◆学祭にて

 彼とはじめて、ちゃんとしたキスをしたのは、大学祭のころだった。

 その年、われらが奇術サークルではドーナツの屋台を出していた。
 客寄せのために交代でパフォーマンスをしていたら思いのほか人が集まり、大盛況となった。注文を一通りさばいて、ようやく休憩の順番が回ってきたのは、ランチタイムを大幅に過ぎてからのことだった。

「一人飯寂しかったら、何か買って来てここで食ってもいいぞ」と声をかけてきたのは、私と入れ替わりに戻って来た佐藤さんだった。一つ上の先輩で、暇を持て余していた私にマジックバーでのアルバイトを紹介してくれた人でもある。一応、先約があるというと、彼はにやにやしながら私の肩を抱いた。

「おい、彼女か? 水臭いぞ」
「違いますよ。弟です」

 私はそれとなく佐藤さんの腕をほどきながら答えた。

「同居してんだっけ?」
「ええ」

 進学を機に家を出て、一緒のマンションに住んでいる。エイト君との二人暮らしにも、もう随分と慣れた。おかえりのハグをすることにも、彼と一緒のベッドで眠ることにも。

「甘えん坊で、実にかわいい子ですよ。近ごろは、布団の中で足を絡ませてくるのがお気に入りのようで……」
「ふーん。…………ん? ちょっと待て? 布団の中で?」
「ええ。布団の中で」
「弟の話だよな?」
「はい」
「一緒に寝てんのか?」
「はい。毎日」

 佐藤さんはそれからしばし黙り込んだが、また口を開いた。

「お前それ、ブラコンだぞ」
「……ブラコン? 私が?」
「二十歳だろ? その年になって普通、兄弟で一緒に寝たりしねえぞ」

 ブラコンはエイト君だけだと思っていた。でも考えてみれば確かに、彼に付き合ってやっている私も、結局は同じことをしているのだから、そういうことに、なってしまうのだろうか。思案に沈みかけたとき、先輩がポンと私の肩を叩いた。

「ま、まあ……仲悪いよりはいいわな。うん。仲良きことは美しきかな。そうだ、桃園。せっかくの学祭なんだ。家族もいいけど、そろそろ彼女の一人でも作ったらどうだ?」
「彼女……」
「そうだ。ほら、見てみろ。またとない出会いのチャンスだぞ」

 確かにキャンパス内は、朝から人でごった返している。お近づきになりたいような美しい人も、たびたび見かけた。

 私だって、目くるめく美人としゃれこみたい気持ちはある。でも放っておくと後が面倒なのはエイト君だ。約束をすっぽかしたら、あとでネチネチ説教してくるに違いない。

 なにゆえに恋のチャンスを自ら放棄する男に付き合って、私もチャンスを逃さなければならないのやら。しかし、約束してしまったものは仕方がない。先輩の言うのももっともだが、家族サービスと思って、今日だけは彼に付き合うしかない。

 ミス研では、確か執事喫茶なるものをやるとか言っていた。とはいえ、すでにお昼時は過ぎている。休憩は終わってしまっているかもしれない。一応、連絡を……と思ったが、どうも携帯を家に忘れてきてしまったようだった。

 すっぽかしてやろうかとも思ったが、あとがうるさそうなので、申し訳程度に顔だけは出してみることに決めた。それで、もし彼の都合がつかなかったらラッキーだ。心置きなく美の探求に繰り出せる。だが、廊下を歩いていると、残念なことに、当の彼とばったり出くわしてしまった。

 今朝、家で見た時とは似ても似つかない姿だったので、私は声をかけられるまでそれと気がつかなかった。黄色い伊達めがねをせずにいたし、重力に反旗をひるがえすかのような寝癖頭は完全に鎮圧されていたし、何より燕尾服姿があまりにもさまになっていた。冷めたコーヒーでサンドイッチを流し込んで、慌ただしく家を飛び出した今朝のあの状態から、よくぞここまで持ち直したものだ。彼の周りをぐるっと回って全身を眺めてみても、特に粗らしい粗はなく、身なりに関しては立派な執事であるように見えた。ただ、彼が背負ったポリ袋の中の白布に、血痕らしきものが見えるのがなんだか不穏だった。

