◆一生のお願い(十二回目)

 テーブルに頬杖をついて、じっとこちらを見つめるエイト君に、私は再び頭を下げた。

「お願いします。なにとぞ……」
「……出席日数が、足りないんだっけ?」
「そう。これ以上休むとまずいんだけど、その日、どうしても外せない用事が入ってしまったんだ」
「…………学生なんだし、学業を優先すべきだと思うけどね」

 彼は頬杖をついたまま、涼やかな目つきで私を眺めた。土下座なんてしても無駄だからと淡々と諭され、私はエイト君の向かいの椅子に腰かけた。

「第一、何なんだい? その用事って」
「ええと……海外に住んでる友達に、ちょっと不幸があって……お葬式に出たくて……」
「…………僕の記憶が確かなら、今年に入って既に七人ほど君の友達は天に召されていたはずだが」
「不幸は続くものだね」

 疑惑をたっぷりまぶした視線が突き刺さる。いたたまれなくなって、私はそっと目をそらした。

 そもそも私だって、授業に出られるものなら出たいのだ。それが出来ないから彼に頼んでいるのだ。そうでもなければ、代返など頼んだりしない。

 第一、これまでに休んだのだって、特定の授業のある日に限って私を呼びつける、かの方のせいなのだ。

 かの方のご命令は絶対だ。かつてご命令に背いたものは、生きながらにして四肢を裂かれ、ある者は足から火あぶりにされた。またある者はジワジワと効いてくる劇薬を飲まされ、餓えたけものの群れに放り込まれた。

 ――可及的速やかに参上せよとのお達しだ。もたもたしてはいられない。――――だが、私は単位をみすみす逃したくもなかった。

 三つ子の弟ふたりは、私に完璧になりすますことができる。だが末の弟の方は、何度電話をかけてもつながらない。だから頼めるのはエイト君しかいないのだ。しかも彼の時間割は、その講義の時間は空いている。渡りに船だった。だが、返答は芳しくない。土下座も効果がないとなると、もはや伝家の宝刀を抜くしかなかった。

「頼む、エイト君。一生に一度のお願いだ」

 私はちらっとエイト君をうかがった。顔つきは、相変わらず渋いままだった。

「君の『一生に一度のお願い』を、僕はこれまでに十一回は聞いた。そしてその度に僕は君の願いを叶え、同じセリフを言ってきた。『これで最後だ』と」
「そこを何とか、頼むよ。なんでもするから」
「……だったら、自分で授業に出たまえ」

 書斎へ引っ込もうとする彼を、私は慌てて追いかけた。

「エイト君、あの……ちょっと、本当に困っているんだ。頼むよ」
「だめ」
「でも…………」
「だめったらだめ」

 けんもほろろだ。だが、考えてみれば仕方ないのかもしれない。同じ手口で七回もだましているのだ。信用してもらえないのも無理はない。
 それでもエイト君だったら、ひょっとして助けてくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。しかし今度の今度は本当にダメなようだった。

「じゃあ……わかった。もういいよ。今の話は、なかったことにしてくれ」

 ともかく早く行かなければならなかった。私は単位を諦めて、荷造りに取りかかった。



◆押収

 再び家に帰ることができたのは四日後だった。

「タケ! 今までどこ行ってたんだよ」
「…………」
「電話も全然つながらないしさ。心配したんだぞ」
「うん。ごめんね」

 彼は大きなため息を一つついて、腕を広げた。スキンシップの催促だ。断る理由はなかったので、彼にハグをした。

「おかえり」
「…………ただいま」

 彼はしばらく、黙って私の背を撫でていたが、やがて再び口を開いた。

「君の、十二回目の一生のお願い、叶えておいたよ」
「え? ……ああ。じゃあ、代わりに授業、出てくれたのかい?」
「うん」
「そうかい。世話かけたね。どうもありがとう」
「ん。……でもな、本当の本当に、今度で最後だ。もう君の替え玉なんてやらないからな。授業には自分で出てくれ」
「うん……。できることなら、私もそうしたいところだ」

