詠人は部屋の扉を開けた。

 兄は制服のまま、絨毯の上に転がって、すやすやと寝息を立てていた。お気に入りの羊の枕にしがみついて、よく眠っている。

「晩ご飯、そろそろできるってさ」

 詠人は兄に声をかけたが、返事はない。頬をちょいとつついてもみる。起きる気配は、まったくない。

「食べないつもりかい? ……まあ、そうだろうね。あれだけ食べてちゃ、明日の朝だっていらないだろうね」

 無駄とわかっていながらも、彼はなおも喋りかける。

「だから僕は言ったんだぞ。夕飯近いんだから六分目くらいでやめておけって。それを聞かずにどんどん食べるから、お腹いっぱいで苦しくなって、こんな中途半端な時間に横になる羽目になるんだ。どうせ夜中に起きたくなるぞ。それで僕に変な気遣って、明かりもつけずに歩いて転んで怪我するんだ。この間みたいに。読書灯くらい点けたらいいのに、ばかだよなあ、君ってやつは」

 むにーと頬を引っ張っても、反応はない。完全に熟睡モードに入っている。詠人はぼそっとつぶやいた。

「起きないと、キスしちゃうぞ」

 詠人は、つんと唇をつついた。返事のないのをいいことに、つつ、となぞったりもする。それでも目を覚まさない。詠人はにやっと笑った。

「僕はちゃんと忠告したからな。起きない君が、悪いんだ」

 詠人は眠る彼に覆いかぶさり、そっと顔を近づけた。十五センチ……十センチ……五センチ……。そしてもう、吐息の絡む距離。接触まで、間もなく。そういう瞬間だった。ドアが勢いよく開いた。

「おい二人とも、飯できたって――――」

 詠人の動きは俊敏だった。だが末の弟は、どうやら見てしまったらしい。パックジュースのストローをくわえたまま、不自然に静止していた。

 しばらく二人、何も言わずに見合っていた。二人の時が凍りついてから一分が過ぎた。やがて、ジュルルとジュースをすする音がした。

「…………末広。あのな」
「飯できた。エビフライ」
「あ……ああ。すぐ行くよ」

 詠人は改めて兄を起こそうと試みた。弟をごまかすための口実が、何か欲しかったので。だがやはり兄は、揺すっても、声をかけても、一向に目を覚まそうとしないのだった。

「武彦、寝てんの?」
「そうなんだよ。さっきからずっと起こそうとしてるんだけどな。まったく、寝汚くて困るよ」

 末広もしゃがんで、一番上の兄を見下ろした。相変わらず、のんきな寝息を立てている。

「武彦ってさあ。なんか、違うよな」
「……なにが?」

 詠人は兄の肩を揺さぶりながら、弟の出方をうかがうように尋ねた。

「詠人は、俺と同じじゃん。グー出すのも、パー出すのも。母さんにおかわり出すのも、銭湯で石鹸取るのも、うざったいぐらい一緒じゃん。……タケもそうだったじゃん。入院する前まで」
「…………そうだね」
「でもさ、武彦は、あんまり一緒になんねえじゃん。じゃんけんも。晩飯のリクエストも。好きな子も」
「べつに、好きな子は一緒じゃ……」
「詠人もあの人形、好きだったじゃん」

 詠人はぎょっとした。目を丸くする詠人を、末広は静かに見返した。詠人は動揺を隠そうと、顔を伏せた。

「僕は……好きだなんて、そんなの、一言も……」
「俺も、好きだった」

 そう言って末広は、つんと武彦の頬をつついた。

「俺はあの人形、タケほど大事にはできないなと思った。だから手は出さなかった。……でも今度のは、人形じゃない」

 頬をつんつんされて兄は、んーとうなって身じろぎをした。今度こそ起きるかと思われたが、また、整った寝息を立て始める。

「いろいろめんどくせーのはわかってる。それでも俺は、けっこー大事にできると思う。……でも、俺は詠人より、心広いからな。詠人が俺より大事にできるって言うなら、譲ってやってもいい」

 ほんのりと色づいた頬を、末広はつんつんつつき倒した。そして指先が、無防備な唇へ伸びようとした時、詠人が手を出した。

「さわりすぎ」

 彼は末広の手をつまんで、ベッドの外に放りだした。もの言いたげな目で見つめる末広に、詠人はにっこり微笑んだ。

「売約済みだ」
「……そーか。振られろ」

 ズル。中身をすすろうとしたが、もう空っぽだ。彼は空箱を詠人の頭に投げつけた。
 部屋を出ていく間際、ふと末広は振り返った。

「詠人。今日お前、エビフライ無しな」
「持ってけ泥棒。安いもんだ。……ああ、そうそう、末広」
「あんだよ」
「人の部屋に入る時はノックくらいしたまえ。エチケットだ」
「お前のアイスも食っとくわ」

 そう言い捨てて末広は、部屋のドアを閉めた。がさつな彼にしては珍しく、音の立たないほど静かに。



 黒い外套を翼のようにひるがえして、少年は踊るように宙を歩く。サンダルの下に透明の足場が生まれ、跳んだ拍子に、ホロリと崩れ落ちてゆく。進む足取りに迷いはなく、軽やかなステップで上へ、下へ、右へ、左へ。
 やがて少年は、シャボン玉の飛び交う石畳の小道へと降り立った。
 彼の目当ては、小ぢんまりとしたドール・ショップ。鍵のかかっていないドアを開け、店内に入った。