「……証拠隠滅かい?」
「ああ。さっきひとり殺してきた」

 にやにやしながらエイト君は言った。こういう悪質な冗談を愛好するのが彼の良くないところだ。抗議の意を込めて反応を返さずにいると、彼は肩をすくめた。

「テーブルクロス引きやって遊んでたらさ、トマトジュースぶちまけちゃったんだよ。敷島さんがグラス足せなんて言いだしたりしなけりゃ、絶対イケるはずだったんだ」
「執事はテーブルクロスで遊んだりしないと思うけどねえ」
「店では失敗したことないんだけどなあ」

 そう言って彼は、ため息をついた。
 以前文化祭の劇で貴公子に扮していた時も思ったが、きちんとしていれば彼も少しはハンサムだ。前髪を後ろになでつけるようにして固めた髪は、ほんの少しだけ崩れているが、それはそれで色気があって悪くはない。

「君の方は一段落ってところかい」
「うん、まあね」
「ドーナツだっけ」
「うん」
「この間僕が味見したやつ?」
「いいや。ほかの子が考えたやつ」

 奇術サークルの面々に振る舞った我が自信作は、ホワイトチョコの上にスプレーをふんだんに使って色とりどりに飾りつけ、最高に甘くした一品だった。絶対に受けると思っていた。なのに品評会では、圧倒的に不評だった。そんな風なことを、ちょっぴり恨み言もまじえながら伝えると、エイト君は笑った。

「そりゃそうさ。あんなの喜んで食べるのは昆虫くらいだよ」
「でも、お菓子嫌いのエイト君が全部食べられるなら悪くないんだろうと思って」
「僕はちゃんと『甘すぎる』と言ったし、『失敗作』だとも言った」
「だけど、砂糖菓子としては上々だって」
「だって砂糖の塊だったもんな」

 おもむろに歩き出した彼の背中を、私は追いかけた。開け放された校舎のドアを通り抜けると、目もくらむほどの陽光が我々を照らした。

「僕のリサーチしたところによれば、落研のワッフルが旨いらしい。あと、テニサー。部長がベジタリアンだとかで、肉抜きのオムそばを出してるらしいぜ。フライドポテトに大学芋、チョコバナナ……クレープも人気だってさ。何にする?」

 模擬店の並ぶ広場を、私たちは歩いていった。どれもこれもおいしそうで目移りしてしまう。だが、辺りを見回すたびに、朱染めの布がちらちらと視界の端に映るので、私はどうも落ち着かなかった。

「ねえ、君。先にそれ、洗った方がいいんじゃないかい?」
「ああ、うん……」

 彼はクロスに目を向けて、ため息をついた。

「僕だって、放置はできないとわかっちゃいるよ。でも、どこで洗おうかと思ってさ。それとなく探してはいるんだけど……」
「向こうの方に水道がなかったかな」

 私は彼をそこまで連れて行った。午前中にちょっと洗い物をしたので場所は覚えている。ただ朝と違って、ほんのちょっと混んでいた。

「……じゃあ、洗ってくるよ。先食べてていいけど、その辺にいてくれよ」

 そう言うと彼はダラダラと水道の方へ歩いて行って、順番待ちの列の最後尾に並んだ。



◆リップクリーム

 広場は相変わらずにぎわっていた。仲睦まじく腕を組んで歩く男女の二人連れもちらほら見受けられる。
 エイト君と約束しなければ、私も今頃は、きれいな人といちゃいちゃできたのかもしれないのに。そう思うとため息がこぼれた。

 いや、あきらめるのはまだ早い。学園祭は始まったばかりだ。

 出店の通りで美人を探し歩いていると、ふと甘い香りがして、私は思わず足を止めた。おいしそうなクレープの焼けるにおいだ。クリームたっぷりで、いかにも甘そうで、眺めていると、ぐうと腹の虫が鳴いた。

「クレープにするの?」

 エイト君の声がした。ちょうど二、三人の手に、クレープの三角袋が渡るのを見たくらいの時だった。順番待ちの列の長さのわりに、随分と早く戻ってきたので、私は驚いた。

「もう済んだのかい?」
「ああ。あとは干すだけ。……で、クレープ?」
「うん」
「昼飯だって言うのに」

 ぼやきながらも彼は二つクレープを買って、一つを私にくれた。

「何味だい?」
「食べてみてのお楽しみ」

 彼が濡れたクロスを木の枝に干している間に、私はクレープの中をちょっと覗いてみた。白いクリームがたっぷり。軽く握って中身を押し出すと、白い海に紫色のソースがじんわりとにじんできた。こぼれ落ちそうなところにかぶりついてみると、ブルーベリーの味がした。
 彼が一仕事終えて、隣に落ち着くころには、私のクレープは半分ほど減っていた。

