「限りなくクロに近いブルー(Ⅲ-1)」

◆1

「それにしても接見会へ出るなんて、君も無謀なことをしたものだね」

 ルイスの胸ポケットから黒薔薇を抜き取りながら、ヨルシェが言った。

「積極的に接見会へ参加して勤めを果たす模範的なオメガが、齢二十五を超えて生きていたら幸運。三十を超えたら奇跡だ。わざわざ寿命を縮めるような真似をするなんて、君はどうかしているよ」

 ヨルシェは黒薔薇を掌中でもてあそんだあと、サイドテーブルに無造作に放った。

「しかも、よりにもよって司令部の輩と火遊びしようとは。まったく、いい度胸をしている」

 ヨルシェの声にはとげとげしさがにじんでいた。彼は一つため息をつき、ルイスの頬に手のひらを添えた。少し骨ばってはいるけれども、温かいその手に触れられていると、ルイスの気分は不思議と落ち着いた。いけないと思いながらも、だんだんヨルシェの方に自分の身が傾いてゆくのを、ルイスは自力で止めることができなかった。

「ほら、ごらん。君の体は、誰が主人かよくわかっているというのに、君ときたら」
「………はなれろよ」

 頬がすっかりヨルシェの手のひらに陥落してしまったので、ルイスは口先だけでも抵抗を試みた。ヨルシェは呆れた様子だったが、一応ルイスの意思を尊重するつもりはあるらしく、素直に手を離した。

 頬から温もりが去ると、ルイスの胸はチクリと痛んだ。失った熱を求めて、指先が勝手にヨルシェの青い服を目指した。ラボコートのすそに触れる間際、「おや」とつぶやいた彼の声で、ルイスは我に返ることができた。
 ルイスは慌てて手をひっこめた。ぎゅっとこぶしを握って、しっかりと自分の胸に引き寄せた。もう、まかり間違っても、にやつく男の体に触れたりしないように。

「そう警戒しなくとも、例の手続きさえしてくれれば、悪いようにはしないよ」
「手続き?」

 ヨルシェは電子端末をさっと操作して、件の「婚姻関係届出画面」を開いた。

「アナタなんかと結婚するくらいなら、死んだ方がマシだ」
「安易に死ぬなんて言うものじゃないよ。それに、こんなものはね、形だけのことだよ。君は私を愛していなくても構わない。いやになったら、離婚届を出せばいい。第一、考えてみたまえ。こんな書面一つを総務に提出するだけで、君はあらゆる特権を受けられるんだ。アルファの中でも飛びぬけて有能なこの私の庇護を受けることができるし、接見会なんぞにわざわざ出席して倒れるようなこともなくなる。事務的な手続き一つで、君も私も得をする。実に合理的な取引だ」

 自分を睨む視線に熱が含まれていることに気づき、ヨルシェは口角を上げた。

「物欲しそうな顔をしているね」

 ルイスはふいとそっぽを向いた。ヨルシェはにやにやしながら、ルイスの顔を覗き込んだ。

「まあ、私だって鬼じゃない。君がこいつを承認してくれたら、お返しに、ハグくらいはしてあげよう」
「誰が」

 ルイスは両手をますます強く体に押し付けた。ヨルシェの顔を見なくても済むよう、枕をじっと見つめた。口を開くと何か、よくないことを口走りそうだったので、唇だってかたく閉ざした。それでも意識は目の前にある気配に、どうしても惹きつけられてしまう。――認めたくはないが、どうやらルイスの体の方は、ヨルシェのことがお気に入りのようだった。
 病室を去る間際、ヨルシェは一度振り返った。ベッドの上で肩を震わせる少年の姿を見ると、ため息をついて、戻って来た。

「……今回だけだよ」

 ヨルシェはルイスに覆いかぶさった。ヨルシェの腕に包まれていると、どうしようもなくホッとした。自分を抱きしめるあたたかな熱が、不安も寂しさも悲しみも溶かしてくれるかのようだった。

「こんなこと、したって…………ボクは、絶対、アナタなんか、好きになったりしないから」
「だから、何度も言っているけれどね。君は、私のことを愛さなくて構わないんだ。然るべき手続きさえ終えたら、あとは君の望むようにしよう。約束したっていい。触れられたくないというのなら、指一本触れたりしない。顔も見たくないというのなら、私は二度と君に会いに行ったりしない。もちろん連絡もしない。君と私とはつがい関係ではあるけれども、それは書類上の、形式的な関係で構わない。むしろその方が、私にとっては都合がいい」
「……悪魔」
「ほめ言葉と受け取っておくよ」

 それからしばらく、ヨルシェは、ルイスの背中をやさしく撫でていた。そうされているうちにルイスの涙はいつの間にか引っ込み、かたく握った拳も解けて、すがるようにヨルシェの服を掴んでいた。

