◆143

 エイト君の一番も、意味深な紙切れの意味も一向解けずにいる最中だった。私はまた、かの方に呼びだされた。

 幸い長期休暇に入っていたので講義はなかったが、私はまた、地図にない島へ行かなくてはならなくなった。かの方の無邪気な気まぐれを満たすそのためだけに、私は飛行機と船をいくつも乗り継いで急ぎ向かわなくてはならないのだった。
 チケットやら何やらは親切な友人がすでに手配してくれている。さしあたっては、エイト君に、パスポートを返してもらう必要があった。
 私はエイト君のために料理を作り、肩をもみ、背中を流した。そして彼の機嫌が十分に良い時を見計らって切り出した。

「あのね、エイト君。明日から、また、ちょっとの間、出かけなくちゃいけないんだ」

 そう言った途端に、にこにこ笑顔は渋面に変わった。

「あの、でも、心配いらないよ。すぐ行って、すぐ戻ってくる。それで、その……」
「……パスポートが要るんだ?」

 私はうなずいた。
 長いあいだ沈黙した後、エイト君が言った。

「とりあえずさ、今日は寝ようよ。もう夜遅いしさ」
「でも……」
「寝よ寝よ。おやすみー」

 彼は私をベッドに追いやった。

「ねえ、エイト君。ちゃんと聞いてくれよ」
「はいはい。明日ね」
「始発で行きたいんだ」
「じゃあなおさら早く寝なくちゃ」
「パスポート返してくれるのかい?」

 彼は何も答えずに、横になって目を閉じた。

 エイト君が寝入ってしまったあと、私はベッドを抜け出した。

 寝室のドアをそっと閉め、パスポートを探した。手始めに書斎を、次にダイニングを。念のため、玄関やお風呂、トイレやベランダまでも確かめた。だがパスポートは見つからなかった。
 となると疑わしいのは寝室だった。そっと扉を開けると、まだ布団がこんもり膨らんでいる。幸いエイト君はまだ眠っているようだ。
 眠る彼を起こさないよう、私は慎重に寝室を探索した。ベッドの下。エイト君のクロゼット。特に代わり映えはない。いや、ハンガーに吊るされた服の隙間に何か見える。引っ張り出してみると、例の金庫が出てきた。先日、妙な紙切れが入っていた金庫だ。アイアンハンガーに鎖でもってがっちりと繋がれていて、いかにも怪しい。
 用心深い彼のことだ。ひょっとするとパスポートを中に入れ直しているかもしれない。だが、ロックがかかっていた。今度は誕生日では開かなかった。

 しばらくダイヤルを構ってみたが、一向に開く気配はない。

 うかうかしていると夜が明けてしまう。こうなれば最後の手段だ。私は工具箱を持ってきた。マイナスドライバーをねじ込んで、金庫の口をこじ開けにかかった。しかしやはり金庫というにふさわしい頑固さで、一筋縄ではいかない。
 額に汗して金庫と格闘していると、ふと、ギシッと音がした。

 おそるおそる顔を向けると、エイト君が横たえたまま頬杖をついて、こちらをじっと見つめていた。

「何してるんだい」
「あ……その……」

 私は金庫を背に隠した。

「お察しの通り、君のパスポートはその中に入ってる」

 努力が水の泡ではないとわかって、私は少し、ほっとした。

「エイト君。だったら開けてくれよ」
「だめ」

 そう言うと彼は、私の手からドライバーをもぎ取った。さらには工具箱をも取り上げて、私を見張るかのように、ベッドに腰かけた。

「言っただろ? 僕の一番欲しいものくれるまで返さないって」
「でも、この間からずっと色々してるじゃないか。そのくせ、あれが一番じゃない、これが一番じゃないって」
「実際一番じゃないんだから仕方ないだろ」

