「限りなくクロに近いブルー(Ⅲ-2)」

◆4

 病室の扉は誰かが入ってくる時のほかは、かたく閉ざされていた。その入ってくるものというのも、食事の配膳や部屋の清掃を行う雑用ロボットか、さもなくば、ルイスを腫れ物のように扱う主治医くらいだった。

 結局ヨルシェは、診断書を書いてはくれない。いわく、書かない方が黒薔薇の君とはうまくいくのではないか、とのことだった。

「私は接見会のことはよく知らないけれどね。退館手続きのために必要なら、提出してしまうとその彼とは会えなくなってしまうんじゃないのかい。それよりは退院という形にして、その黒薔薇のアルファ様に会いに行った方がいいと思うがね。どうしてもその彼に会いたいというなら。退院許可は出そう。ーーただし、君は間違いなくロスパース病だ。私以外のアルファと下手に接触すると、医療センターに逆戻りすることになるかもしれない。しかも今度は倒れるだけでは済まないかもしれないよ」

 そう言って脅すものだから、ルイスもなかなか踏ん切りがつかずにいた。

 病室の機械扉は外側からしか開かない。軟禁生活という意味では、空中楼閣とたいして変わらない。だが、農地へ行って仕事をさせてもらえるわけでもない。お喋り相手の友達もいない。遊び道具もない。ましてや何もせずにいると、ヨルシェのことを考えてしまって気が滅入る。

 ルイスはため息をついた。
 ミトにもらった黒薔薇は、色あせもせずにサイドテーブルの上にある。枯れない薔薇のそばには水の入ったボトルと、ちょっとした小物を入れておくための丸い小皿があった。たいてい小皿の中には、ヨルシェのよこした薬と、お守りがのっていた。あの黒い布切れを入れていたお守り。それは相変わらずルイスの胸をときめかせた。ーー以前ほどではないにせよ。

 居住区で会った黒外套の人。それはどうやらミトではないらしかった。心ときめかせるあの人に、来期の接見会で会えることに期待する。それもありだった。ヨルシェに噛まれていなかったら。

 首筋に流し込まれたアルファの唾液は、まるで烙印のようにルイスの四肢を支配している。その烙印の効力が続く限り、他のアルファと関係を築くのは難しいように思われた。ルイスの心がどうであれ、体がそれを拒むのだから。
 しかしそうかと言って、ヨルシェを亡き者にしてまで、ミトや、その黒い人と結ばれたいかというと、ルイスは首肯しかねた。触れられるのはヨルシェが心地いいのだ。健診の時にささっと軽く触れられるだけでは物足りないと思うくらいには、彼の手は心地よかった。

 ーーヨルシェのやつが、どうしても、ボクのことを好きで好きで仕方ないって言うんだったら。そうしたら、ボクだって、ちょっとくらい、考えてやってもよかったのに。

 だがヨルシェはルイスを愛してなどいない。恋愛感情なんてかけらもない。ルイスを道具としてしか見ていない。ひどい男だ。そんな男に噛まれてしまったのがルイスの運の尽きなのかもしれない。



◆5

 数日経っても、ルイスはまだ病室でうだうだしていた。
 冴えない病室だが、朝夕にヨルシェが訪ねて来ることを思うと離れがたく、また、居住区なり春宵館なりへ帰りたいと、そう言おうと思っていても、いざヨルシェを前にすると、言葉が出てこなくなってしまうのだ。

 腐ってもつがいなのだ。離れたくはない。少なくとも、ルイスの体の方は。
 だが、素直にそう言えるはずもない。自分を道具扱いするようなひどい男に愛を乞うなどできはしない。ルイスにできることといったら、病室を出て行こうとするヨルシェのコートの裾を、ほんのちょっと引っ張るくらいだった。ルイスがそういういたずらをすると、決まってヨルシェはこう言った。

「また来るよ。薬を飲んで、いい子にしていたらね」

 ぽんぽんとルイスの頭を軽くなでて、彼が病室を去っていったのが今朝のことだ。

 間の時間は退屈きわまりなく、ルイスは暇つぶしに苦心した。椅子やテーブルを動かして模様替えをしてみたり、ベッドを端から端へ動かしてみたり。枕を壁に叩きつけてみたり、布団とダンスを踊ったり、入院患者とは思えないほど活発に動き回った。時間と体力とを浪費して終わっただけと見えたが、ベッドを動かした時に、意外な収穫があった。

 金髪碧眼の美しい女性。ベッドの下で発見したロケットの中に、この女性の肖像は入っていた。
 女は人懐こい笑顔を浮かべていた。会ったことはないけれど、なんだかどこかで見たことがあるような、親しみのある顔だ。服が青いから、きっと保健局の職員なのだろうなとルイスは思った。

 楕円形のペンダントの頭には鎖を通せそうな輪がついていたが、病室内にチェーンらしきものは見当たらなかった。いずれにせよ落し物のようだった。ルイスはロケットをテーブルの脇へ置いて、またほかのおもちゃを探し始めた。

