◆某月某日、スイートルームにて

 大都市を眺望できる最上階のスイートルーム。窓ガラスには曇り一つなく、青天に太陽のきらめく好天気。採光面は完璧だ。最善の場所にレイアウトされた肘かけ椅子を、幾田は窓辺に移動させた。

 慣れた手つきでレフ板を組み立てる幾田に、青めがねの男が問いかけた。

「本当に、こんなオジさんでよかったのかい?」
「え? いくつだっけ」
「もう三十路も折り返しだよ」
「うそ。全然見えない」

 レフ板の角度を調整しながら、幾田は続けた。

「二十代くらいだと思ってた」
「またまた」

 片手間のお世辞でも、男の気分を上げるには十分だった。もとより彼の機嫌は、ジャックポットのフィーバー状態なのだ。

 今度の撮影場所を提供したスポンサーであり、彼の旧友でもある虹谷氏と挨拶を交わして以来、男は舞い上がっていた。伊達なスーツに身を包んだ被写体の身なりは、マジックショーのステージに立つ時以上に洗練されていた。爪の先から靴まで輝かんばかりに磨き抜かれ、ヘアメイクも入念だった。

 かの虹谷氏も、豪奢な部屋にふさわしい出で立ちでソファにくつろいでいた。青めがねと同級生なので彼も三十代半ばのはずだが、容貌は若々しい。肌のハリツヤは、人の生き血でも吸っているのかと思うほどだ。何なら一生懸命にめかしこんできた被写体よりも色っぽい。青めがねより彼の方を撮りたいくらいだ。
 すでに断られてしまったが、幾田も一度や二度断られたくらいで引き下がる男ではない。三度NOと言われた後は、どうにか隙を見てシャッターを切ろうと画策している。しかし向こうもなかなか察しが良い。のらりくらりと逃げ回る虹谷氏に、気がついたら常に背後を取られていて、なんだか落ち着かない幾田である。

 幾田と目が合うと、虹谷はまたいそいそと移動した。音もなく死角から死角へ移る様子はまるで忍者だ。

 幾田は彼を諦めて、本来の目的に向き直った。

 ーーもとより、こちらがメインなのだ。
 機材の準備が整った。幾田はファインダーをのぞいた。被写体は満面の笑みを浮かべていた。

「男前に撮ってくれよ」
「任しとき」

 数回シャッターを切ったあと、幾田は難しい顔でカメラを下ろした。
 確かに被写体はご機嫌である。無邪気な笑顔には弾けるような愛嬌がある。だが色気はない。

 幾田の求めているのは、かのLGBT教授をうならせる、魅力的な男の一枚だ。単位を得るために作らなければならない絵画の資料だ。しかし幾田がどれだけ指示を出しても、被写体の笑顔はよそ行きだ。仲良しの友達に向けるそれだ。

 幾田はため息をつき、一同に休憩を打診した。


 絵具の乾燥時間を考慮すると、締め切りまでさほど猶予があるわけではない。今日のうちに撮って、現像して、トレースして…………。幾田がスケジュールを考えながら、カメラの調整をしていた時だった。

「珍しいものを持っているね」

 幾田は振り向いた。虹谷氏だった。

 ハイブランドスーツをさらりと着こなす美男の視線は、幾田の手にした一眼レフに注がれている。

 なるほど確かに珍しい一品である。デジタルカメラが主流の昨今、アナログ式のクラシックカメラなんぞを持ち歩くのはよほどの頑固者か、カメラ愛好家くらいだ。そしてすでに製造の停止したその名器を珍品と知る者もなかなかの通である。

「オレ、アナログの方が好きなんですよね」
「ちょっと、見せてもらうことってできる?」
「もちろん」

 カメラ好きと知って、断るはずもない。幾田は快くカメラを渡した。
 虹谷はまるで宝石の値踏みをするかのように、カメラを眺めた。年季の入った風合いをじっくりと堪能した後、彼は丁重に礼を言って、幾田にカメラを返した。

「カメラ好きなんですか?」
「カメラ、というよりも、魅力を感じるのはヴィンテージの方かな」

 そう言うと虹谷氏は、テーブルの方へ目を向けた。



◆定者定位置

 丸テーブルの脇のソファには、古書が塔のごとくに積みあがっていた。ベッドの下にあった虹谷氏のトランクの中から、青めがねの連れが引っ張り出したものだ。

 車いすの男は手袋をはめた手で、黙々とページをめくった。

 被写体は窓辺から、彼の隣のソファへといつの間にやら移動していた。ページをぱらぱらとめくる弟の手元を、青めがねの男はさっきからずっと見つめている。だが、穴の開くほど視線を注いでも、反応はない。青めがねはとうとう口を開いた。