「兄弟で一緒に寝るのって、やっぱり変なのかな」
「……ひょっとして、人に話した?」
「うん。先輩にね。ブラコンと言われてしまったよ」
「ふーん。……でも、ベッドは今のやつの方がいいだろ?」

 確かに今使っている大きなベッドはふかふかで、雲の上で休んでいるように心地がいい。ひとたびあの快適さを味わってしまったあとで、以前のこぢんまりとした寝床に戻れるかというと、難しいところだ。

「日々の英気を養うために良質な睡眠は不可欠だよ。第一、それなりのベッドで別々に寝るより、ベッドシェアでも、上等なので眠る方が経済的じゃないか」

 と、エイト君は涼しい顔で言った。

「だけど、君も私も、ずっと一緒に暮らすわけじゃなし」
「そうかもしれない。でもそれは、まだまだ当分先の話だろ?」

 そう言ってクレープを一口かじると、彼は甘さにぶちぶち文句を言いだした。だが、甘党の独裁だの、カロリーの爆弾だの何だのと言いながらも、口直しに何か食べたり飲んだりしようとするわけでもない。第一そのカロリー爆弾だって自分で選んで買ったのだから自業自得だ。ともあれ、エイト君が変なのはいつものことだ。私は気にせず食べ進めた。甘い香りとうららかな陽気に誘われてか、ひらひらと、蝶が一羽、そばに来た。植え込みの花にとまって、ちょうど彼らもおやつの時間といった風だった。
 それにしても、いい天気だった。ぽかぽかと暖かく、時間が許すならこのままベンチで横になって一眠りしたいくらいだった。

「こんな日くらい、君もデートしたらいいのに」

 エイト君は文句を言う口を閉じて、私の方に目を向けた。

「学内外からたくさん人が来ているのだよ。せっかくの出会いのチャンスなのに、いつもみたいに兄弟でうだうだして潰すなんて、もったいないじゃないか」
「なんだよ。タケは僕じゃ不服なのか」
「不服だねえ。君の隣にレイちゃんでもいれば別だけど」
「…………」

 風が頬をくすぐった。彼が黙ってしまったので、私は話題を探した。

「そういえばエイト君。以前、好きな子がいるって言っていたけど、その後どうなんだい」
「ニブすぎて困ってる」
「アプローチが足りないんじゃないかい?」

 木の上で白布がバサバサとはためいた。風上から流れてくる香りは、たこ焼きだろうか。

「君のことだから、どうせ回りくどいことばかりしてるんだろう。だめだめ。それじゃ落とせるものも落とせないよ。恋というのはね、頭でするものではないのだよ。愛の言葉を並べ立てるより、時には心のこもった優しい抱擁やベーゼの方に心動かされたりするものさ」
「ふーん……」

 彼は興味深げに相槌を打つと、ジロジロとこちらを見つめてきた。人の顔ばかり見ているが、クレープはそっちのけ。彼の手の中のクレープは一口か二口かじられた程度で止まっていた。

「食べないのかい?」
「いる? いいよ」

 お言葉に甘えて、私はクレープに口をつけた。バナナとたっぷりのホイップクリーム。こってりと甘いチョコレートソース。ブルーベリーも悪くはないが、こちらの方が私の口には合うようだった。

「おいしい?」
「うん」

 夢中になってかぶりついていると、ふと彼が笑った。首をかしげると、エイト君はちょんちょんと自分の口の端をつついた。

「ついてるよ」

 私は口元をぬぐった。

「とれたかい?」
「とれてないよ」

 私はもう一度、今度は先ほどよりも丹念に口周りをこすった。

「どう?」
「まだとれてないね」
「ええ? でも、もうついている感じはしないんだけど」
「でも、ついてるんだなあ、これが。……とってあげよう」

 エイト君の手がゆっくりと顔に伸びてきた。親指が唇の端に触れた。そのとたん、何かがべっとりと、唇にこびりついた。それは舐めると甘い味がした。

「…………エイト君」

 エイト君はからからと笑った。彼はクリームを塗りつけた指をぺろっと舐めた。

「まったく……」

 べたべたにされた唇を、そでで拭った時だった。一陣の突風が吹きつけて、白い何かがふわっと宙に踊るのが見えた。あれは確か、先ほど彼が干していたテーブルクロスではなかったか。風に流されていくのをぼんやり眺めていると、エイト君が慌てて、逃げてゆく白布を追いかけた。