 少年は勝手知ったるとばかりに、店の奥へずんずん進んでいった。ガラスケースの中の、古今東西の美男美女に見つめられる中、奥へ奥へ。目隠しの赤いカーテンを開けると、丸テーブルの上に箱が一つ。その天面に設えられた丸いレンズを、少年は覗き込んだ。
 じっと目を凝らす。鮮やかなパライバブルーの瞳に、和装の男の姿が映る。箱の中で、男がふと顔を上げた。目が合った。男はかすかに微笑んだ。

 ――――暗転。

 畳の上の乱れ髪。その主が目を開くと、行燈の灯火がほの明るく和室を照らしていた。少年は、身を起こして、おやと首をかしげる。いつの間にやら外套がない。外套どころか元着ていたキトンも、サンダルもない。代わりに赤い色打掛を着せられている。あたりを見回すと、日本人形が行李に腰かけて、クスクスと笑っていた。――――ああ、また、やられたなと、少年は苦笑する。

 黒い塗笠をかぶった娘人形が、少年の目の前をしゃなりしゃなりと通り過ぎていった。その歩む先には、棒縞の着物を着た男が座っている。娘人形に裾を引かれて、男はゆっくり振り返った。男は何を言うでもなく、少年をじっと見つめて、また背を向けた。
 少年は長い着物の裾をずるずる引きずって、男の方に寄っていった。抱きついて肩からひょっこり顔を出し、男の手元を見る。人形の美しい黒髪に、丁寧に櫛を通している。

「今日はね、虹谷君と、いっぱいお話したんだよ」

 男の反応はない。和人形に夢中のようだ。人形の髪をとき終えると、いとおしげに目を細めて、小さな唇に口づけた。そして彼は、また別の人形の髪をとき始める。
 少年は、お構いなしに喋り続けた。

「彼ね、ブドウが好きなんだって。私もブドウ好きだよって言ったら、秋はおいしい食べ物いろいろあっていいよね、って。ね、やっぱり、秋は読書の秋じゃなくて、食べ物の秋だよね」
「………………」
「それでね。ブドウ、いろいろあるけどどれが一番好き? って聞いたらね、ブドウの女王様が好きだって。燻銀座のパーラーのマスカットは、毎年はずれがなくて、おいしいんだよって。食べてみたいなあ、って言ったら、じゃあ帰りに連れてってあげるって。それで、放課後に行くことになったんだ。そしたらね、エイト君がね……」

 ボキッと無残な音。畳の上を、テンテンと生首が転がった。人形の暗い目が、呪うように少年を見る。彼はしゅんとなって、男の背中から離れた。

「…………ごめんね」

 男は、別の人形を愛で始めた。
 少年はすっかりしょぼくれてしまった。男の背中に向かってがんばって喋ろうとするものの、勢いはだんだんしおれていく。そのうち話題が尽きたのか、押し黙ってしまった。

「…………また、来るね」

 少年は立ち上がった。畳をとぼとぼ歩いて、押入れの扉を開けた。
 上段によじ登って、壁際のはしごに手をかける。それを上って、天井の扉を押す。ぐっ。ぐぐっ、と…………。

「あ、あれ?」

 扉は押しても引いても開かない。
 ――こういうことは、時たまある。人の夢の中に入って、閉じ込められることは、そう珍しいことではない。少年はため息をつき、腰のベルトに下げた鍵束を――取ろうとして、思い出した。身ぐるみをはがれていたのだった。
 マスターキーも行李の中に違いない。行李に陣取る日本人形とちょっとした格闘をしたあと、少年は行李を開けた。きちんと畳まれた彼の服の上に、鍵束が載っている。それを手にすると、脇から白い指が伸びてきて、ひょいと鍵束を取り上げた。

「武彦くん」
「………………」

 塗笠をかぶった娘人形が、彼から鍵束を受け取った。人形は灯火の届かない深い闇の中に、鍵とともにそそくさと消えていった。少年が後を追いかけようとすると、男が彼を抱き寄せた。

「武彦くん?」
「まだ…………話すこと、あるでしょう」
「…………うん」

 少年を畳に座らせると、男もその後ろに座った。少年の長い黒髪に櫛を入れながら、彼は続きをうながした。

「エ……。んん。あのね……みんなで、喫茶店に行ってね、プリンアラモードを食べたんだ。……すごく、おいしかった」
「…………」
「生クリームの上に、大粒のさくらんぼがのってた。それに桃と、とってもきれいなマスカットも。いちごもあったかな。芸術品みたいにきれいにカットしてあって、食べるのがもったいないくらいだったよ。でね、食べてみたら、どれも瑞々しくて、甘くってね。幸せだったなあ、あれは……」

 美味を思い出してか、少年はうっとりとため息をついた。和装の男が、ふ、と頬をゆるませた。
 だが上機嫌も長くは続かず。少年はまた一つため息をついて、うなだれた。

「でもね、期間限定なんだって。もっといっぱい食べたかったけど、果物の旬が過ぎてしまうから、今日でおしまいなんだって。だから、今度食べられるのは、来年だって……」
「食べたらいい」
「そうしたいけど……でも、一年だよ、武彦くん。青春の一年というのは、貴重だよ。君の中学時代だって、結局みんな、私が平らげてしまったし。これ以上、君の体を借りているわけにも……」
「構わない」

 男は櫛を置いた。美しくとき上げた黒髪を器用な手つきで編み上げると、懐から小さなケースを取り出した。「だけど、やっぱり」と振り返った少年のその唇に、小指でチョンと、紅をひとさし。

「返さなくていい。使えばいい。…………永遠に、私とともにいればいい」

 そして男は少年の頬をなでると、いとおしげに目を細めて、唇を…………。

【END】