「常々思っていたんだけどね。君の悪い癖だと思うよ。怪奇だの幻想だのにとらわれて、現実をおろそかにするのは」
「んー」

 返事は上の空だった。べっこう縁のめがねの奥のまなざしは、せわしく紙面を追い続ける。まさにわき目も振らずといった調子だ。

「そんなに、面白いものかね……」

 青めがねの男は手を伸ばした。彼の指先が触れようとすると、詠人ははっとして本を遠ざけた。

「よせよせ。稀覯本なんだ。…………虹谷がさばく前に目を通しておかなくちゃ。今を逃すと、ひょっとしたら二度とお目にかかれないかもしれない」
「だけど、この量、全部読むつもりかい?」

 効率を重視してか、詠人が本の背表紙をみな自分の方に向けてしまったので、見えるのは日焼けしてボロボロになった小口ばかりだ。しかし、ざっと見にも、五十冊は下らない。

「タケ。人間、やってやれないことはないんだ」

 彼はまた、紙面に目を走らせた。

 すっかり本に夢中だ。構ってくれそうな気配はまったくない。青めがねは唇を尖らせて、テーブルの上に視線を移した。

 白いクロスを敷いた丸テーブルの上には、アフタヌーンティーの用意が整っていた。三段構えのケーキスタンドに、サンドイッチやスコーンや、色とりどりのペストリーが所狭しと並んでいる。食べてしまうのが惜しいほどの芸術品の数々。これも、虹谷氏の手筈だ。

 青めがねはちらっと虹谷氏の方を見た。何やら幾田と盛り上がっているようで、非常に楽しげである。虹谷氏と目の合ったのを機に、青めがねは立ち上がった。

 テーブルに背を向けて間もなく、かすかに金属の擦れる音がした。振り返ると、最上段のミニケーキに、フォークが深々と突き刺さっていた。串刺しになったショートケーキは小皿に横たえ、まだ温もりを残す空席の前にそっと置かれた。

 きょとんとした顔で立ちつくしていると、詠人が小首をかしげた。

「他のがよかった?」

 青めがねは、詠人をまじまじと見つめた。つい先ほどまで彼の関心をほしいままにしていた古書は閉じられ、彼の膝の上に載っている。

「……読書はいいのかい?」
「よくないよ?」

 しかしにこにこと笑う彼は、青めがねの男の顔から視線を外そうとしない。不思議がりながらも、男がショートケーキの刺殺体を片づけ始めると、詠人は再び本を開いた。



◆でれでれツンデレ

 虹谷との話に一区切りつけた幾田は、撮影を再開するべく被写体に目を向けた。

 青めがねの機嫌は相変わらず上々だった。菓子に舌鼓を打ってか、今にもとろけそうな風情である。ほんのりと頬を染めて微笑むその表情は、先ほどまでに比べると、がぜん魅力的だ。窓辺の椅子に戻るようたしなめる詠人に首を振って、幾田はレフ板を動かした。

 着々と撮影の準備が進む一方で、詠人はいそいそと、本を膝の上に寄せ集めた。

「エイト君もお引越しするのかい?」
「ああ。君の横にいたら僕も一緒に写ってしまうからね」
「ふーん……」

 青めがねは新しいケーキに手を伸ばした。ケーキスタンドの最上段は順調に寂しくなってきている。

「あんまり食べ過ぎるなよ」
「大丈夫さ。太りゃしないよ」
「そうじゃない。見栄えが悪くなる」

 詠人はトングで残ったケーキをさっと前面に寄せ集めた。そしてテーブルの上を満足のいく形に整えてから、悠々、古書の山と逃避行した。

 テーブルに取り残された男に、幾田はレンズを向けた。ケーキをつついていた男の顔に、遅ればせながら笑顔がくっついた。休憩の始まる前に、うんざりするほど目にした表情だ。

「だからさあ。オレは宣材写真撮りにきてるわけじゃないんだよ。もっとこう、色っぽいのが欲しいんだよ」
「どこからどう見てもセクシーじゃないか」

 カメラが逸れると、被写体はケーキを口に押し込んだ。

「……だいたいね、君がどうしても私のことを描きたい、描かせてほしいっていうから、こうして準備をしたんだよ。カメラマンだって虹谷君の方で用意してくれるというのに、君がどうしても自分で撮るって意地を張るもんだから……」