「危ない危ない」

 クロスを手に戻ってくると、彼はふうと息を吐いた。
 それから白い布をじっと見つめて黙り込んでいたかと思うと、不意にこんなことを言い出した。

「マジシャンってさあ。何かしらにこういう大きな布をかぶせて、ワンツースリーで消してみせたりするよね」
「うん、そうだね」

 彼は布を大きく広げた。神妙な顔で表と裏とを交互に見せて「種も仕掛けもございません」と言い出した。彼の燕尾服のような格好と相まって、私は思わず笑ってしまった。

「それで、何を消すっていうんだい?」
「うん。まず、これをだね、横でのんきにクレープをほおばっている助手にかける」

 エイト君は私に覆いをかぶせた。片腕を屋根替わりにして視界を開くと、どうしたわけか、エイト君も覆いの内側に入っていた。ふわっとレモンのような香りがした。さてはこの男、流し場に置いてあった食器用の洗剤を使ったな。ともあれせっかく洗ったクロスがまたクリームで汚れてしまわないように、私はクレープを膝に置いた。

「すると、どうなるのかな」
「そうするとだね、不思議なことに、助手の唇にべったりとついているクリームが、魔法のように消え失せるんだよ」

 そう言うとエイト君は私の肩に手を乗せて、いやにニコニコした顔を近づけてきた。

「クリームだったら、さっき取ったよ」
「まだついてるよ。おいしそうなのが、いっぱい」
「ついてないよ」
「ついてるよ。ほら、ここに」

 そう言って彼はまた、私の唇にクリームを塗りつけた。
 呆れて文句を言ってやろうとした矢先だった。開きかけた唇に、ふにふにしたものがくっついてきた。何秒かの間、私の口は封じられていた。彼の唇によって包み込まれるようにして、私の唇は塞がれていた。これはキスだと私がはっきりと認識した時には、彼はもう身を離していた。

「このように、助手の唇から、クリームがきれいさっぱり消え失せるという寸法だ」

 自分の唇についたクリームを、舌先でぺろっと舐めとると、彼は笑いながら覆いを取り払った。そして「甘いのも、たまには乙なもんだね」とのたまった。
 ーー何が手品だ。私は口直しに残りのクレープに噛みついた。

「心は動かされたかい?」

 にやにや顔でこちらを覗き込んでくる男から、私は体ごとそっぽを向いた。返事をせずに、もくもくとクレープを食べ続けていると、彼は指先でちょんちょんと肩をつついてきた。

「なあ、タケ。タケったら。返事くらい、したらどうなんだい」

 私は目を伏せて、沈黙を守った。そのうちクレープも食べつくしてしまった。私は包み紙を丸めて、エイト君の胸に押しつけた。彼は怒らなかった。

 エイト君も、それきりだんまりだった。私はちらっとエイト君の方を盗み見た。顔を向けると、彼は安堵した様子で、ほっと息を吐いた。

「ごめん」

 微笑んで、そう言うと、彼はすっくと立ち上がった。

「僕、そろそろ戻るね。ああ、それと、今日、帰り遅くなると思う。明日の打ち合わせとか、しないとだから」
「あ、うん……」
「ごはんもいらないからさ。先に寝ててよ。……じゃあね」

 彼は乾いたテーブルクロスを手に、歩き去った。



◆キスキスキ

「人は、何のためにキスをするのでしょうか」
「どうした? 急に哲学的だな」

 佐藤先輩はドーナツに顔を描く手を止めた。

「ははん。さては、さっきの休憩で上玉でも見つけてきたか」
「残念ながら、そういうわけではないのですよ」
「だったらどうした?」

 まさか弟に唇を奪われたなんて言えない。苦笑いしていると佐藤先輩は続けた。

「キスする理由なんかな、一つしかねえよ。好きだからだ。嫌いなやつにキスしたいと思うか? 憎たらしいやつにわざわざ体くっつけたいと思うか? 犬でも猫でも家族でも恋人でも、好きだからキスするんだ。決まってるだろ」

