◆真夜中のミーティング

 自販機で缶コーヒーを買ってから、エイト君はエレベーターに乗り込んだ。ダイニングテーブルについてそれを飲むまで、彼は一言も口をきかなかった。椅子に座るよう私に指図する時でさえ、軽く顎をしゃくるだけだった。だが私の好きなはちみつ飲料を、自分のコーヒーと一緒に買ってくれるあたり、それほどご機嫌ななめというわけでもないようだった。

「君の今日の連れ……山田って言ったっけ。大学の人?」
「ううん。バイト先でたまたま会って、仲良くなったんだ」
「バイト先っていうと、例のマジックバー?」
「そうだよ」
「何してる人?」
「知らない」

 エイト君はコーヒー缶をテーブルに置くと、肺の中身を全部吐き出すかのような、長い長いため息をついた。

「なんで、そういう得体のしれない奴にノコノコついてっちゃうんだよ。ばかだな」
「ごめん……」
「連絡先は?」
「それも、わからない」
「つくづくばかだな!」
「で、でも、今度店に来た時にちゃんと返してもらうから……」
「君の脳みそはお花畑か? ナイトクラブの支払い学生に押しつけて帰るようなクズ野郎だぞ。間違いなく常習犯だよ。断言したっていい。僕のバイト先にも君のバイト先にも奴は二度と顔を出さない。今度君に接触してくることがあるとしたら、それは我々が再びカモにされる時だけだ」

 返す言葉もなかった。しおれて縮こまっていると、また、息を吐く音が一つした。

「まあ、そっちは僕がなんとかするさ……」

 そう言ったきり、彼は腕組みをして、黙り込んだ。難しい顔で、何か真剣に考えているようだった。

 きっと、お金のことを考えているのだろうと思った。

 家賃や光熱費などのやりくりはエイト君がしてくれていた。おそるおそるお金のことを訊いてみても「心配いらない」と言うばかりだ。だが、彼の顔色からしても、私の記憶からしても、彼のバイト代は生活のかなりの足しになっているようだった。思い起こせば、月々支給される食費やお小遣いの増額があったのも、彼の帰りが遅くなりだしてからのことだ。

 私のバイト代はいいよと常々言ってくれていたけれど、さすがに忍びなかった。

 私は自分の部屋へ行き、貯金箱を手に取った。

 思っていたより、随分と中身は少なかった。

 そういえば貯めていたのは、先日、服やら何やらを買うのに使ってしまったのだった。ひっくり返して数えてみても大した額にはならなかったが、とりあえずありったけをかき集めて、エイト君のところに持って行った。

「……なに?」

 机の上に広げた小銭を一瞥し、エイト君は眉をひそめた。

「今持ってるお金、それで全部なんだ。少ないけど……」

 私は小銭を積み上げて、彼の方にそっと寄せた。全部積んでも食卓塩より低かった。
 エイト君はお金を引っ込めるようにと、静かに呟いた。でも、と反論しようとするのをさえぎって、彼は続けた。

「君、口座持ってないんだよね。で、財布の中身も空っぽだろ? これを僕に渡しちゃったら君、一文なしになっちゃうだろ。何かあった時のために持っておきなよ」
「大丈夫だよ。明日、私も店長に言って、お給料前借りできないか、かけあってみる。君に立て替えてもらった分も、それで返すよ」
「もしだめだったら?」
「だめだったら…………」

 私は返答に窮した。
 うつむいた視界に、小銭の積み上がったのが、つつつ、と近づいてくるのが見えた。

「持っておきなよ。どうせ、これっぽっちじゃ足しにもならないし」
「でも……もとはといえば、私のまいた種だ」

 私は小銭の小塔をエイト君の方へ押しやった。だが、また、私の方へ戻ってくる。しかし私も折れなかった。またそれをエイト君の方に押しつけた。小銭が行ったり来たり…………だがそれは、不毛なやり取りだった。

 永遠に続くかのように思えたそれを止めたのはエイト君の方だった。

「よし、わかった。じゃ、こうしよう。これは僕が一旦、預かっておく。その代わり、当面の生活費は僕が出す」
「だけどそれじゃ、結局またエイト君の負担になってしまうじゃないか」
「今更だ。君に迷惑かけられるのなんて」

