◆ハジメマシテ

 男には賢者タイムなるものがある。しかし私のうなじに頬をすり寄せて、ねーねーちゅーちゅーと鳴く生き物にとっては、まったく無縁のものであるようだ。
 私の背中にくっついて鳴くこの生き物は、桃園詠人と呼ばれている。丸めたティッシュの転がるシーツの上に一糸まとわぬ姿で、私を背中から抱きしめて一向に離そうとせず、いつまでもしつこく口づけをねだる彼は、私の、いわゆる弟だった。

 ――――どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 私は彼との出会いを思い返した。




 かつての私は蝶だった。花から花へと飛び移り、甘い蜜をすすって生き永らえる、か弱い小さな虫だった。
 花に夢中になっているうちに友達とははぐれてしまったけれども、多くの美しい眷属たちに囲まれて、それなりに楽しくやっていた。だが自然界で単身、生き抜くのは難しい。

 ある春の晴れた日だった。今日はどの花にしようかと、ぶらついていると、蜘蛛の巣に引っかかってしまった。
 昨日まではなかったので油断していた。蜘蛛め、仕事が早い上に丁寧だ。だが私にも、糸を切るくらいの力はある。
 体にくっついている糸を引き切って、蜘蛛のランチとなる運命は免れたものの、今度は鳥の鋭いくちばしが私の頭上をかすめた。鳥の猛攻をかわしながら、私はほうほうのていで、開いた窓の中へ逃げ込んだ。

 そこが、彼らのいた病室だった。

 鳥の追ってこないのに安堵して室内を見回すと、一人の男児が真っ白なベッドで眠っていた。そしてもう一人が、そのベッドに寄り縋って、泣きじゃくっていた。

 少年たちの面立ちは似通っていた。一目で兄弟とわかった。私はそばへ寄り、横たえる少年の口の端にとまった。翅がかすかに揺れた。幸い息はあるようだ。だが顔面は蒼白で、唇をくすぐってみても、むずがる様子もない。どうやら意識がないらしい。

 横たえる少年のみならず、傍らに寄り添う少年の方も衰弱していた。どれほどの涙を流したのか、目元は痛々しいほど赤く腫れ、今なお涙の筋が頬を伝っている。彼もまた、失意のあまりに死んでしまうのではないかと思うほど憔悴していた。
 泣いていた少年が、ふと顔を上げた。目が合ったように感じた。涙に濡れた痛ましい顔で、彼は小さく唇を動かした。何か伝えたいようだったが、私にはその意味がわからなかった。だが、そっと差し伸べられた指先と、彼の顔つきからして、私を追い払おうとしているのではないらしい。

 私はしばしの間、少年たちに寄り添っていた。美しいと評判の青い翅をはためかせて、慰めようとしたけれど、相変わらず少年の面持ちは沈痛だった。時々彼の唇が動いて、かすかな空気のゆらぎをもたらした。だが、蝶であった私には、それが何を意味しているのか、解することはできなかった。
 でも、きっとこの少年は、兄弟が目を覚まさないから嘆いているのだろう。そして、そうであるならば、私の持っている力が全く役に立たないというわけでもない。
 幼子には耐え難い苦痛でも、私なら、きっと耐えられるはずだ。

 私はひとっとびして、横たえる少年の頭にとまった。そして見えざる触腕を伸ばし、少年の肉体に私を繋いだ。意外にも少年の抵抗はほとんどなかったので、私は簡単に体を拝借することができた。
 人間の体は久しぶりだった。肢と翅が足りないのではじめはちょっと戸惑ったが、それでも次第に感覚はつかめてきた。末端を包み込んでいるこのあたたかいのが、あの少年の手なのだろう。私はできる限りの力で握り返した。
 音が聞こえた。春の雨のような音だった。私はその音に導かれるようにして、重い瞼をこじあけた。その先は、光に満ちていた。

 白い天井が見えた。そして、あの少年も。
 ひどく体は重かった。まぶたを開いておくのも大変だったが、それでも、私は一生懸命に彼を見つめた。どうか泣きやんでくれと懸命に念じたけれど、彼はまた、泣き始めた。

「よかった……よかった…………ごめんなさい……」

 やわらかな声で、彼は何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
 どうして、謝るのだろう。ふり絞った体力が尽き、眠りに落ちてしまったあと、私は夢中でそればかり考えていた。