 そう言うと先輩は、二の腕の見事な筋肉を繊細に使って、ドーナツに笑顔を描き始めた。よくよく見ると猫が混じっているのは彼の遊び心だろうか。

「でもな、桃園。キスしたからっていい気になるなよ。キスはゴールじゃなくてスタート地点なんだからな」
「はあ……」
「恋はキスに始まり、キスに終わるんだ。ファーストキスまではいわば前哨戦だ。唇と唇のご挨拶をきっかけに、やがて秘密の唇につくね棒を……」

 先輩がふと手を止めた。

「どうしたのですか?」
「……これ、ダッチワイフの口に見えねえ?」

 ストロベリーチョコレートでコーティングしたドーナツを指さして、先輩が言った。はじめは何のことやらわからなかったが、そのピンクの輪の上に目と鼻を描かれると、だんだん、そう見えてきた。先輩がさらに赤いアイシングを上塗りすると、その色合いはますます生々しくなった。

「これ売れるんじゃね?」
「……そうでしょうか?」
「いや売れるって。ちまちま変な顔描くより受けるって。今からでも改名しようぜ。『ダッチ姐さんのわがままリップサービス』とかに……」
「へー。先輩方はこの口径でイケるんすか」

 外はねのすてきな黒髪の塩川女史が、いつの間にか作業台を覗き込んでいた。

「随分とお粗末なモノをお持ちで」
「おい、失礼なこと言うな。俺がこんなちっぽけな器におさまる男だと思うなよ」
「じゃあどういう器だったら収まるんすか」
「それは……えーと…………これだ!」

 先輩は作業台の上を見回すと、計量スプーンにくっついていた輪っかを外して、塩川女史に突きつけた。塩川女史はじろじろと、それを見たあと、鼻で笑った。

「アホなことばっか喋ってないで、早く作ってくださいよ。短小先輩」

 塩川女史が屋台から離れていくと、先輩がぼやいた。

「ああいう女だけはやめとけよ、桃園。ああいう女の恋は、キックに始まり、キックに終わるんだ……うっ!」

 ほれぼれするほど見事なハイキックを先輩のお尻に決めて、彼女は今度こそ練習に戻った。

 佐藤先輩が喋らなくなってしまったので、私も絞り袋を手に取って、まじめに働くことにした。

 とろりと溶けて、柔らかくなったチョコレート。そういえば、これくらいの感触だっただろうか。

 ーーどうして、エイト君は、キスなんてしたのだろう。
 あの包み込むような、甘い口づけ。あんなのは、兄弟のキスじゃない。あれはまるで恋人同士でいちゃつくかのようだった。思えば今日のだって、デートのような……。

 意識すると、なんだか恥ずかしくなってきた。

 エイト君って、もしかして、私のことが好きなのだろうか。

 いやいや、まさか。私は一笑し、頭の中のばかげた考えを振り払った。 

 彼は兄弟だ。大事な、かわいい、弟だ。――――愛すべき宿主の。

 でも、ちょっと試しに、彼との恋路を想像してみた。
 賢くて、やさしくて、ちょっぴり意地悪な彼とのロマンス。少しは、魅力的に思えた。

 だがその道は、暗く険しい獣道だ。
 エイト君とは男同士という垣根を越えても兄弟だし、兄弟という垣根を超えたところで、私は人間ですらないのだ。

 目も耳も鼻も口も手のひらも借り物。真に私のものであるのは心だけ。だが人間を征服し、その肉体を略奪する化け物の心など与えたところで、誰が喜ぶというのだろう。

 言葉通り、深夜を回っても彼は帰ってこなかった。
 どこへ行ったか、誰と何をしていたか、私には根ほり葉ほり聞くくせに、エイト君は何も言わない。勝手な男だ。都合のいい秘密主義だ。――もっとも、秘密主義なのは私も同じだ。

 エイト君に言えないことがたくさんある。でもその中でうまくやってきていると思っていた。

 二人でも広いベッドを、私はひとりで持て余した。

 彼とのキスが嫌だったかどうか、よくわからない。
 ただ、エイト君のいない夜が、なんだか面白くないことだけは確かだった。


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