 そう言って、ちょっと考えてから、彼はぼそりと呟いた。

「…………どうしてもって言うなら、体で払ってくれてもいいけど」



◆ボーダーライン

「何をすればいいんだい?」

 そう答えると、彼は驚いたような顔をした。

「え? いいの?」
「うん。…………力仕事は、そんなに上手じゃないけど」
「そんなの君に期待してないよ。でも、そう言うんだったら」

 彼は立ち上がった。手招きされたので、私はエイト君についていった。
 彼の向かった先は、自分の部屋だった。

「そこ乗って」

 指さした先にはベッドがあった。布団も枕もきれいに整えられていた。ためらっていると、エイト君は再び私を促した。

 私は言われた通り、ベッドの上に座った。そうすると彼もベッドに上がってきた。エイト君は私の頬やら腕やらを、ぺたぺた触った。やけにまじめな顔をして、ボディチェックでもするかのように。

 頭から足まで一通り確かめ終えると、エイト君は、私のジャケットを脱がした。彼はちらっとタグのあたりに目を落としたあと、それを丁寧にたたんで脇へ置いた。

「飲み屋で借金して首の回らなくなったお客さんが、どんな末路をたどるか知ってるかい」
「知らない」

 ちょっと考えてから、私はそう答えた。彼はジャケットに続き、シャツのボタンをはずし始めた。

「闇金でね、お金を借りさせるんだよ。それで、飲み代を清算するんだ。だけど後には法外な利息ののった借金が残る。利子を払うので精一杯で、元金はちっとも減らない。アッという間に借金は膨れ上がって、にっちもさっちもいかなくなる。そしたら、いよいよ体を売るしかなくなるんだ。今の君と、同じようにね。……ほら、腕上げて」

 シャツも取り上げられてしまった。
 彼はむき出しになった二の腕やら背中やらを、先ほどと同じようにぺたぺた触った。思えばそれは、まるで商品の具合を確かめるかのようだった。
 おそるおそる、私は尋ねた。

「ねえ、エイト君。体を売るって……その…………まさか…………」
「ん? ……ああ。僕はやくざじゃないからね。貸したお金に利子なんてつけないし、見ず知らずの男と寝て稼いでこいなんて君には言わないよ」

 私は少しほっとした。だが、だとすると、彼の行動が不可解だった。

 体の起伏を確かめるかのような手つきは、今や撫でまわすような手つきに変わっていた。胸やら腰やらを触る手つきは怪しげで、なんだかちょっと、いやな感じがした。

「だったら、何をさせようっていうんだい」
「うん…………それを今、考えているところだ」

 彼は今度は、私の手をおもちゃにし始めた。自分の手の上に、私の手をのせて遊んでいたかと思うと、するりと指を絡ませてきた。そうしながら、彼はちらっと私を見た。
 何の儀式やら、さっぱりわからなかった。首をかしげると、彼はまた体の方に品定めするような視線を向けた。

「それにしても君は、運がよかったね」

 私の手をにぎにぎしながら、エイト君は言った。

「今回は、本当に、運がよかった。たまたま僕の勤めてる店で、君が、眠ってしまった。そして偶然、僕の出勤日だった。だから、何事もなく済んだ。でも、そうじゃなかったら、もしかしたら………………」

 エイト君の体が、ゆっくりと私にのしかかってきた。

「え…………エイト君?」
「もしかしたら、ホテルにでも連れ込まれて……」

 私の体はのけぞって、どんどん後ろに倒れていった。ついにバランスを崩し、あおむけになった私の上に、彼は覆いかぶさった。

「こうやって、押し倒されて…………」
「ちょ、ちょっと……エイト君? どうしたんだい、急に」

 まだまだ顔は近づいてくる。このままいくと、衝突しそうだった。実際、彼は衝突させるつもりなのかもしれなかった。妙に真剣なまなざしで、じっと私を見つめていた。まるで、キスでもしそうな雰囲気だった。

「ま……待って。いやだよ」

 温かい風が、唇とともに迫ってくる。私は彼の胸を押し返して、再び拒んだ。

「だめだよ。……エイト君」
「……………………」

 ため息の音が一つして、覆いはゆっくりと離れていった。

「君がいやなら、僕は、やめてあげるよ。僕はね。だけど、君を騙して食い物にしようとするような輩は、泣いたって、わめいたって、途中でやめちゃくれないよ……」

 そう言うと、彼はベッドを下りた。

「君にしてもらうことなんだけど。やっぱり、ちょっと思いつかないから、いったん、保留にしておくよ。ひとまずは、これに懲りてじっくり反省しておきたまえ。……ああ、それと」

 エイト君は、私のジャケットを拾い上げた。

「これは、没収するからね」

 そのジャケットは、バイト先のおしゃれな先輩が、もう着なくなったからと譲ってくれたものだった。頂きものでもあるし、何より、仕事に役立つ改造が施されていた。つまりタネも仕掛けもあるジャケットで、私の秘密道具なのだった。
 彼が服を持っていこうとするのを、私は慌ててとめた。

