◆楽しい夜遊び

 大学時代、私はエイト君と同じマンションの一室に暮らしていた。

 当時エイト君は、ずいぶん忙しい生活を送っていた。
 朝、私と同じくらいの時間にのそのそ起きだして学校へ行き、夜遅く、日付の変わったころになってひっそりと帰ってくる。休日もたいていどこかへ出かけて、やっぱりまた、遅くまで戻ってこないといった具合だ。

 そんなに遅くまで毎日何をしているのかと尋ねても、エイト君は教えてくれなかった。時々お酒の匂いを漂わせ、前後不覚のような状態で戻ってくることもあった。気がかりではあったが、もうお互いいい年だし、あまり干渉するのもよくないかと思って、私も無理に追及はしなかった。

 一人で家にいてもつまらないので、私もだんだんと、夜遊びをするようになった。
 ちょうどそんな時に見つけたのが、マジックバーでの仕事だった。

 私の奇術の腕前はずいぶん上達して、大会でそれなりに良い成績を残すこともあった。腕には自信があったので、ぜひとも人前で披露したかったし、バーなら大学の授業が終わってからでも都合がつく。それにバイト代も、他の学生のやるような仕事に比べると多少よかった。私は早速そこで働き始めた。

 バイト先では良い人とたくさん出会ったけれど、中には悪い人もいた。その最たる者が山田という男だ。

 山田はちょっと見には、遊び慣れた男といった感じだった。会社員風というわけではないが、たいていスーツ姿だった。何をしていた人なのか、詳しいことはよくわからない。でもちょくちょく店に顔を出していて、カウンター越しによくお喋りする間柄でもあったので、私は別段、警戒はしていなかった。むしろ好感を持っていたくらいだ。

 山田は口達者な男だったが、偉ぶったところはなく、こちらの仕事を邪魔をするような野暮もしない。しかも店に来る時はいつも、きれいな人を連れていた。彼のお連れさまは、実にいい目の保養になった。あんまり美人だったのでうらやましくなって、お連れさまが席を外した隙に、冷やかし半分で、どこであんな美人を捕まえたのかと尋ねてみた。そうすると、じゃあ近々、狩場に連れてってやるよ、と……。

 そういう次第で私は、キャバレーとやらへ、はじめて行くことになったのだ。

 美しい女性がちやほやしてくれると聞いていたので、私は大いに張り切っていた。髪を整えに行き、靴もピカピカに磨き上げた。鞄や下着などは、その日のためにわざわざ新調した。そしていつも着ている、貰い物だがお気に入りのジャケットを羽織った。

 バイト上がりに落ち合った後、山田の案内で、歓楽街をしばらく歩いた。

 すっかり日は暮れて、ネオンが夜の闇を彩っていた。
 黄色いネオン管に縁取りされてぴかぴか光る「APIS」の文字のぶら下がっているそのビルが、どうやら目的地のようだった。

 エレベーターの扉が開いた。品のいい黒服姿の、支配人らしき男が我々を出迎え、なめらかに店内へと導いた。
 穏やかな光の降り注ぐラウンジが眼前に広がった。席はちらほら埋まっていた。しっとりした音楽の中で、鈴の鳴るような笑い声がそこかしこで響いていた。

 我々は端の方のテーブルに通された。山田がフロント係と話している間も、私は物珍しくて、店内を見回していた。
 そうしていると、ふと、誰か気になる子はいるかと山田が尋ねた。ほかのテーブルでお喋りしていた、色白の、長い黒髪の女の子がいいと言うと、しばらくして、その子がテーブルにやってきた。
 店で一番美しい子だった。お名前はレイちゃんと言うらしい。美貌はさることながら、明るくておだて上手だった。私とは同い年か、ちょっと年上くらいに見えた。
 仲良くなりたかったが、女性にいたずらをすると平手が飛んでくるということは経験上よくわかっている。ポケットに仕込んでおいたスポンジボールで、ちょっとした手品を演じてみせると、大いに驚いてくれた。私は気分をよくして、彼女の言うままにボトルを入れた。なんといっても支払いは山田が持ってくれるというので、景気よくやった。

 うん。左うちわで、実に楽しいひと時だった。話は弾むし、飲み物も進んだ。彼女の美貌に酔っていたのか、酒のにおいに酔っていたのかわからないが、気分はふわふわとして、非常に良い心持ちだった。