 私は彼の腕の中から逃れた。

「それで、どこ行ってたんだい?」
「言っただろう? 海外の友達に不幸があったから、葬儀に出てたんだ」

 嘘をつくのは慣れている。

「それで四日間?」
「そうだよ」

 笑顔を作るのも慣れている。

「待て、タケ」

 肩をつかまれた。振り返りたくなかった。

「本当のこと言って。どこ行ってたの?」
「だから、友達の葬儀に……」
「どこの誰の?」
「……ジャスミン。君は知らないと思うけど、奇術の大会で知り合って仲良くなったんだ。東南アジアの人だよ」
「それで講義を休んで、わざわざ海外に行ったの?」
「そうだよ」
「ふうん。でも、そんなに仲よかったのに、ジャスミンの連絡先は携帯に登録してなかったんだ?」

 私はギクリとして、振り返った。

「僕さあ。先週、君の携帯を拝見して、君の知り合い全員の名前と連絡先を控えておいたんだよね。もしもの時のために。で、全員調べ上げたけど、外国人は一人もいなかった」
「……ロックをかけておいたはずなんだけどな」
「携帯を見られたくなけりゃ、パスワードに誕生日を使うのはやめるんだな」

 彼はにっこり微笑んだ。

「で、本当のところは、誰とどこにいたんだい?」
「だから、東南アジアで友達のお葬式に……」
「そう言えって指図されてるんだろう?」

 エイト君の指が、獲物をつかむ猛禽の足のように、私の肩に食い込んだ。

「痛いよ、エイト君」
「離してほしけりゃ白状するんだな」

 そう言いながらも、ほんの少し力はゆるくなったようだった。

「こっちは散々心配したんだぜ。なのに、なんだい。電話の一本すらよこさずに、どこの馬の骨とも知れないやつのために、講義そっちのけで海外だ? ふざけるなよ。そんな言い分が通ると思うな」
「本当だよ。打ち解けて間もなく国へ帰ってしまったんだけど……」
「だったら葬儀の会場は? ほかの参列者の名前は?」
「それは、ちょっと……」
「へえ。言えないんだ。後ろ暗いところでもあるのかな」
「…………黙秘する」
「認めないぞ」

 私はため息をついた。

「ため息をつきたいのはこっちの方……」
「エイト君。君も私も、もう、子供じゃないんだ。秘密にしておきたいこともあるんだよ。君が六法全書をくりぬいて中にローションを隠しているみたいに、私にも、隠しておきたいことがあるんだ」

 今度はエイト君がぎくっとする番だった。彼の動揺したすきに、私は手をそっと払いのけた。

「連絡しなかったのは、悪かったよ。だけど、今度は犯罪に巻き込まれてるとか、そういうのじゃないから。小さい子供みたいに心配しないでくれ」

 彼は大きくため息をついた。どうやら追及をあきらめたようだった。

 関係者各位に一通りの筋を通し終え、一息ついたころにエイト君が言った。

「なあ、タケ。あの話覚えてる?」
「どの話だい」
「君の代わりに授業に出たら、なんでもするって話」
「ああ……うん。覚えてるよ」

 もう夜は更けていた。食事もせずに急いで帰ったので空腹だった。適当に食糧を調達しに行こうかと思ったが、おなかが空いたと言うとエイト君がパンをくれた。

「でも、私の記憶が確かなら、それは白紙に戻したはずだけど」

 パンをかじっていると、スープも出てきた。お湯を注ぐだけの。

「ふーん。じゃ、君の一生に一度の、十二回目の頼みを聞き届けた僕へのお礼は口頭でおしまいなんだね。いや、いいんだよ、別に。全然、いいんだよ。僕は聖人君子だからね。人騒がせなお兄さまが無事に帰ってきてくれただけで御の字だ。どういたしまして!」