「ちょっと待って。それは、ちょっと、勘弁してくれ」
「だめだめ。これは君にはまだ早い。こんな上等なの着てるから、悪い虫がたかってくるんだ。よって差し押さえとする」
「いや、で、でも、それは…………」
「商売道具だって言うんだろ?」
「……そうだよ」
「服のギミックに頼らなきゃやっていけないなら手品なんてやめたまえ」

 彼は私の勝負服を片手に、部屋を出ていった。なんだか嫌な予感がしたので追いかけてみると、やはり彼は、隣の私の部屋で、私のお気に入りのコートやら、おろしたてのシャツやらを、次から次へと徴収していた。
 私は無慈悲な取り立て屋にすがりついた。

「よしてくれ、エイト君。それを持っていかれたら、私は明日から何を着ればいいんだい」
「僕の服を貸してあげよう」
「でも、君の服じゃバイトが…………」
「できないんなら辞めたら?」
「だけど……」
「――――だったら、セックスする?」

 エイト君は抱えていた服を放り投げた。色とりどりの服が降り注ぐベッドに、彼は私を押し倒した。

「三十万円分、カラダで払う?」

 私をじっと見つめるその目は、ちょっぴり据わっていた。
 私に選択の余地はなかった。



◆WワークOK/初心者歓迎/年中無休/アットホームな職場です

 エイト君のクロゼットは、まるで喪服の見本市だった。

 どれもこれも華やかさとは無縁で、しかもタイトで窮屈だった。挙句の果てにはどの服からも、彼がクロゼットにぶら下げている白檀の芳香剤のにおいがした。

 非常に落ち着かなかったが、生活水準が保たれている以上、文句は言えなかった。結局バイト代の前借りはできなくて、あわや修行僧生活かと危ぶまれた私が、三食おやつつきの豊かな食生活をキープできているのは、実際エイトさまさまなのだ。

 しかし、満腹の代償は大きかった。
 あれきりずっと、私の服は見かけない。洗濯かごの中はお通夜同然だった。華のあるのは私のパンツくらいだ。無慈悲な差し押さえから免れたトランクスをベランダにつるしていると、エイト君が寄ってきた。

「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
「じゃあ、悪い方から」
「僕が立て替えたお金は三十万円だが、君の服を売って作ったお金はその三分の一にしかならなかった。つまり二十万円ばかりの借金が、君には依然として残っている」
「…………良いニュースは?」
「君は残りの負債を体で支払うことができる。――もちろん、僕はゆすりたかりの手合いじゃないから、無理強いはしない。やるかどうかは、君の自由だ」

 自由だと言いながらも、彼はベランダの入り口に腕をついて私をとおせんぼしていた。笑顔が実にうさんくさかったが、私は一応尋ねてみた。

「何をさせようって言うんだい」

 エイト君は私を部屋の中へ手招きし、抱っこしている洗濯かごをまずは置けと言った。仕方なく言う通りにすると、彼は腕を広げてのたまった。

「ぎゅーってして」
「…………ぎゅー?」
「わかんない? ハグだよ。ハグ」

 なんだかよくわからないが、私は言われた通り、彼の背中に手を回した。

「これでいいのかい?」
「そうそう。上手上手」

 エイト君は私を抱き返しながら、私の背中や腰をさすったり、ゆらゆらと揺れたりした。一分ばかりもそうしていただろうか。ちょっと長いなと思い始めたころ、彼はすっと身を離した。

「僕が帰ってきた時に、毎回、これをやってほしいんだ。毎日欠かさずだよ。…………できそう?」
「たぶん……」
「よし決まり」

 彼はにっこり微笑んで、念を押すように言った。

「毎日だよ。いいね?」

 私はうなずいた。


 それ以来、私はマジックバーでのアルバイトと掛け持ちで、玄関先でエイト君をお出迎えする仕事をすることになった。

 はじめは簡単だと思っていた。だが、大きな落とし穴が、そこには潜んでいた。

 まず彼を出迎えようと思ったら、エイト君より先に、必ず家に帰っていなければならない。外泊なんてもってのほかだし、彼の帰宅したとき不在にしていると怒られた。

 彼のお出迎えという仕事がある限り、夜遊びは事実上不可能だった。

 しかも彼は「毎日」と言っただけで、いつまでとは一言も言わなかった。三ヶ月を過ぎても終わる兆しが見えないので、一体いつまで続ければいいのかと尋ねると、彼はこうのたまった。