 顔を埋めたラボコートからは、ケミカルな薬品の匂いがした。



◆2

 ルイスの精神状態がすっかり落ち着いて、憎まれ口を叩く余裕が出てくると、ヨルシェは病室を出て行った。

 ヨルシェの抱擁で元気になったと思うと、ルイスはなんだか悔しかった。ともあれルイスは元気を取り戻した。すると今度は、暇を持て余した。

 A級危険物(オメガ)を収容すべく、病室の出口はかたく閉ざされている。何度試してもルイスのカードキーでは開かない。ほとんど軟禁状態だった。

「……春宵館の方が広かったなあ」

 春宵館のベッドは、今まさに寝転んでいるベッドより上等だったし、シャワールームだってここよりずっと広かった。それに引き換えこの病室ときたら、療養のために必要な最低限の設備といった趣で、清潔感はあるが殺風景。くつろげる空間とは程遠い。
 春宵館のことを思い出すと、ミトの顔がルイスの脳裏をよぎった。
 ソルティから助けてもらった彼とパートナーになって、勤めを果たすために一緒の個室に入って、でも彼が全然手を出してくれないから、自分から迫った。だが、ミトに近づいたら、なんだかめまいがして…………そこからの記憶は、もう、病院だ。
 当時のことを思い出しただけで、ルイスはなんだかまたぞわぞわしてきた。
 ミトのことが嫌いなわけではない。しかし、戻ったらミトと肌を重ねなければならない。それがルイスには何となく億劫で、こんな質素で殺風景で何の面白みもない病室であっても、今少し留まっていたい気持ちもあった。

 とはいえ、どうやらルイスの救急搬送の手配やら何やらをしてくれたのもミトらしい。大いに迷惑をかけたことだし、連絡の一つもしないでいたら、心配するだろう、きっと。
 ルイスは電子端末を手繰り寄せて、メールアプリを立ち上げた。新着メールが二通届いている。送り主は、どちらもミトからだった。

 新しい方の件名は「誤字訂正」だった。四十三行目の「キャット」は「カット」の間違いですと書かれてあるが、一通目をまだ確かめていないのでなんのことやらわからない。
 肝心の一通目の方は、命に別状はないのかどうかや、困ったことがないか、そして保健局がいかに閉鎖的かということなどについて、事細かに、たっぷり書き連ねてあった。
 あまりに長いので、ルイスは読むのを途中で諦めた。

 返事を出して、手っ取り早く内容を本人に確かめたところによると、とどのつまり彼の用事は、ルイスは面会謝絶になっているらしく、保健局の方からもまったく情報が入ってこないのだが、元気にしているかということだった。
 ともかくも無事でよかった、と。

 ミトは一応、まだ春宵館で待機しているらしい。
 というのも本来オメガは妊娠検査薬の結果が出るまでは館を出てはならない。怪我や病気で抜ける場合はその限りではないが、その場合は診断書の提出が必要なのだそうだ。だがミトの話によると、医療センターに問い合わせてもなしのつぶてで、困り果てているらしい。彼の公休もあと一週間ほどで終わってしまうが、手続きを済ませないことには退館できないのだという。

『救急搬送してるから申請は通ると思うんだけどね。悪いけど、担当のお医者さんに言って、診断書を出してもらうよう頼んでくれるかな?』
「担当の、お医者さん…………?」

 ルイスはゆっくりとベッドの上に目を向けた。プレートがあった。ルイス=レイクサイドという名の下に主治医の欄があり、そこにはヨルシェ=メルディンと、くっきりはっきり書かれていた。



◆3

「診断書が欲しい? まあ、書いてあげるのもやぶさかではないけどねえ。うーん……」

 夜に再びルイスの病室を訪れたヨルシェは、ルイスの話を聞いて、少し考えるようなそぶりを見せた。やがて彼は聴診器片手に、悪辣な笑みを浮かべた。

「では、こうしよう。君が婚姻届にサインしてくれたら、私も診断書を出そう」
「なんでだよ!」
「オトナの取引だ」

 彼は手早くルイスの心音や口中を確かめた。それからペンライトをルイスの目にさっとかざして、彼の青い瞳を見つめた。

「ヨルシェは仕事してないって、保健局に苦情出すからな」
「どうぞどうぞ」
「本当に言うからな。市民点下がっても知らないぞ」
「好きにしたまえ」

 一通りルイスの体を調べ終えると、ヨルシェは端末に何やら入力しはじめた。
 ルイスは聞こえよがしにため息をついた。てきぱきと診察する姿を目の当たりにして、どうやら本当に医者らしいぞと、感心した気持ちを返して欲しかった。