 さしたる発見もないままに時間が過ぎ去った。動き回ったせいか、ちょっと小腹もすいてきた。ルイスはベッドサイドのボタンに目をとめた。ヨルシェは言っていた。具合の悪い時はこれを押すように、と。

 万全のコンディションではなかったので、ルイスはためらいなくボタンを押した。三秒と経たずに、壁に備えつけられたスピーカーから、慌てたような女性の声がした。

「どうしましたか?」
「おなかがすいたんだけど」
 ちょっと間をおいて、
「ただいまご用意しております。今しばらくお待ちください」

 ルイスはベッドに腰かけた。テーブルの引き出しを開けてみると、電子端末が出てきた。

 注文したいものも、確認したいこともないが、暇つぶしにはちょうどいい。ルイスがなんの気なしに端末を構っていると、ふと、市民点のことを思い出した。

 オメガが追放されるなんてめったにないことだけれど、接見会のごたごたで、もしかすると減点があったかもしれない。ルイスは自身の所属する総務局のページから、市民点ランキングのリストを開いた。

 市民点の高いものから順に名前が表示されている。まじめなギルバートはさしてスクロールすることもなく見つかった。自分も、悪くない位置にあり、ルイスはほっと胸をなでおろした。オメガが大概表示されつくしたころに、アルファ、そしてベータの名前が並びだした。

 目を皿のようにしてリストを眺めていると、割り込みで画面上にメッセージが表示された。

「長時間、端末を使用しています。小休憩をとってください。
 ※60秒後、自動的に元のページに戻ります」

 そのメッセージには保健局のロゴが入っていた。こうなると、一分間は使えない仕組みだ。ルイスは仕方なく、電子端末を置いた。

 ぐるっと回りを見回すと、ベッドサイドのプレートが目に入った。患者名と主治医の名前。それを見て、ルイスはふと思った。――――ヨルシェのやつは、何位だろう。

 保健局のおせっかいなメッセージが消えた後、ルイスは保健局のランキングを開いてみた。
 見ず知らずの名前がずらずらと並んでいる。時々見知った名前を見つけて、存外に順位の高いのに感心しつつも、ルイスは目的の名前を探した。

「ええと。ヨルシェ、ヨルシェ……」

 ずいぶん画面をスクロールしてきたが、名前は見つからない。ひょっとして見落としたのかと思い、ルイスはより注意深くランキング画面を眺めた。

 そうしているうち、ルイスは気づいた。ランキングの順位が、しばらく同じだった。見れば市民点もまったく同じだ。どうやら同位がずっと続いているようだった。
 珍しいこともあるものだと思いながら、ずーっとスクロールして、最後の方にヨルシェの名前が出てきた。どうも最下位のようだった。

「うわ。ひっど」

 そう呟いたか、呟かないかのころだった。機械扉の開く音がした。



◆6

 湯気の立つ食器をのせたワゴンと一緒に入ってきたのは、ガスマスクを着けた青いラボコートの男だった。腰に手を当てて尊大に立つその態度、すらりと高い背格好。ネームプレートを見るまでもない。ヨルシェだ。
 浮き立つ心をおさえながら、ルイスは言った。

「何しに来たんだよ」
「主治医に向かって何しに来たはないだろう。……変わりはないかね」
「アナタが来るまでは絶好調だったよ」
「それは何より」

 サイドテーブルを一瞥し、薬がきちんと消費されているのを確かめると、ヨルシェはガスマスクを外して、軽く頭を振った。
 それから彼はベッドにワゴンを寄せた。コの字形になっているので、ベッドで半身を起こすとちょうどいい高さのテーブルになる。ルイスの食事の支度を整えると、彼はベッドの脇に椅子を広げて、腰を下ろした。

「早く食べてしまってくれ。私は忙しいんだ」
「だったら帰ればいいのに」
「帰るさ。ここまで来たついでに君のメディカルチェックを済ませてからね」

 そう言うとヨルシェは、サイドテーブルの方に目を向けた。
 白パンとサラダの前に、ルイスは温かいスープに手をつけた。好物は先に始末するタイプだ。カロを目前にして、後回しになどできない。滋養強壮効果の高い珍味で、滅多に口に入れる機会がないだけに、ルイスの期待もひとしおだった。薄切りにしたのを干した赤黒いそれは、噛めば噛むほどうまみが染み出てくる。少し堅いがジューシーなそれを嬉々として頬張るルイスを、ヨルシェは何とも言えない顔で見つめた。

「君、それ、好きなのかい」
「なんだよ。好きじゃ悪いっていうの」
「いや…………別に」

 ヨルシェは目を伏せ、大きくため息をついた。顔には疲労がにじんでいるようだった。

「そういえば、いつもの子は?」
「いつもの子? ……ああ。雑用係なら、調子が悪いようなのでメンテナンスに出しているよ。明日には代替え機が来るはずだ」

 そう言って彼はまた、サイドテーブルへ顔を向けた。何がそんなに気になるのかと、ルイスもそちらへ目を向けた。そこにあるものといったら、薔薇とお守りと落し物ーーーー。ルイスはあっと言って、ロケットを手に取った。