「実働は一分にも満たないから、時給に換算すると、一回あたり二十五円てとこかな。で、貸しが二十万円弱だから、ざっと八千日。なあに、ほんの二十二年だ。完済までがんばりたまえ」

 私が雇用契約を破棄しようとしたことは言うまでもない。

「二十二年も君のお出迎えをしなきゃならないのかい? 冗談じゃないよ」
「僕だって、冗談じゃないよ。君のしでかした不始末の後片づけをするのは、いつだって僕なんだ。僕がどんなに稼いでも、君がばかをやったら、貯蓄は一瞬で水泡に帰す。また変なところで借金作って、迷惑かけられちゃたまらないよ。頼むから、家でおとなしくしててくれ」
「迷惑かけたのは悪いと思ってるよ。反省してる。それにお金だって、ちゃんと返すって言ってるじゃないか」

 私は彼に給料袋を差し出した。だがエイト君は、現金はかたくなに受け取ろうとしないのだった。

「だめだめ。体払い以外は受けつけないよ」
「……だったら、春でも売ってきたらいいのかい」
「そんなの絶対だめだ!」

 エイト君は声を荒げた。

「いいか、だめだ。早まるんじゃない。そんなの僕は絶対に許さないからな。君はそんなに安かないんだ。お金のためにほかの男と寝るって言うなら僕が今この場で君の操を買う。十万でも二十万でも三十万でも百万でも、いくらでも言い値で買ってやる。さあ言え。いくらだ」
「わ……わかったよ。春は、売らないよ」

 あまりの剣幕におされて、私は引き下がらざるを得なかった。

 だがそうかといって、そう長々とエイト君の面倒を見てもいられない。二十二年も律儀にお留守番をしていたら、せっかくの人生の春を棒に振ってしまう。私は悩んだ末に、辞表を提出することにした。



◆おかえし

 お金と辞表をエイト君の机に置いて、私は夜の街に繰り出した。

 久方ぶりに吸う深夜の空気は、ひんやりとして心地よかった。

 でも、思えばエイト君の言うのも、もっともなのだ。
 夜道をひとり歩きながら、私はつれづれと考えた。

 ほとんど見ず知らずの人についていって、だまされて、三十万円という多額の支払いをすることになった私を、エイト君は助けてくれた。学生の三十万なんて大金だ。それをぽんと立て替えてくれて、しかも、そう恩に着せるでもない。借金のかたに服は取り上げられてしまったけれど、でも、それも当面の生活を考えるとやむを得ない選択だったのかもしれない。しかも、それでも全然足りないのに、残りはハグだけでいいよと……。考えてみれば、案外、良心的なのではないか?

 今日だってエイト君は、前借りしたお金のためにタダ働きを強いられている。私の作ってしまった借金のために。私からのお金は一円たりとも受け取らないで、汗水たらして……。

 朝帰りしてやろうと思っていたけれど、結局、ちょっとその辺をぶらぶら歩くだけでやめにした。


 散歩を終えて戻ってくると、マンションの前に、エイト君が立っていた。

「…………ただいま」

 そう口にしたのは、随分久しぶりな気がした。

「今度はどこで借金作ってきたんだい」
「ちょっと、散歩してきただけだよ。……私だってたまには、夜歩きしたくなる時があるんでね」
「仕事ほっぽり出してかい。いいご身分だね」

 エイト君は「ん」と腕を広げた。
 物言いがちょっとシャクだったので無視してやると、エイト君はたしなめるような調子で言った。

「僕が帰ってきた時は、出迎えてハグをする。そういう約束だ」
「借りは返した。約束はおしまいだ」
「キャッシュは受けつけない」
「…………無茶苦茶だよ」

 私は彼の脇をすりぬけ、エレベーターへ向かった。

「おい、待て待て。僕も乗る」

 仕方なく扉を開いたままにしておいた。
 乗り込むのかと思いきや、エイト君は自販機の前で立ち止まった。

「まだかい?」
「ちょっと待てったら」

 彼は何か飲み物を買って、ポケットに入れた。ぐんぐん昇っていくエレベーターの中で、彼はそれを私によこした。はちみつ飲料だった。

「君が急かすせいで間違えた」
「だから、後からゆっくり上がってきたらよかったのに」
「……ああ。そうか。ひょっとして君、先に帰ってスタンバイして、今日の分をやってくれるつもりだったのかい?」
「お出迎えは、もうやらないよ」