 それに何ならルイスよりもヨルシェの方が患者らしく見えた。顔色は先に居住区で会った時よりも悪いようだった。以前より痩せたかもしれない。ルイスは文句を言おうと思ったけれど、亡者じみたその姿が目に入ると、なんだか食ってかかるのも気の毒に思えてしまった。ルイスはヨルシェに悪態をつくかわりに、足をぶらぶらさせた。

「ねえ」
「ん?」
「ボクって、面会謝絶なの?」
「そうだよ。いつヒートが来るかわからないような危険生物に、誰も彼も近寄らせるわけにはいかないからね」
「いつ退院できるの?」
「私が退院を認めたら」
「ボクもう元気なんだけど」
「それは私がそばにいるからだ。君の特効薬たるこの私がね」

 のれんに腕押しだ。ルイスは頬を膨らませた。
 ――――実際、医療センターに来て以来、すっかり体調は落ち着いている。それどころか絶好調だった。あのハグは薬のようによく効いたし、ヨルシェがそばにいると妙に浮足立ってくる。だが、この飄々とした態度を崩さない男に、ルイスはどうしても反抗したかった。

「ミトに会わせてよ」
「それって誰だい?」
「ボクのアルファ様。あの黒いバラの花をくれた、超、超、超、超、超、カッコいい人!」
「ふーん」

 ヨルシェはルイスの電子カルテを書きながら、軽く聞き流した。

「あいにくだがね、認められないよ。これは君の主治医として言うのだけれど、会っても具合が悪くなるだけだ」
「なんでだよ」
「自覚がないのかい? 君、ロスパース病だよ。見たところステージ1だね。まあそう心配することはないが、もう少し症状が落ち着くまで、ほかのアルファとは接触しない方がいい」
「でもヘルミーナ先生は、ちょっと疲れが出ただけだって……ボクにはどこも異状ないって言ったよ」
「そりゃあ、君が救急搬送されてきてから、ずっと私がそばにいたからね」

 そう言うとヨルシェは端末をちょいちょいと操作して、もはや見飽きた画面をルイスに見せた。

「どうしても退院したいというのなら、これに声紋と指紋とカードキーをだね」
「ボク知ってるよ。それって職権濫用って言うんだろ」
「オトナの取引と言ってくれたまえ」

 にやにや笑う男から、ルイスはぷいっと顔をそむけた。それから、彼をちょっと困らせるつもりで、ルイスは言った。本当に、軽い気持ちで口にしたのだ。あとでそれが自分をひどく苦しめるとも知らずに。

「大体さあ、結婚したい結婚したいって言うくせにさ。アナタ、ボクのこと好きとも何とも言わないよね」
「だって君のことは別に好きでもなんでもないからね」

 ルイスは冷や水を浴びせかけられたような気がした。
 放心状態から立ち直ったあと、ルイスは言った。舌が乾いて回らなかったので、唾を飲み込む必要があった。

「じゃあ、どうして、ボクのこと、噛んだの?」
「特赦のためだよ。言ってなかったかい?」

 ヨルシェは端末を眺めながら、淡々とした調子で喋り続けた。

「オメガの配偶者はオメガの健康の保持増進のため、オメガ同様に保護される。つまり君と結婚すれば私は市民点にかかわらず下船措置を免れる。今後いかなる悪事を行ったとしても、最低限の安全が約束される。君が、婚姻届にサインしてくれさえすればね」

 指先が震えてきた。めまいもしてきた。それでもルイスはどうにか尋ねるべきことを口にした。

「それじゃ……だ……だれでもよかったの? ボクじゃなくても、だれでも……」
「ああ。独身のオメガなら、誰であろうと差し支えない」

 彼がさらりと言った言葉は、ことのほかルイスの心にダメージを与えた。

 ルイスはすでに、身に染みて思い知っていた。ヨルシェの一噛みをうなじに受けた体は、ほかのアルファを拒絶する。ルイスの体はソルティ=ドレッドを拒絶したし、ミト=マロリーも拒絶した。愛撫の手を快く受け入れられるのはヨルシェだけ。だが彼が求めているのはルイスではなく、オメガの伴侶という地位それ自体なのだ。彼と結婚したところで、ひとかけらの愛情も得られない。オメガの義務である子作りのために、命ある限りずっと、機械的に体を重ねるだけの相手。もはやヨルシェを受け入れるよりほかはないルイスにとって、それは死刑宣告にも等しかった。

「…………アナタはつがいなんて、だれでもいいのかもしれないけど。ボクは、だれでもよくないんだ」

 ヨルシェは顔を上げ、ルイスを目にしてぎょっとした。うら若い少年が浮かべるにはあまりにも沈痛な面持ちだった。顔立ちの美しく整っているだけに、その悲愴さは言語を絶した。自分の失言に気づいた男は、慌てて弁明を試みた。

