◆じゃれたい放題

 病気になると不安になって甘えたがりになる人間がいるらしいが、うちのエイト君もまさにそのタイプだ。

 冷却シートを額にぺたっと貼ってやると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。ふう、と一息ついたあと、彼は甘えるような声で言った。

「タケ。おなかすいた」
「うん。だから今、いろいろ買ってきたところだ。ゼリーとか、果物とか、スポーツドリンクとか。……飲めるかい?」
「……うん」

 エイト君はマスクを外して、ペットボトルに口をつけた。まなざしはぼーっとして、やはり少々、熱っぽい様子だった。

「何買ってきたの?」
「ん? ああ……」

 私は買い物袋の中身を並べていった。消化によさそうな食べ物と、飲み物と……。

「くだものある?」
「うん。リンゴと柿と、あと洋ナシを買ってきたよ」

 シロップ漬けは嫌だろうと思い、皮つきにした。取り出して見せると、彼はリンゴを指さした。

「これがいい。すりおろして…………あと、おか……」

 言いかけて、彼はゴホゴホと湿った咳をした。

「おかゆ? おかゆだね。すぐ用意するよ」

 彼は咳き込みながらもうなずいて、またベッドに横になった。

 出来上がったのを持っていくと、彼はのそのそと身を起こした。

「……ネギ、入ってないよね」
「うん。入れていないよ。……ここに置いておくからね」

 おかゆと、すりおろしリンゴの載ったトレーを、彼のデスクに置いた。しばらくして様子を見に行ってみると、エイト君はデスクの方に移動していた。ちらっとこちらへ目を向けたので、食べ終わったのかと思いきや、中身はまったく手つかずだった。

「食欲がないのかい?」
「ううん。食べたいのはやまやまなんだけど、腕が重くて……」

 ベッドからデスクまで歩けるのにスプーンが持てないというのもおかしな話だが、食べられないのなら仕方がない。器を下げようとすると、エイト君の口がぱかっと開いた。何ぞやと首をかしげると、彼も同じように小首をかしげた。

「なんだい?」
「食べさせて」
「……仕方ないなあ」

 私は彼の口に、スプーンを運んだ。おかゆは少し冷めてしまっていたようだが、特に文句は出なかった。

 スプーンに乗せたのをもくもくと食べる彼は、ちょっぴり、かわいらしかった。
 丹精込めて作ったおかゆと、リンゴのすり下ろしたのをたっぷり時間をかけて平らげると、彼はまたいそいそとベッドに戻っていった。



◆ガールフレンド襲来?

 食器を片づけていると、インターホンが鳴った。
 モニタを覗いてみると、若い女性が一人。聞くところによるとエイト君の学友らしい。どうしようかちょっと迷ったが、ちょうど彼も起きてゴソゴソしているところだし、せっかく来てもらったのを追い返すのも何なので、私はエントランスのロックを開けた。

 色男はベッドで本を読んでいた。

「エイト君。ガールフレンドがお見舞いに来てくれたよ」
「ガールフレンド? …………だれ?」
「ええと、市村さんって言ったかな。若いお嬢さんだ」
「……僕は寝てるって言って追い返して」
「すまない。もう上がってくるように言ってしまった」

 彼は大きくため息をついた。エイト君が洗面所へ行っている間に、二度目のインターホンが鳴った。

 玄関を開けると、さっきモニタ越しに見たのと同じ女性がいた。
 長身で若干スレンダー気味だが、スタイルの良い人だった。長い茶髪をふんわりと巻き、淡いベージュのニットワンピースに身を包んでいた。白い肌に差した頬の薄紅色と、唇の赤が艶やかだった。彼女は、魅力的なハスキーボイスで礼儀正しく挨拶をした。

 市村静と名乗るお嬢さんは、なんでもエイト君と同じゼミを受講していて、グループワークの班が同じらしい。それで、皆で集まる予定だったのを彼が風邪で休んだので心配して、見舞いに来たのだという。彼女の提げたビニール袋には、長ネギやらスポーツドリンクやらが入っていた。どうやら本格的に世話を焼きに来てくれたらしい。だが、ほんのちょっぴり間が悪かった。
 あいにくエイト君は、今しがたお昼を済ませたばかりだ。がっかりした様子のお嬢さんに、私はお茶をすすめることにした。何なら夕飯でも作ってもらえたら、きっとエイト君も喜ぶだろうと言うと、彼女は花の咲いたように笑った。

 実に可憐な笑顔だった。エイト君は果報者だ。

「お茶がいいかい? それともコーヒー?」
「あ……どうぞ、お構いなく」
「まあまあ、そう言わずに。今日はちょうど、のみもの選手権の開催日なのでね」
「の……のみもの選手権?」
「そう。恒例なんだ」