◆にせものおにいちゃん

 謎はしばらくして解けた。

 続々と、彼の家族が現れた。少年のように開口一番、謝罪が飛んでくるわけではないが、何やら腫物にさわるような態度だった。腑に落ちなかったが、少年の記憶が流れ込んでくるにつれて、だんだんと、その理由がわかってきた。
 どうやら、この体の主である武彦少年は、自殺を試みたようだった。
 その原因を作ったのが、あの泣き崩れていた上の弟、つまりエイト君であるらしい。彼が、武彦君の大切にしていたお人形を壊してしまったのだ。
 私はそれを夢の中で武彦君に見せてもらったが、非常に精巧な、美しい少女の人形だった。その人形に、彼は心底から惚れ込んでいたらしく、恋人同然に扱っていた。だが人ならぬものに入れ込む武彦少年を、弟はよく思っていなかったらしい。気味悪がって、人形を壊してしまったのだ。

「人形師さんだったら、きっと上手に直せるんだろうけど、もう亡くなってるって……。特別に譲ってもらったんだって、僕、知らなかったんだ。……ごめんなさい」

 ちょっと具合のよくなってきたころ、彼はそう言って、私にそのお人形を差し出した。
 私はそれを手に取って、まじまじと眺めた。痛々しくひび割れ、つぎはぎだらけ。美しい少女の姿はもはや見る影もない。しかし、つたない手で懸命に直したのだろう。ところどころ、接着剤らしきものが肌の亀裂からはみ出していた。

「直してくれたんだね。ありがとう」

 そう言うと、彼は驚いた様子だった。

「タケ、怒ってないの?」
「怒りやしないよ」
「ぼく、タケの大事なお人形、壊しちゃったのに?」
「どんなものでも、遅かれ早かれ壊れるさだめだよ。それより、お兄ちゃんとお喋りでもしよう。みんな、なんだか少しよそよそしくて…………ちょっぴり、寂しいんだ」

 私はお人形を脇に置いて、彼に向き直った。彼の話すのを待っていると、ビー玉のような瞳に、じわじわと涙がにじんできた。入院着のそでで、涙をぬぐったが、堤防の決壊には追いつかなかった。瞬く間に彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまった。

「ああ、だめだめ。そんなに泣いたら、干からびてしまうよ……」

 彼は私に抱きついて、泣き続けた。泣き疲れて、やがて眠ってしまうまで。



 体がよくなったら、借りていた体は武彦君に返そうと思っていた。しかし、ことはそれほど単純ではないらしい。

 夢の中で武彦君とちょっと話してみたけれど、恋人――少なくとも彼はそう信じていた――を失った彼の悲しみは、まったく癒えていないようだった。そして、それを殺したエイト君のことも、彼は許してはいなかった。

「私が死ぬか、詠人が死ぬかだ……」

 思いつめたような顔で武彦君が放ったその言葉には、非常な真剣みがあった。体を明け渡したら、彼はまた恐ろしいことをしでかすつもりだ、さもなくば、エイト君を殺してしまうかもしれない。

 死は嫌いだ。目の当たりにするのも、味わうのも。

 それにエイト君も、すっかり私に懐いてしまった。人形遊びばかりで一向構ってくれない兄のことが、憎たらしくも、やはり恋しかったのだろう。退院しても、私の行くところ行くところへ、ちょこちょこくっついてきた。武彦君が好きだったという探偵小説も全部読んだといって誇らしげにするのは、年相応でかわいげがあった。
 散歩中に毒草を見かけると「これは毒があるからタケはさわっちゃだめだ」とか、「車が来てる」などと言って騎士を気取るのも、なんとも微笑ましい。
 そうかと思えば、枕を抱えて私の布団に潜り込んできては、不安げな顔で言うのだ。

「ねえ、タケ。タケは、もう、入院したりしないよね?」
「しないよ。元気だからね」
「もう、僕のこと、置いていったりしない?」
「……うん。だいじょうぶだよ。ちゃんと、憑いてるよ」

 微笑んで、よしよしと頭をなでてやると、彼は安心したように眠りに落ちるのだった。

 もうちょっと大きくなって、私が反抗期を始めたころには、エイト君はあまり絡んではくれなくなった。だが大学に入って同居を始めると、また昔のように、くっついてくるようになった。

 一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり。甘えてくるのは相変わらずかわいいものだが、時々、彼の目つきが妙な気がした。裸でいる時は特にそうだった。風呂場でも、着替える時にも、舐めまわすような視線を感じ、私はどうも落ち着かなかった。妙なのは目つきばかりではなく、手つきもだった。添い寝をしていると、時々、いやらしく腰をまさぐってきたり、胸をさすってきたりする。それは兄弟のじゃれあいというよりも、むしろ愛撫のようだった。

 でも、顔を向けると、彼は何事もなかったかのように、にっこり微笑むのだ。

 だから長い間、私の気のせいだと思っていた。いかに中身が違えども、表向きは血を分けた兄である私に恋をするなんて、ありえないと思っていた。あるいは私は、彼と家族であり続けるために、そうした彼の態度に見て見ぬふりをしようとしていたのかもしれなかった。


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