「ああ……ええと……」
「出てって」

 ルイスは彼に背を向けた。彼の顔を見たくはなかったし、ましてや自分の泣き顔なんて絶対に見せたくなかった。扉の開く音がしないので、ルイスはもう一度、今度は先ほどより強い調子で言った。

「出てけよ」
「……あのね、君」
「出てけったら!」

 ルイスは叫んだ。ため息の音がしたが、そうしたいのはルイスの方だ。

「出てけって言ってるだろ」
「聞きたまえ」
「うるさい。出てけ」
「聞くんだ、ルイス。……誤解のないように言っておくが、君のことが嫌いなわけじゃない」
「アナタは、なんとも思ってない人でも抱きしめたりキスしたりできるんだろうね。でも、ボクは……ボクにとっては、それが、すべてなんだ。……人生の……全部だったんだ」

 胸いっぱいに満ちてしまった悲しい気持ちが、目からあふれた。一度流れ出すと、もう止まらなかった。

「ボクも、好きな人とが、よかった。ギルみたいに……本当に好きな人と、つがいになりたかった。ずっと……そばにいてくれる人は、好きな人がよかった、のに……」
「ああ、そうだね。その通りだ。でも、頼む。一年、いや、半年だけ待ってくれ。半年待ってくれたら、そうしたらあとは、何もかも君の望むようにしよう。約束する」

 ルイスは首を振った。振った拍子に、熱い涙が頬を伝い落ちた。

「じゃあ、一つ、いいことを、教えてあげよう。……これは本当に、君にとって、いいことだよ」

 泣きじゃくるルイスに、ヨルシェは言った。とりわけ優しい声だった。

「つがいとの絆を形成するのにもっとも重要な因子はね、肉体の、結びつきなんだよ。わかるかい? 心なんかじゃなくて、相手のフェロモンなり、肉体なんだ。つがいと情を交わせば交わすほど、ロスパース病の症状は重篤になる。反面、体を重ねていないカップルは、別れても立ち直る可能性が高いんだよ。たとえ、つがいと死に別れたとしてもね。
 オメガのフェロモンは、アルファの体液を摂取すればするほど最適化されてゆく。うなじを噛まれたオメガは、特定のアルファだけを強烈に惹きつけるようになる。無差別にフェロモンを放出するようなこともなくなる。アルファの方も、オメガから離れられなくなる。性交は致命的だ。でも、体液の交換を伴わない接触なら、比較的に安全なんだよ。
 通常アルファがオメガのうなじを噛むころには性行為を済ませていることがほとんどだから、ロスパース病は重症化しがちだが、君とはほんの軽いキスを、たった一度しただけだ。だから、君はきっと私がいなくなっても、新しいつがいと上手くやっていくことができるはずさ。その『黒薔薇の君』とでも、誰とでも……好きな人と」

 ヨルシェはぽんぽんと、ルイスの肩をたたいた。

「今は、私のフェロモンが効いてしまっているから、少しつらいかもしれないが、そのうち楽になる。……大丈夫だ」
「……でも、つがいを解消する方法なんて、ないんだろ」
「ないよ。死のほかにはね。だから君は、婚姻届にサインをしたら…………いや、どうしてもいやなら、それは、しなくたっていい。ともかく君は、私が早死にするよう祈っていたまえ。それで、一事が万事、解決するのだからね」

 ヨルシェは優しく微笑みかけたが、ルイスの機嫌を上向きにするには十分ではなかった。彼はなだめるのを諦めて、ルイスから離れた。

「また明日、様子を見に来るよ。……もし具合が悪くなったり、何か特別の用事があったりする時は、ベッドのそばのボタンを押してくれ。職員が対応するから」

 もう来ないでいい。お医者さんを変えてほしい。感情に任せて、そう言ってやれればとルイスは思った。だが、青いラボコートが回廊に出ていって、機械扉が閉まっても、とうとうその言葉はルイスの口からは飛び出さなかった。

 彼が病室を出ていくと、もう会いたくない気持ちより、明日になるまで彼に会えないのかという気持ちが、じわじわと膨らんでいった。――――でも、あいつは、だれでもよかったんだ。追放されずに済むようになるのなら、ボクじゃなくても、だれでも。

 やりようのない悲しみや悔しさを、ルイスは枕にぶつけた。
 これがヨルシェの頭と思って枕をひっつかみ、壁めがけて投げた。だが、途中で力がゆるんでしまい、壁へ到達する前に床に落ちた。何度やっても結果は同じだった。ヨルシェの顔を思い浮かべると、思ったように力が出ないのだ。そのせいか、ルイスの胸のモヤモヤは、ちっとも晴れなかった。


【NEXT】


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