 戸棚の中をあさりながら、私は喋った。

「さあ始まりました、第三十一回のみもの選手権。今回のエントリーナンバー第一番は……ブラジル代表コーヒー選手。インスタントでありながら深いコクと香りを評価され、朝の食卓に選ばれ続ける優勝候補だ。エントリーナンバー二番は日本代表、緑茶。お茶なんか全部同じと豪語するエイト氏が銘柄を尋ねた実力派選手が、今、ご登場です。そして三番手は……今回初参加となる、桃はちみつ選手。果糖と花蜜の相乗効果で甘党をめろめろにし、自販機でも活躍している有望株だ。……さあ、出揃いました。果たして美女の口づけを受ける栄冠は誰の手に? ーーなお今回は、審査委員長の清き一票で優勝が決定します」

 テーブルの上にエントリー選手たちを並べると、ネイルを塗った指先が、やがてお茶の缶を指さした。

 優勝者を熱湯責めにしているところへ、エイト君が現れた。追い返せなどと言っていたわりに、わざわざよそ行きの服に着替え、寝ぐせもちゃっかり直す気合の入れようだ。

「大したことないんだから、見舞いなんてよかったのに」
「でも、心配だったんだもの」

 エイト君を前にすると、市村女史は頬を染めて、もじもじしだした。エイト君の方も、わざわざ身なりを整えているところからして、随分意識しているような感じだ。
 これはひょっとして、ひょっとするのかもしれない。

 私はちょっと気を利かせることにした。
 お茶の入った湯のみの一つを市村さんに差し出し、もう一つはマスク姿の色男に握らせた。

「なんだよ」
「何じゃあないよ、この色男。憎いねえ。……うまくやりたまえよ」

 察しの悪い男の肩を叩いて、私は恋する乙女に微笑んだ。

「じゃあね、私はしばらく出かけてくるからね。弟をよろしく頼むよ」

 若い男女を家に二人きりにするのは、ほんのちょっとドキドキしたが、まあ、エイト君は紳士のはずだ。きっと。



◆抜け目のない男

 ――――と、格好つけて家を出てきたはいいが、ちょっと複雑な気分だった。

 別に市村女史に文句があるわけではない。彼女は実に感じのいい人だった。
 良妻賢母型というのか。控えめでおしとやかで、エイト君にはもったいないくらいのすてきな人だ。

 両想いなら、間もなく二人は付き合うことになるだろう。何なら既に付き合っているのかもしれない。私が知らずにいただけで、もう二人はあんなことやこんなことまで済ませているのかも。エイト君はちょっぴり秘密主義のところがあるし、私に黙って彼女を作っていた可能性は、大いにありうる。

 もし二人の仲がとんとん拍子に進んだら、そのうち同棲。そしてゆくゆくは、籍を入れてゴールインなんてことも、あるかもしれない。

 ――おめでたいことだ。おめでたいし、祝福すべきことなのに、どうも、すっきりしない。

 私はパスタをぐるぐる巻きながら、ため息をついた。

 今まであまり考えないようにしていたが、来るべき時は、いずれ必ず来てしまうのだ。

 彼だって、いつまでも子供ではない。たとえ添い遂げる相手が市村女史でなかったとしても、いずれエイト君も所帯を持ち、子供を作って、立派なパパになる日が来る。そうなったら、彼はもう、弟ぶって私に甘えてくることもなくなるのだ。エイト君のおでこに冷却ジェルを貼ってやるのも、おかゆをあーんしてやるのも、いずれ彼と一つ屋根の下で暮らすお嫁さんの専売特許になってしまうのだ。そう思うと、なんだか少し寂しいような気がした。

 咳払いの音が私のそばでした。よその席だろうと思い、あまり気にせずにいると、今度は背後でかすれた声がした。

「おい……タケ…………」

 私は振り返った。家に置き去りにしてきたはずの、マスク姿の色男がそこにいた。彼はテーブルの上をざっと見回して、恨めしげなまなざしを私に注いだ。

「病気の家族をほっぽって、優雅にランチか……いいご身分だな……」
「君、どうしてここに?」
「……でんわ、つながらなかったから……」

 見ると携帯は電池切れだった。真っ黒の画面を見せると、エイト君はあきれたように息を吐いた。

「充電しとけよ……何かあったかと、思うだろ……」
「ごめんごめん。それで心配して、探しにきてくれたのかい?」
「そう……」
「悪かったね。……ちょっと待ってくれ。これだけ片づけてしまうから」

 と、急いでパスタの残りをかきこもうとすると、彼は「ゆっくりでいい」と向かいに座った。エイト君はテーブルの脇に伏せてあった伝票を確かめて、それから、メニューを眺めた。やがて彼はウエイトレスさんを呼んで、何やら注文した。

