらいしてくれたっていいだろう」
「友達に睡眠薬を盛るような悪党とは、してあげないよ」
「おい、言うにことかいて悪党とはなんだ、悪党とは。失敬な。第一、そもそものことを言うならな、不法侵入をしてるのは君らの方だぞ。言ってみりゃ僕は、僕のテリトリーを荒らす不埒な輩を排除しただけだ。いやなら連れてこなきゃいい。……そうさ、連れてこなけりゃいい。君は僕と違って、段差を一人で越えられるし、どこでも自由にほっつき歩けるんだからね」

 詠人はソファに背を向けた。手放した器械の手が床に落ちて、からんからんと空しい音を立てた。

「まあ、いいさ。君が嫌だって言うなら仕方ない。一人寂しく寝ることにするよ。間抜けな僕は君がそばにいてくれると思ってすっかり人払いしちまったんで、だぁーれも明日の昼まで来ないけど。仕方ないから一人ぼっちでいるさ。いや、一人ぼっちじゃなかったな。僕には左手婦人がいるんだ。左手婦人は冷たい誰かさんと違って僕を拒絶したりしないんだ。『まあ詠人さん、今夜も会いに来てくれたのね。あたしうれしいわ』……寂しくないぞ、ちくしょう」

 裏声を使って自分の左手としゃべりながら、詠人はふらふらと廊下へ向かった。哀愁漂うその背中をじっと見ていた青めがねが、やがて、おずおずと近づいてきた。

「エイト君。…………ねえ、エイト君。待ってくれよ」

 遠慮がちに肩をつついてきても、詠人は無視した。

「君、本当に、竹内君とは何もないのかい?」
「『あらなあに、あなた。ああ、あんたが詠人さんの恋人なのね。かわいそうに詠人さん、来ないあんたを毎日毎日待ってたのよ。どうせよそで楽しんでるわよ、そんな浮気者ほっときなさいって、あたしあれだけ言ったのに、詠人さんたら、僕のハニーは浮気なんてしないんだなんて言って一途に待っていらしったけど、結局ふられちゃったのね。かわいそうな詠人さん。今夜もあたしがタップリ慰めてあげるわ』」
「…………エイト君。ねえ、ほんの冗談じゃないか。怒らないでくれよ。幾田君とは、何もないよ」
「そんなことは、わかってるよ」

 詠人はため息をついた。背中越しに抱きついてきた青めがねの男の手に、そっと自分の手を重ねながら。

「わかってるさ。君が人の気を引こうとして一生懸命悪さするのは、昔っから知ってるし、君の考えなんて手に取るようにわかるよ」

 青めがねの指を思わせぶりになぞりながら、詠人は言った。

「最近僕が竹内君とばかり仲良くするもんだから、不安だったんだろ? だからわざわざ僕の家に仕事道具を置いて、出入りする口実作って、当てつけに幾田君を連れ込んだんだ。わざわざ僕のいる時に、目の前でいちゃついてみせて、やきもち焼かそうとして……君ってやつは、本当に、かわいいやつだなあ」

 詠人は振り返った。青めがねの手は、しっかりと捕まえたまま。

「でもねえ、ちょっとやりすぎだ。人前で開けてもいいのは第一ボタンまでだと、あれほど言ったのに、鎖骨まで出しやがって。おかげさまで僕はもう我慢の限界だ。よかったねえ、君の作戦は大成功だよ。うん、いや、怒ってるわけじゃないんだ。怒っちゃいない。だから、そんなにおびえなくていい。首を振るな。謝ったってもうだめだ。さあ、諦めて服を脱げ……ああ、いいや。僕が脱がせてあげようね。かわいいハニー」

 詠人は片手で器用にシャツのボタンを外していった。鼻唄まじりだった。青めがねはきまり悪げに顔を背けて、ぎょっとした。ソファでは彼の友人が相変わらず寝息を立てている。閉じた瞼は恋人たちの方を向いていた。ふとした拍子に目を開いたら大事件である。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、エイト君」
「なんだい。まさか、いやなんて言わないだろうね」

 青めがねの男は頬を赤くして、目を伏せた。

「い…………言わないけど。でも、ここじゃ、その……よくないと思うんだ」
「何言ってるんだ、タケ。ここよりいい場所なんてそうないぞ。防音対策は完璧に施したし、あんなところやこんなところに仕込んだマジックミラーでマンネリとは無縁、好奇心旺盛なご近所さんの目をシャットアウトするための目隠し塀だってばっちりだ。近くに高層建築はないから窓からのぞかれる心配だってない。まあお望みならカーテンを全開にして差し上げてもいいいけど……」
「そうじゃなくてだね。ほら見てごらん。あそこにいらっしゃるのはお客様だよ。お客様をあんなところに放ってはおけないよ。そうだろう? ちょっと、幾田君を、布団に寝かせてくるから……」
「彼は、そのままでいいよ。よく眠ってるんだし、そっとしておいてやりたまえ」
「じゃ……じゃあ、二階までご案内するよ、ベイビー。やっぱりほら、こういうことは寝室の方が何かと好都合だし……」
「ううん。僕も、ここでいいよ」

 詠人は男の腹に指を這わせた。彼は狼じみた鋭いまなざしで、うろたえる男を射すくめた。

「さんざん僕を煽ったお仕置きだ。…………せいぜい彼が目を覚まさないことを祈るのだね」


【END】



一段落したので一旦ここで区切りますが、学生編はもうちょっと続きます。