 エイト君は椅子にふんぞり返った。どうやらすねているようだった。彼は眉間にしわを寄せて、ぶつくさと呟いた。

「何も言わずに出て行って、連絡一つしないでさ。僕がどんなに心配したかも知らないでさ」
「……悪かったよ」
「でも結局君は、授業サボって遊びたかっただけなんだね。あーあ。やらなきゃよかった」
「ちがう。それは誤解だエイト君」
「だったら、ちゃんと説明してくれよ」
「それは……」
「……ふん。ま、いいさ。そっちがその気なら、こっちで勝手に調べるだけだ」

 エイト君は立ち上がった。その手には私の携帯電話があった。――メールや着信の履歴は念のため消しておくようにと友人に言われていたので、彼と連絡を取り合ったあと、私はいつもそうしていた。たぶん、大丈夫なはずだったが、相手はエイト君だ。人の秘密を盗み見ることに喜びを見出す変人だ。彼が自信ありげに微笑んでいると私は妙に不安になった。

「待って、エイト君」
「なに」
「あの……悪い人たちといたわけじゃないんだ。だから、心配はいらなくて、その……」
「何慌ててるんだい」
「べつに、慌ててやしないけど……」
「…………あやしいなあ」

 エイト君は指に髪をくるくる巻きつけながら、探るような目つきで私を見た。目をそらすと、彼は背を向けた。
 ほっとしたのもつかの間。彼の足の向かう先を見て私はぎょっとした。私の荷物を狙っている。制止をするも、私のバックパックは略奪の被害にあった。

「驚いたな。海外は本当なのか」
「ちょっと! 返してくれよ!」
「だめ」

 彼はパスポートを背に隠した。背中の方へ回って取ろうとすると、彼はくるっと身をひるがえした。私はパスポートを追いかけて彼の周りをぐるぐる回った。

「エイト君! 困るよ!」
「なあに。ちょっと預かるだけさ」

 彼は私をあしらいながら、書斎に逃げ込んだ。机の上に開いていた手提げ金庫の中に、私のパスポートを放り込んで素早く蓋をした。慌てて開けようとしたが、もうロックが掛かってしまっていた。

「もう。何てことしてくれたんだ……。これ、何番だい」
「僕のお願いを聞いてくれたら教えよう」
「…………望みはなんだ」
「僕が今、一番欲しいもの」
「君の一番欲しいもの?」
「そうだ」
「何が欲しいんだい?」
「それは自分で考えたまえ」

 私の手から金庫をひょいと取り上げると、彼はにっこり微笑んだ。



◆いちばんほしいもの

 エイト君の悪ふざけに付き合ってはいられない。かの方の気まぐれが明日にも起こらないとも限らないのだ。
 来いと言われたらほかの何を置いても直ちに参上し、あおげと言われたら筋肉痛になるまで扇を振り、食えと言われたら腹がはちきれても胃袋に押し込めなければならない。
 先日ですら「来るのが遅い」と散々文句をぶつけられ、肩車をさせられて、ヘトヘトになるまで散策に付き合わされたのだ。しかも遅れた罰としてトラを献上せよなどというご命令をなさる方だ。パスポートがないので国外には参上できませんなんて言った日には何をさせられることやら。

 私はエイト君の寝ている間にそろそろと起きだして、金庫破りを決行した。

 自転車用のチェーンでサイドテーブルに括りつけられた金庫には、四桁のダイヤルがついていた。いろいろ試して、ふと思いつきで「0205」と入れてみたら開いた。誕生日を使うのはやめろと言ったくせに彼もうかつだ。

 だが、中にパスポートは入っていなかった。どうやら先手を打たれたようだった。代わりに紙切れが一枚だけ入っていた。手に取ってよく見ようとすると、背後で「どろぼー」と声がした。