 ハムスターのように頬を膨らまして、ぶつくさとぼやく姿に大人の色気は微塵もない。だが時々は確かに、彼のことがセクシーに見える時があるのだ。つい先ほどだって、ほんのちょっと色っぽいのがにじみ出ていた。とろけたバターのようなあの顔を撮る手立ては何かないものかと、幾田がない知恵をしぼって考えていると、ギャラリーがぼそっと呟いた。

「撮影感出すと、緊張しちゃうんじゃないかい? パフォーマーの性でさ」
「なるほど……」

 詠人の言うのにも一理あるような気がしてくる。
 幾田はちょっと思案したあと、おもむろに被写体を立たせた。

「また移動かい?」
「いや。ちょっと作戦を変えようと思ってさ」

 そう返しながら、幾田は彼にレンズを向けた。

「オレちょっと、パパラッチになるわ」
「パパラッチ?」
「そう。いっぺんプライベートな感じで撮ってみようかと思ってさ。……ま、ホッシーは普通にしててよ。こっちでうまいことやるから」
「普通に、と言われてもね」

 戸惑いながらも被写体が歩いてみると、レンズが彼についてきた。カメラを気にしながら、しばらく落ち着きなく部屋中をさまよったが、やがて何かに気づいた様子で、詠人の周りをぐるぐる回り始めた。

「どうしたんだい」
「この辺りから実家のにおいがする」
「父さんの書庫のにおいじゃないかい?」
「ああ、なるほど」

 青めがねは、本を読む弟の姿をじっと見つめた。

「…………昔はおとなしかったのになあ」
「詠人におとなしい時期なんてあったの?」
「あったのだよ、虹谷君。猟奇だの犯罪だのに毒されるまでは、かわいいインドア少年だったんだ。なんなら高校時代だって、まだかわいい方さ。ところが大学に上がってからは、そりゃあ、もう…………」
「そりゃあ、もう?」
「そりゃあもう、甘えん坊将軍さ。人前じゃすました顔してるくせに、おうちに帰ってくるとゴロゴロにゃーにゃー。虹谷君と会えなくなってしまった反動かもしれないが、この兄にひどく甘えてきて大変だったんだよ」
「甘えてないし」

 詠人が口をはさんだ。

「第一君の学力じゃ、虹谷君と同じところに進学なんて逆立ちしても無理だったと思うよ」
「その学力の私と同じ学校に通ってたくせによく言うよ」
「別に好き好んで君と一緒になったわけじゃない。僕の選んだ学校で、たまたま君が推薦を決めてただけだ」
「そうそう。エイト君はきっとパパの後を継ぐか、法律家になるだろうって、ママの期待を裏切ってねえ。私と同じ学校をねえ」
「うるさいぼかぁ芝居がやりたかったんだ芝居が」
「ふふふふふ。もう、正直に言いたまえよ。私と離れるのが寂しかったって」

 青めがねの男はにこにこしながら、弟の赤くなった頬をつついた。

「お兄ちゃんと一緒の方が生活費が浮くからとかなんとか言って、ママを必死に説得してたじゃないか」
「……タケ。あんまり調子に乗ると、後がひどいぞ」
「そう言われてもね。私は単に事実を言っているだけだからねえ」

 詠人の唇はずっとへの字に曲がっていた。しかし頬をつつき回しても肩をつつき回しても一向に咎められないので、青めがねはいつまでもちょっかいを出し続けた。

「ね。素直に認めたらどうだい、エイト君。君はお兄ちゃんっ子だよ。筋金入りの甘えん坊さんだよ」
「記憶違いじゃないかなあ。僕、君に甘えた覚えなんて、全然ないけど」
「そうかい? 私の方は、たくさん覚えがあるけどね。お兄ちゃんが一緒じゃなきゃ眠れないだとか、お兄ちゃんがそばにいてくれなくちゃ風邪治らないだとか……」
「百歩譲って!」

 言葉をさえぎって、詠人が言った。

「百歩譲って、僕が君に甘えたことがある、というのは認めよう。でもそれは一般的な範疇であって、家族としての相互扶助の延長に他ならない。つまり僕は普通だ。まともだ。正常だ。甘えん坊なんかじゃ断じてない」
「ふーん。じゃ、客観的な第三者たちに、判断してもらおうじゃないか。……おそらく、異論はないと思うがね」

 青めがねの男は、幾田たちの方に顔を向けた。

 それからしばらく、彼は静かだった。語る内容を選んでいるかのようにも見えたが、甘い記憶に浸るかのようなその顔つきで、幾田は直感した。ーーさてはこやつ、また、のろけ大会を始めるつもりだな。そうは思ったものの、匂やかなつぼみのほころぶ気配もしたので、野暮は言わないことにした。


【NEXT】