◆夢から醒めて

 肩を揺り起こされて、私は目を覚ました。

「ねえ、ちょっと、お客さん。もう店じまいなんですけど」

 そう言う男の声には、妙に聞き覚えがあった。寝ぼけ眼をこすりながら起き上がると、非常になじみ深いめがね顔が見えてきた。

「おはよう。いい夢見れた?」

 ――エイト君だった。時計を見るともうずいぶん遅い時間になっていたので、迎えに来たのかと一瞬思った。だが彼には店に来ることなど伝えていない。第一彼の服装は明らかに私服ではなかった。黒いベストに蝶ネクタイを締めた装いは、その店のボーイさんの制服だった。
 私の言わんとするところを先回りして、彼は答えた。

「ようこそ僕の職場へ」

 ――通りで、帰りが遅いわけだと思ったよ。夜のお店で遅くまで働いているのだから。

 と、ふと気づくと、テーブルには私一人だった。どころか、店に残っている客は私だけだった。いつの間にか山田の姿もなかった。

「あの、連れがいたと思うんだけど、知らないかい?」
「山田さんだったら、急用があるって、ずいぶん前にお店出てったよ」

 答えたのはレイちゃんだった。
 私の記憶は薄ぼんやりとして定かではなかったが、酔いつぶれて眠ってしまったのだと彼女に説明され、私は納得した。

「そうかい。じゃあ、名残惜しいけど、私もそろそろ帰るよ」
「帰っちゃうの?」

 ちょっと唇を尖らせて、上目遣いに尋ねるところは、実に男心をくすぐった。

「また来るよ。近いうちに、必ず」
「うん。待ってる」

 私は席を立ち、美しい彼女にひらひら手を振った。後ろ髪をひかれながらもラウンジを出ようとすると、エイト君が腕をつかんだ。

「おい。待て待て」
「なんだい」
「お金。払ってもらわなくちゃ困るよ」
「山田さんが払ったんじゃないのかい?」
「いいや。まだだよ。……そうだよね?」

 レイちゃんはうなずいた。彼女が言うのなら本当なのだろう。私は伝票を受け取った。

 数字にざっと目を通したあと、私は目を皿のようにして再び金額を確かめた。だがひっくり返しても、裏にしてみても、金額は変わらない。

「何かの間違いじゃないかい?」
「残念ながらこれで合っているんだ。僕だって何度も確かめた」
「でも、三十万って……言っちゃなんだけど、法外だよ。こんなに飲み食いした覚えないけど……」
「ボトル入れたろ? それにチェックはかかってなかったから延長料が発生してる。第一、料金システムについては、ちゃんと事前に説明があったはずだ」
「だけどそれは、連れが払ってくれるって約束だったんだよ」
「そのお連れさん、しばらく前に店を出てってそれきりだよ。もう閉店の時間はとっくに過ぎてるのに。もう戻って来ないんじゃない?」
「たまたま……支払いを忘れてしまったんだよ」
「だけど未払いは未払いだ。授業料と思って潔く払いたまえ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。連絡してみるから……」

 そう言って携帯電話を取り出してみたが、よくよく考えてみると、私は山田の連絡先を知らなかった。会うのはいつもバイト先だったし、その日だって落ち合ったのは、店でのことだ。

 はじめから私に支払いを押しつけるつもりだったのか、それとも眠りこける私の始末に困ったのか、今となってはわからない。だが、山田が飛んでしまった今、その高額の支払いを引き受けなければならないのは、私なのだ。

 仕方なく私は札入れを開いた。中身を確かめて、そしてまた閉じた。

「あの、エイト君」
「なに?」
「ちょっと、頼みがあるんだけど」
「お金なら貸さないよ」
「いや、あの、でも…………その。ちょっと、持ち合わせがだね」
「んー……じゃ、コンビニ行ってきていいよ。待っててあげるから」
「……口座持ってないんだよ」
「はあ?」

 学費だの家賃だのを含めた家計の管理や支払いは全部エイト君がやってくれていた。それにバイト先の給料は手渡しだったので、私は別段その必要がなかったのだ。

「作ってなくて……。家に帰ったら、ちょっとはあると思うんだけど」
「僕も給料日前なんだけどなあ。…………本当にないの?」

 私は雀の涙ほどの有り金をテーブルに置いた。札入れも彼に差し出した。その中身が空っぽであることを確かめると、エイト君も顔を曇らせた。

「どうしよう……」

 困り果てていると、彼は頭をがしがしかいて「ちょっと待って」と店の裏手へ引っ込んだ。数分ほどして、封筒片手に戻ってきた。
 彼は伝票を確かめると、封筒に手を突っ込んで、私の出したお金の上に、紙幣を一枚、また一枚と載せていった。その数は十をゆうに超え、やがて二十を超えた。