 いつの間にやらエイト君が起きてこっちを見ていた。

「私のパスポートをどこへやった」
「返してほしくば身の代金を払うんだね」
「無事な姿を見たいんだが」
「いいよ。誠意を見せてくれたらね」

 しかし彼は具体的に何が欲しいとも言わないのだ。文句や悪口は人一倍出てくるが、誉め言葉はめったに飛び出さない口だ。それとなく尋ねても自分で考えろの一点張り。私は頭を悩ませる羽目になった。

 探偵バカだし、推理小説でも与えれば満足するだろうか。そう思って、本屋で流行りのものを一冊買って帰ってみた。だが、すでに本棚に入っていた。よくおやつに食べている激辛スナックにリボンをつけたりもしてみたが、やっぱり戸棚に入っている。
 彼は欲しいものは既に自分で手に入れてしまっているような気がした。そうなると彼の経済力では手の届かないものとなってくるが、そんなものを私に買える道理もない。

「君の欲しいものって、高いのかい?」
「僕にとっては世界一貴重だ。でもお金で買えるとは限らない」
「……一体、何なんだい?」
「それは自分で考えるんだね。ヒントが欲しいなら僕の持ち物を調べてもいいよ」

 私は彼の私物をあさった。ついでにパスポートが出てきやしないかと思いながら、半ばは八つ当たりで彼のクロゼットや引き出しや本棚を荒らした。服だの本だのをしっちゃかめっちゃかにしても、彼はまったく堪えた様子はなく、ただにこにこしながら私の方を眺めているばかりだった。

 家中をひっかき回して分かったことは、エイト君の趣味がアブノーマルだということくらいだった。
 ベッドの下から、女性には装着できない性具の数々が出てきたのだ。にこにこしながら「使いたいなあ」と言うので、もしや欲求不満なのではと思い、女王様を手配した。絶対にこれだと思ったのだが、エイト君にかつてないほどこっぴどく怒られてしまった。

 お手上げだった。彼との共通の友人に、愚痴吐きがてらに聞き込みをしてみると、彼らは口をそろえて言った。

「リボンでもつけてみたら?」

 なんだかよくわからないが駄目で元々のつもりで、私は水色のリボンを頭にひっつけて、エイト君のところに行った。彼の反応はほかのプレゼントを持って行った時と、ちょっと違っていた。エイト君は「ほう」と言って、興味深げに目をみはった。

「今度の貢ぎ物は君なのかな?」
「ええと……」

 ちょっと迷ったが、正直に話すことにした。

「何がいいのか考えたけど、よくわからないから、市村君たちに相談してみたんだ。そうしたら、これがいいんじゃないかって」
「あいつら…………」

 エイト君はちょっぴり苦々しげな顔をした。どうやら、これも違ったらしい。リボンを取ろうとすると、エイト君が近づいてきた。

「まあ、どうしてもというなら仕方ない。もらってあげよう」

 私の髪をくしゃくしゃにしながら、彼は優しく微笑んだ。

「一応確認しておくけど、僕の所有物になりたいってことでいいのかな?」

 私は慌てて首を振った。

「となると、君が僕に、自発的に、何かをしてくれるってこと? それでもいいよ。……さて、君は一体、僕に何をしてくれるんだい?」



◆言外のコード

 私は返答に困った。何をしたらいいのだろうと頭を悩ませていると、エイト君がつぶやいた。

「おなかすいたなあ」

 彼はちらっと私に目を向けて、先ほどよりも少し大きな声で言った。

「おなかすいたなあ。誰か、ごはん作ってくれないかなあ」
「……何が食べたい?」
「シェフに任せようかな。楽しみだなあ。ああきっと僕の一番好きなものを用意してくれるんだろうなあ」