「君、さっき食べたんじゃないのかい?」
「………………」

 彼は咳だけで答えた。

 私がちょうどパスタのプレートを片づけたころ、デザートが二つ届いた。エイト君は片方を取って、片方を私の方へ追いやった。
 私の方にはチョコレートソースがたっぷりかかっていたけれど、彼の方は、白いムースか何かの上に、少しミントや果物が乗っているくらいで、シンプル極まりない。ちょっと見た感じではレアチーズケーキのようでもある。だが、彼がドルチェとは珍しい。
 じっと見ていると、器が近寄ってきた。

「食べる?」
「いいのかい?」
「ああ。甘そうなところだけ持って行ってくれ」

 ありがたく一口いただくと、ヨーグルトの味がした。さっぱりしていて実においしかった。器を彼に返そうとして、ふと私は思い出した。

 ヨーグルトをのせたスプーンを差し出すと、彼は目を丸くした。

「なに?」
「食べさせてあげよう。ほら、あーん……」
「…………じぶんで、たべられる」

 彼は私の手からひったくるようにして、ヨーグルトのパフェを食べ始めた。
 ――さっきは、腕が重いとかなんとか言っていたはずだが。不思議に思いながらも、私はサンデーに取り掛かった。

 自分の分担を終えて手持ち無沙汰らしく、エイト君はぼーっと店の中を眺めていた。

「そういえば、エイト君」
「なに?」
「さっきの女の子はどうしたんだい?」
「女の子? ………………ああ、市村? あいつだったら、手土産だけ置いて帰ってったよ」
「ゆっくり看病してもらえばよかったのに」
「やだよ。気色悪い」
「おいおい。そんな言い方はないだろう。君の具合の悪いのを心配して、わざわざ来てくれたっていうのに。それにあの子、きっと、君に恋をしているよ。恋する乙女を邪険にするなんて紳士の風上にも置けないな」
「あいつ、男だよ」

 私はむせかえった。彼はさらに追い打ちをかけた。

「しかも、君は会ったことあるはずだ。男の恰好してる時、学食で一緒に食べたこともある。…………気づかなかったのかい?」
「ぜ、ぜんぜん……」
「そうか。ま、厚化粧だったもんな。仕方ないさ」

 ――――思い起こせば私より断然背が高かった。ネイルを塗った手も、そういえば筋張っていたような気がする。

「…………なぜ、女装なんか…………」
「女形なんだよ。それで、演劇興行に、興味があるんだってさ……」

 彼は立ち上がった。私も急いで残りを平らげた。会計をしようと、ふとテーブルの脇を見ると、伝票が消えていた。



◆オンオフの落差

 エイト君は店を出てすぐの壁のところに、もたれかかっていた。

「払ってくれたのかい?」
「僕が食い逃げなんかするか」

 私の追いつくのを待って、彼は歩き始めた。

 横断歩道を渡って二、三百メートルばかり行くと、もうマンションのエントランスだ。エレベーターに乗り込むと、エイト君は私にのしかかってきた。

「大丈夫かい?」
「だいじょーぶじゃない。熱、上がったみたいだ」
「うろうろしたりするからだよ」
「うろちょろしてるのは君だ。君がちゃんと家でおとなしくしていたら、僕はわざわざ、君を探し歩いて、体力を消耗することもなかった。だいたい、電話がつながらないんだ。何かあったかと思うじゃないか。……ああ。タケが手厚く看病してくれなくちゃ、治らないぞ、これは……」

 私は彼に肩を貸してやった。家に帰るなり、エイト君は布団に潜り込んだ。

「見舞いはもう沢山だ。……もしまた誰か来たら、今度こそ、寝てるって言って追い返してくれ……」
「ああ、わかったよ。ゆっくり休みたまえ」

 部屋を出ていこうとすると、彼は私を呼び止めた。手招きされたので、私はベッドに近づいた。

「なんだい?」
「君はここにいろ」
「でも、寝るんじゃないのかい」
「寝る。だけど、目を離した隙にまた君がどこか行ったらと思うと、気が休まらない。病は気からだ。さんざん心労をかけさせて、僕の病気を悪化させた罪滅ぼしをしろ。……ぼけっとしてないで、手を出せ、手を」

 言われるままに手を差し伸べたら、指が絡みついてきた。私の手を握りしめると、彼は安心したように微笑み、まぶたを閉じた。

「僕が今度目を覚ますまで、ちゃんとそこにいろよ…………いいな…………」

 そのうち、安らかな息が聞こえてきた。
 眠ってしまったのかと思ったころに、また、篭った声がした。

「あと…………夕飯は、パスタがいい……」
「はいはい」

 完全に寝入ってしまったあとも、彼の指はしっかりと私の手を捕まえたままでいた。

 ――どうやら、まだまだ巣立ちは遠そうだ。



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