「どうしてそんなにお金持ってるんだい?」
「前借りしてきた。……すみません。とりあえずこれで」

 彼は伝票とお金を別のボーイさんに渡した。領収書を見せながら、エイト君は言った。

「貸しだぞ」

 ぴしっと額を弾かれたが、痛みよりも安堵の方が大きかった。「やっぱり持つべきものは兄弟だね」とおだてると、彼は肩をすくめて、私を店外へ導いた。

 待っているようにと言われたので、私はビルの前で時間を潰した。誰か出てきたので顔を向けると、レイちゃんだった。ちょうど彼女も帰るところらしい。エイト君との一連のやり取りを見られていたので、ちょっぴり恥ずかしかったが、彼女はやはり優しかった。

「キミ、詠人の弟? ……お兄ちゃん。そうなの。似てると思ったんだ」
「うん、まあ、三つ子だからね」
「知ってる知ってる」

 レイちゃんはけらけら笑った。先ほどまでの大人びた雰囲気は既になかった。オフの彼女は年相応の女の子らしく見え、ますます魅力的だった。

「たまーにいるんだよねー。連れに会計押しつけて帰る奴。最悪だよね。かわいそうにねえ。よしよし」

 そういって彼女は私の頭をなでた。無一文になって、赤っ恥をかいた男の頭をだ。顔ばかりでなく心までも美しいこの女神に惚れない男が果たしてこの世にいるだろうか?

 私はしらうおのような彼女の指をそっと両手で包み込んだ。「ありがとう。よかったら今度一緒に食事でも……」と、言いかけたところで、私は女神から引きはがされた。

「帰るぞ」

 エイト君は私の耳をつまんだまま、私をタクシーへ引きずっていった。私を座席へ押し込むと、エイト君は車を出すよう淡々と運転手に告げた。リアウィンドー越しに見えていたレイちゃんの姿はみるみるうちに小さくなってゆき、やがて完全に見えなくなった。



◆車中にて

 レイちゃんを思ってため息をつくと、エイト君が皮肉っぽい調子で言った。

「ため息つきたいのは僕の方なんですけど」
「借りた分はちゃんと返すよ」
「…………お金のことじゃない」
「じゃあ、どうしてふてているんだい」
「べつに」

 エイト君は窓の外に目を向けた。
 もう電車もおやすみしているらしい。電灯の消えた駅がタクシーの車窓を過ぎていった。

「それよりエイト君。なんであそこでバイトしてるって、教えてくれなかったんだい」
「君のほうこそ、僕に何も言わずにいたじゃないか。お互いさまだろ」
「……でも、ずるいよ」
「なにがだよ」
「あんな美人に囲まれた職場なんて」
「恋愛禁止だよ」
「そうなのかい?」
「ああ。恋仲になったりしたら罰金だ」
「……いくら?」
「ええと。確か、百万だったかな」

 彼はあくびを一つして、私の肩によりかかってきた。

「ま、お金もらったって、僕はいやだけどね」
「……贅沢な」
「贅沢なもんか。あんなの、母さんや姉さんと一緒だよ。怪獣さ」
「だけど、今日私についてくれた子は、すごく優しくしてくれたよ」
「あいつ彼氏いるよ」
「え」

 私はぎょっとして身を起こした。彼は具合の良い枕がなくなって不服そうだったが、私はそれどころではなかった。

「レイちゃんだよ!?」
「そうだよ。……みんなそうさ。彼氏いない方が珍しいくらいだよ。毛先から爪先まで女の子女の子してるし、男の扱いもよくわかってる。別れてもすぐ新しい男が寄ってくる。でも仕事に差し支えるから黙ってるんだ。彼女たちは男に夢を与えるのが仕事だからね。
 ある種アイドルみたいなものだけど、アイドルよりずっと身近だ。手が届きそうに見える。貢ぐ男は絶えない。中には店に通い詰めるために借金する人だっている。……君は特に、気をつけた方がいい……」

 それきり、車内は静かになった。マンションに着くと、エイト君は慣れた様子で運転手にタクシー券を渡した。



【NEXT】


山田(仮名)。