 自分で考えろということらしい。
 とりあえず冷蔵庫を開けてみた。野菜室は充実していた。卵もパスタも買い足されている。私の好物はいくらでも作れそうだ。だがお魚が見当たらない。お肉もない。
 エイト君はお魚が好きだったような気がする。買出しに行こうと身支度を整えると、
「時間かかるんだったら僕、外食で適当に済ませちゃおっかな」
 私はまたキッチンに戻った。

「でも、エイト君はベジ党じゃないだろう?」
「…………なんでもいいから、早く作ってくれよ」

 パスタとオムレツのおかわりを要求し、私の倍ほどもサラダを平らげた後、彼はにこにこしながら言った。

「悪かないけど、僕の一番欲しいものって、これじゃないんだよなあ」
「文句があるなら外食してくださってもよかったのだよ」
「まずかったなんて言ってないだろ」

 エイト君はソファでくつろぎだした。私は彼の肩を揺さぶった。

「ねえ、エイト君。パスポート返してくれよ」
「肩こったなー」

 私はため息を一つ挟んで、彼の肩をトントン叩く作業に入った。
 触ってみた感じでは、そんなに凝っていなさそうだった。十分ほど肩たたきをすると、「肩より腰の方が凝ってたかも」と言い出した。

 私はカーペットに伸びた彼の背中にまたがって、腰を揉んだ。もっと強くだの弱くだの上だの下だの右だの左だの細かい指図に従って揉み倒した。
 三十分ほども続けると、彼は満足したらしい。息も切れるほどくたびれた私に「ちょっとは楽になったかなあ」とだけ言って、またソファに根を張った。

 しばらくはおとなしく、サスペンスドラマの再放送をぼーっと眺めていた。CMに入ると、彼はつぶやいた。

「誰か耳掃除とかしてくれないかなー」

 耳かきを手にソファに座ると、彼はいそいそと頭をのせてきた。ドラマの方に熱中しているのか、非常に静かで、おとなしかった。おかげでスムーズに片耳が終わった。反対側の耳に取りかかろうと、声をかけたが返事がない。静かだと思えば、すやすや寝ていた。

 私の膝の上で午睡を満喫した後、彼は大きく伸びをした。

「あー。なんかちょっと、コーヒーとか飲みたくなってきたなあ」

 私はすぐにコーヒーを淹れに行った。熱々のブラックコーヒーと一緒に、バウムクーヘンも一切れ運んだ。

「ああ、ありがとう」
「一応聞くけど、君のやってほしいことって……」
「これじゃないよ」

 わかってはいたが、少しがっかりした。
 あとエイト君の好きなものは何があっただろう。お盆を手に考え込んでいると、エイト君が言った。

「僕、タケがバームクーヘン頬張ってるところ見たいなあ」

 慌ててお皿の準備を始めると、彼はこうも言った。

「カフェオレ飲んでるところも見たいなあ」

 だんだん、からかわれているだけのような気がしてきた。クスクス笑う彼の目の前でバームクーヘンに噛りつこうとすると、「十五分くらいたっぷり使って、ちびちび食べたりしないかなあ」

 私はデザートフォークで年輪をスライスしていく羽目になった。しかも彼は、こちらにはゆっくり食べろと指図するくせに、自分はさっさと平らげて、にやにや顔で観察に興じているのだ。

 その細い体のどこに入るのかと思うほど昼もたっぷり食べたというのに、夕飯もおかわりをした。お皿を洗い終えて、ちょっと一息つこうと思った頃に、彼はまたおかしなことを言いだした。

「さて、と。お風呂入ってこようかな」
「好きにしたまえ」
「殿様みたいに背中流してもらえたら、口が軽くなっちゃうかもしれないなあ。うっかり、パスポートの隠し場所とか口走っちゃうかも……」

 私は仕方なく、お大尽さまの体を洗ってさしあげた。

 背中に泡を広げた。彼の背中は思っていたより広かった。数年前、皆で銭湯に行った時にも洗いっこをしたが、その時はもう少し小ぢんまりしていたような気がする。
 泣く子がずいぶん育ったものだ。成長にしみじみ感じ入っていると、お湯の雨が降り注いだ。