「ヨルシェ。これ」
「なんだい?」
「拾ったんだ。そこに落ちてた」
「そうかい。じゃあきっと前にこの部屋へ入院した人の忘れ物だね。預かっておくよ」

 ヨルシェは、ロケットペンダントを受け取った。そして中を開いて、肖像をじっと見つめた。

「前に入院してたのって、どんな人だったの?」
「どうしてそんなこと気にするんだい?」
「きれいな人だったから」
「…………見たのかい」
「だって、何なのかわからなかったし」

 ヨルシェは眉をひそめた。ルイスがスープを飲み干して再び顔を向けた時には、もう眉間のしわは消えていた。

「つがいかな」
「ああ、そうだね。写真もペンダントも高いから、よほど大切な人でないと、こうしたことはしないだろうね」

 ヨルシェはまた、写真を食い入るように眺めた。まるで思い出に浸るかのように、いとおしげに。ルイスのいぶかしげな視線に気づくと、彼は顔を背け、ラボコートのポケットにロケットを滑り込ませた。

「知り合い?」
「ああ。診療部の職員だった。――ヴィヴィアンだ。みんなヴィヴィと呼んでいた。でも今はもういない」
「異動したの?」
「いいや。船を降ろされたんだよ。六年前にね」

 ルイスはぎょっとした。方舟を降ろされるということは、追放されたということであり、すなわち彼女は死を迎えたということだ。ルイスが驚いて固まっていると、ヨルシェは失笑した。

「なんだい、その顔は。私が同僚を失っても動じないような冷血漢だとでも思っていたのかい?」
「…………思ってたよ」

 ルイスはレタスにフォークを突き刺した。

「通りすがりの人間と結婚したって構わないやつなんて、冷血漢じゃなかったら何だっていうのさ」
「…………確かにね。私が冷血であることは認めよう。でも、ヴィヴィは……そうじゃなかった。とても優しい女性だった」

 ヨルシェはまぶたを閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。

「あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。最近でも夢に見るくらいだ。
 ――――目を覚ますと、司令部の者がいた。武装した警備局の職員たちを引き連れて。忌々しい緑の奴らが、泣き喚くヴィヴィを無理やり引きずっていった。それを遠巻きに、肥え太った黒服の長官が見ていた。奴はにやにや笑いながらヴィヴィの追放を処理した。まるで見世物を楽しむかのように。
 ヴィヴィには夫がいたけれど、幸福な結婚ではなかった。彼女の夫は、自分の仕事に熱中して、妻の不調にも気づかないばかな男だった。体調不良から仕事の生産性が下がり、いよいよ市民権をはく奪されるその日まで、その男は、自分の仕事のことばかり考えていた……」

 ヨルシェはゆっくりと立ち上がった。

「冷血結構。私は、君と恋仲になるつもりは、さらさらない。君の持つ大いなる特権の、その恩恵に預かれさえすれば、それでいい」
「……ボクと結婚したら、追放されなくなるっていうやつ?」
「そう。特赦さえいただければ、それでいい。それさえあれば、悪党であれ、何であれ、オメガを蝕むロスパース病の特効薬として飼われ、つがいが生きている限り、追放を免れる」
「下船されないようにして、あなたは何をするつもり?」
「君は知る必要のないことさ」

 ルイスの食事が終わると、ヨルシェはいつもの健診を始めた。心音を確かめ、喉の奥を確かめ、瞳孔を確かめ、時々ルイスに質問をしては、端末に何やら書き込む。そうした作業を黙々とこなしていた彼が、ふと呟いた。

「今度のことは、少しだけ、申し訳なかったと思っている。まさか君がそこまで、結婚に夢を抱いていたとは、知らなかったものだから。……でも、今度ばかりのことだよ。ちょっと珍しい経験をしたと思って、次の機会を待ちたまえ」

 いつもの作業を終えると、それで用は済んだとばかり、ヨルシェは離れていこうとした。

 ルイスは青いラボコートに手を伸ばした。
 別に何か言いたいことがあるわけではない。ただ少し、気に食わないだけだ。医者と患者の、白々しいこの距離が。かつてはキスもしたというのに。しかも今は個室の中で、二人きりなのに。ーーうなじを噛んできたのはヨルシェのくせに、彼はあくまで主治医の態度を崩さない。それがなんとなくルイスには不愉快なのだった。
 ヨルシェはしばらくルイスの言葉を待ったが、やがて、やんわりとルイスの指を解いた。

「ちゃんと薬を飲んで、おとなしくしているんだよ。そうしたら、すぐに良くなるから」

 微笑みだけをルイスに与えて、主治医は機械扉の向こうに消えていった。



【NEXT】


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