 いけしゃあしゃあと彼は言う。

「…………本当は、返す気なんてないんだ」
「………………」
「私をいじめて、そんなに楽しいかい?」
「…………そんな顔するなよ。ヒントをやるから」

 自分の指に、クルクルと髪を巻きつけながら、彼は言った。

「この間、手紙を渡しただろう? 僕は、それの返事が欲しいんだ」
「手紙って、この紙切れかい?」
「そう」

 私は143と書かれた紙切れを広げた。以前、金庫に入っていた意味深な紙切れだった。

 彼に言われるまでもなく、私もこれを怪しんでいた。だがダイヤルは四桁なのだ。もしやと思い、0143に合わせてみたが鍵が開かなかったので、脇へやっていた。だがこれが何だというのだろう。

「143って何なんだい?」
「143は、143さ」

 彼は笑顔ではぐらかした。そして、それ以上のヒントはくれなかった。

 誕生日、生まれ年。彼の好きそうなものの語呂合わせ。あらゆる数字には一通り合わせてみたけれど、金庫は開かない。睡魔の勢いが強まり、考えるのにも一苦労。私はしらみつぶし作戦に切り替えることにした。0000から9999まで順番に合わせていったら、いつかは開くはずだ。どれくらい時間がかかるかわからないが、ほかにもう手はなかった。
 指の痛みと疲労が積み重なって、だんだん、ダイヤルを回す手がのろくなってきた。……涙も出てきた。それでも私は無心に金庫のダイヤルを回した。

「そんなにまでして、一体どこに行きたいんだい」
「…………エイト君のいないところ」

 大きなため息の音。そして「1432」とつぶやく声。
 顔を上げると、彼はぶすくれた面持ちでまた言った。

「金庫の番号。1432に設定してある」

 数字を合わせてみると、かちっと音がした。中には私のパスポートが入っていた。
 これで飛行機に乗れる。ひとまず、ほっとした。

 荷造りを始めたが、エイト君は邪魔してこなかった。何か深刻な顔で考えているようだったが、私は構わず旅支度を進めた。

「頼みがある」

 あらかた支度も終えたころ、エイト君はそう言って、携帯電話を差し出した。

「毎晩、電話して。何もなくても絶対かけて。……心配するから」
「……………………」
「メールでもいい」

 真剣な顔だった。何か思いつめたような雰囲気だったので、私はつい、了承してしまった。

「それから、もう一つ」

 あたたかい手のひらが、ふわっと私の頬をなでた。

「犯罪の加害者や被害者にならないこと。危ない場所に立ち入らない。知らない人に優しくされてもついていかない。美人だからって無条件に信用しない……」
「悪いことはしないよ」
「知らずに騙されているってことがあるからなあ」
「だいじょうぶ」
「…………不安だなあ」

 彼はしばらく私の頬をなでていた。「もう行かないと」と言うと、彼は名残惜しげに手を離した。「行ってらっしゃい」と微笑んだ顔は、ちょっぴり寂しそうに見えた。




◆1432

 今は私の半分ほどの背丈しかないかの方のわがままに付き合わされ、身も心もクタクタになった帰り道。現地滞在時間よりもはるかに移動時間の長い旅程の後半になって、財布の中の紙切れに私は気がついた。例の金庫に入っていた、143の紙切れだった。
 入れた覚えはないので、おそらくはエイト君が忍ばせたのだろう。
 そういえば彼、この手紙の返事が欲しいとか言っていた。そしてその返事が確か、1432。何のことだったのだろうと思いながら、まじまじと眺めていると、友人が言った。

「どうした。難しい顔して」
「ああ。……これ、どういう意味なのかと思って」

 紙切れを覗き込んで、成上君はつまらなさそうに言った。

「ラブレターなんじゃねえのか」
「ラブレター? どうして?」

 成上君は渋ったが、食い下がると教えてくれた。

「143には、『愛してる』って意味があんだよ」
「あいしてる? いちよんさんが?」
「ああ。……I love you。1語、4語、3語。だから143で愛してる」
「ふうん……」