「…………エイト君」
「悪い悪い。手がすべった」

 悪いと言いながらも顔はまったく悪びれてはいなかった。私をシャワーでずぶ濡れにしておきながら、いけしゃあしゃあと彼は言う。

「どうせ濡れちゃったんだし、ついでにタケもお風呂入っちゃえば?」
「そんなスペースないよ」
「あるある。今作る」

 エイト君は浴槽に入った。
 何が楽しいのか、彼は湯舟にもたれて、私の体を洗うのをじっと見ていた。

「体きれいだね」
「いきなり何を言い出すんだ」
「いや、怪我とかなくて安心したよ。……ほんとに、友達と遊んでただけなのかい?」
「だから、そう言ってるじゃないか」

 泡を流して上がろうとすると、エイト君が言った。

「浸かってけば? いい温度だよ」
「いいよ。貸し切りだ。存分に楽しんでくれたまえ」
「ひょっとすると僕の一番って、兄さんと一緒にお風呂でまったりすることだったのかもしれないなあ」

 私はいったんは開いた浴室の扉を、また閉めた。しかし浴槽は定員一名のように見える。どうしたものかと考えていると、エイト君が腕を広げた。

「なんだい?」
「くっついたら入れる」
「別に、そこまでして……」
「パスポート」

 足は折り曲げなければ収まらなかったが、二人でも意外と何とかなった。だがお湯がちょっぴり熱かった。彼が私に抱きついてべたべたしてくるせいで、余計に熱かった。
 体が十分に温まったので上がろうとすると、妖怪ひっつきむしが邪魔をした。

「百数えてから上がれって父さん言ってたろ?」
「言ってたかな……」
「言ってた言ってた」

 そして彼はゆっくりと数を数え始めた。いーち、にいぃーい、さあぁーん、……。なんだか調子が長いような気がしたが、お湯が熱いせいか、頭がぼーっとして、そんなものだったかなと思ってしまった。

「うーん。いいお湯だったけど僕の一番ほしいものって、これじゃなかったみたいだ。いやあ、これだと思ったような気がしたんだけどなあ」
「…………」
「おや。のぼせちゃったかな。大丈夫かい?」

 声は聞こえていたが、返事をするのが億劫だった。ベッドに横になっていると、だんだん楽になってきた。頭をなでる手が心地よかった。

「もういい加減教えてくれよ」
「何を?」
「エイト君の一番欲しいもの」
「…………本当にわからない?」
「わからない」
「ふーん」

 彼はにやにやしながら、私の頬をくすぐった。

「じゃあ明日も考えたまえ」
「えー……明日も?」
「ああ。明日も明後日も明々後日も考えたまえ。朝も昼も夜もずっと。夢の中でも考えるがいいさ」
「エイト君、本当は私をからかってるだけじゃないのかい?」
「からかってないよ。僕は本気だし、一番欲しいものは、ちゃんとある」

 彼は目をつむった。

「君にも、言いたくないことの一つや二つ、あるんだろうけど。僕は、君のことなら、どんなことでも知っておきたいんだ。――心配だからね。でも僕の一番欲しいものを君がくれたら、ちょっとは安心できそうな気がするんだ。だから僕だって、早く当てて欲しいんだよ」
「……だったら、教えてくれたらいいのに」
「ヒントは出してる。わからないのは、単に、君が、鈍すぎるんだ」

 微笑む彼の隣にサイドテーブルが見えた。金庫はそこにはもうなかった。意味深に一枚だけ入っていた紙切れを私によこした後、エイト君がまた移動させたのだ。
 どこか楽しげに私の頭をなで回す彼の真意も、数字が三つ書かれただけの、暗号のようなその紙切れの意味も、私にはわからなかった。




【NEXT】


パスポート使っちゃうと渡航履歴で替え玉バレそうな気も……

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