 エレベーターが開いた。

 家に上がると、彼はツンツンと私の肩をつついてきた。振り返ると、また両腕を広げていた。私はため息をつき、彼に背を向けた。

 二、三歩ほど歩いたあたりで、背中がずっしりと重くなった。誰かさんが、思いきりのしかかってきていた。腕をひっぺがそうとしても、一向に離れない。仕方がないので、私は彼を引きずるようにして歩いた。

 ようようリビングへたどり着くと、テーブルの上に、封筒が二つ出ていた。彼の机に置いたはずの辞表と給料袋だ。

「どうあっても、受け取ってくれないのかい?」
「受け取れない。こんなのいらない」
「そんなに、信用ならないかね。だったら約束するよ。今後何があっても、君の助けは借りない。迷惑もかけない」
「…………………………迷惑は、かけてくれていい」

 しがみつく腕の力が強まった。

「いっぱい、かけてくれていい。だから、おかえりやって」
「いやだ。もうやらない」
「じゃあ、服返すから。おねがい」

 私は驚いて、彼の方に顔を向けた。

「売り払ったんじゃないのかい」
「売ってない。ちゃんとある」
「どこに?」
「僕の部屋。押入れにあるから、見てみて」
「見ろと言ったって、君がくっついてちゃ動きにくいんだけど」
「……………………」

 どうあっても離れるつもりはないらしい。

 どうにかこうにかエイト君の部屋へ行き、押入れを開けた。背中で「奥のやつ」とナビがあった。「それ」と言った箱を引っ張り出して開けてみると、取り上げられた私の服が入っていた。全部あった。お気に入りもおろしたても、そっくりそのまま。
 感動の再会だった。思わず頬がゆるんだ。

「売らずにおいてくれたのだね」
「売るわけない」
「じゃ、お金はどうしたんだい」
「山田から全額徴収した」
「会ったのかい?」
「会った。……また、君をだますつもりだった。だから、今度は僕がだましてやった」

 何をどうやったのやら。気にはなったが、聞くのも少し恐ろしい気がした。

「ああいうやつが、夜の街にはいっぱいいる。あふれてる。人を食い物にして生きてるやつが、いっぱい。……君みたいのは、骨までしゃぶりつくされる」
「考えすぎだよ。君が思っているほど、世の中は危険なものじゃない」
「何かあってからじゃ、遅いんだ」

 痛いくらいに、彼は私を抱きしめた。

「もし、どうしても夜遊びしたいなら、僕が付き合う。バイト終わりだって、休みの日だって、夜が明けるまで……夜が明けたって、君の気が済むまで、いつまででも付き合う。きれいな子いっぱい集められるし、おいしいお店も、僕は知ってる。悪い連中からだって守ってやれる。この間は、迷惑なんて言ったけど、本当は、君が僕にしてくれることで、迷惑なことなんて一つもないんだ。だから、お金なんかいらない。君が笑ってくれるならそれでいい。でも、見返りをくれるっていうなら…………ぎゅーってして、おかえりって言って。僕はそれだけで、何もかも、報われるんだ」

 私の背中にへばりついた生き物が、声を震わせながらそう言った。

 私は彼をずるずる引きずって、ダイニングに戻った。そして茶封筒二つ――給料袋と辞表とを、くっつき虫の手に握らせた。

「立て替えた分は山田からもらった」
「迷惑料だ」
「迷惑なんかかかってない。いらない」
「じゃ、辞表だけでも」
「…………みとめない」

 彼の手からこぼれおちた封筒を再び拾って、私はエイト君に向き直った。離れようとするとしつこいが、向きを変えるのには協力的だった。
 私は彼のシャツのボタンをいくつか外して、服の中に辞表をねじ込んだ。

「はい辞めた。これで私はもう、君をお出迎えしなくてもいいわけだね」

 彼は渋い顔をしていた。だが、引き際はわきまえているようで、それ以上はじたばたしなかった。

「わかったよ。受け取るよ。君は………………自由だ。どこで、何をしたっていい。もう、僕の帰りを家で律儀に待たなくてもいい。おかえりって言ってくれなくても、ハグしてくれなくてもいい。何してもいい。好きにしたまえ。……けど、夜遊びは、ほどほどにしておけよ」

 エイト君は自分の部屋に引っ込もうとした。その背中を追いかけて、私はチョンチョンと、肩をつついた。

「エイト君」
「なに?」

 振り向いたところで、私は思いっきり、ぎゅーをしてやった。
 エイト君は大いに驚いた顔をしていた。「おかえり」と言ってやった時のその顔があんまり面白かったので、明日もやってやろうと思った。



【NEXT】


手繋ぎ ◯
ハグ ◯
キス △
メイクラブ ××