 そう言われると、143がアイラブユーに見えてくるから不思議だ。私はちょっと思い出して、こうも尋ねてみた。

「ねえねえ。じゃあ、1432は? 1432にも何か意味があるのかい?」
「あるぜ」
「どういう意味?」
「I love you too」

 あたたかい潮風がふわっと頬を撫でた。

「あまえんぼさんだとは思っていたが、まさかここまでとは」
「……例の弟か?」
「そう」

 船の手すりに、ちょっぴり熱くなった頬を押しつけた。
 あいしてる。143。
 ――結局のところ彼は、私のことが好きだから手料理を作らせたり、肩を揉ませたり、一緒にお風呂に入りたがったり、一緒に寝たがったりしていたわけだ。そう考えるとパスポートを略奪したのも、ただ単に、そばにいてほしかっただけなのかもしれない。

「愛してるって言ってほしいなら、周りくどいことをしないで、素直にそう言えばいいのに」
「俺からすりゃあな。好きだの愛してるだの平気で言えるお前がすごいと思うけどな」
「そうかい?」
「ああ」

 彼の吐いたタバコの煙が、潮風にたなびいて流れていった。

「言えねえもんさ。時機を逸すれば、逸するほど。距離が近ければ近いほど、言えねえもんさ……」
「そうなのかなあ」
「そういうもんさ」


 定期報告をする時間には最寄り駅に着いていた。私はエイト君の番号をコールした。

「今、駅についたところだ。もうすぐ帰るよ」
「電話ボックスの前?」

 きょろきょろ辺りを見回すと、横断歩道の向こう側で、黒いダウンコート姿のエイト君が手を振った。
 歩きながら、私は彼の腕をつついた。

「これ、財布に入れたの君だろう?」

 143の紙切れを一瞥すると、彼はまた前を向いた。

「どうだったかな。忘れた」
「おやおや。まだ若いのに物忘れかい」
「誰かさんがたくさん心配かけるからね。そのうちストレスで禿げるかも」
「それは大変だ」

 信号で立ち止まったとき、彼はぼそっとつぶやいた。

「お土産とかくれたら、ちょっとはマシになるかも」
「悪いね。買ってこなかった。代わりに君にあげたいものがあるんだ」
「へえ、何?」

 私は143の紙切れに数字を一つ書き足して、エイト君に差し出した。
 ちょうど信号が変わった。彼は踏み出さずに、じっと私を見つめていた。私は彼に笑みを向けた。

「エイト君。君がどんなにひどいブラコンを患っていたとしても、お兄ちゃんは変わらず君を愛しているよ」
「………ありがとう。僕も愛してる。君は救いようがないほど鈍感で無神経で単細胞で学習能力に欠ける極楽とんぼの大ばかやろうだが、それでも僕の心は変わらないよ」
「……何怒ってるんだい?」
「べつに」

 エイト君は紙切れをポケットに突っ込むと、すたすた歩いた。急ぎ足で彼に追いついて、私は手を差し伸べた。

「ほら、甘えん坊さん。おててを繋いで帰るかい?」

 ちらっと辺りを見回したあと、エイト君はポケットから手を出した。ふくれっ面は程なくして微笑みに変わった。

「ねえタケ、もう一回言って」
「何を?」
「143」
「ああ、はいはい。……愛してるよ」
「…………僕もだよ」

 マフラーに顔をうずめて、彼は手を握る力を強めた。向こうから人が歩いてくると、彼はぱっと手を離してしまった。だが、よほど寂しかったのだろう。家に帰るやいなや、くっつき虫と化した。料理の支度をしている間もべったり私の背にへばりついて、定期的に143を求めた。

 嘘つきで意地悪なエイト君だが、彼の一番欲しいものが、その言葉だというのはどうやら正しかったようだ。愛していると伝えるたびに、幸せそうな笑みを浮かべるので、私もつい、彼を甘やかしている。