「限りなくクロに近いブルー(Ⅲ-3)」

◆7

 翌朝、ヨルシェは病室には来なかった。入ってきたのは雑用ロボットだけだ。
 昼過ぎにワゴンを押して入ってきたのも、やはりそれだった。型こそ違えども、いつものように床をクリーニングし、ゴミ箱のゴミを片付け、バスルームの清掃をし、リネン類を交換して、そして戻ってゆくのだろう。だがロボットはその時いつもと違う挙動を取った。それはルイスに向かって機械的な音声でこう伝えた。

「ご面会の要請があります」
「だれから?」
「市民5NQWC6ZVAQ7Z様です」

 市民番号を聞いてもルイスはピンとこなかった。
 少なくともヨルシェでないのは確かだ。彼だったらわざわざ要請なんかしなくても、ずかずか入ってくるだろう。番号も聞いたことがあるような、ないような感じだ。でも、会いたいと言うからには、きっとルイスの知ってる人だろう。だからルイスはいいよと答えた。

 ロボットが出て行った後になって、ふとルイスは思った。自分は面会謝絶ではなかっただろうか? ヨルシェがいつの間にやら緩和したのだろうか?
 ともあれ数時間後には、面会希望者たる市民5NQWC6ZVAQ7Zが、ルイスの病室を訪れた。

「二十分以内でお願いいたします」
「はい」

 ガスマスクを装着した青いコートの職員に促されて、入ってきたのは黒ずくめ。長身痩躯の美男子ミト・マロリーだった。彼はルイスに微笑んだ。

「具合はどう?」
「ミト! どうして?」
「心配だったから。特例で、面会許可を取ったんだ。……思ったより元気そうで、安心したよ」

 彼は座ってもいいかと尋ねた。ルイスはもちろん頷いた。
 ミトは椅子を広げて、そこに行儀よく座った。

 彼の顔を見るのは数日ぶりだった。さして時間が空いたわけではないが、春宵館で自分から行為を迫ったうえに卒倒してしまったのはルイスだ。迷惑をかけたこともあって、少しだけ気まずかった。ミトの方も少し緊張した面持ちだった。気を使って何か話を振ろうとしているミトに先んじて、ルイスは口を開いた。

「あの……ごめんね」
「何が?」
「その……いろいろと」
「気にしないで。……君の事情は、わかってるから」

 訳知り顔でそう言うと、ミトは大きく息を吐き出して、さらに続けた。

「……保健局の悪魔。あいつが、君のうなじを噛んだってね。聞いたよ。だから接見会で君、様子が変だったんだね。でも、もう大丈夫だよ」
「大丈夫って、なにが?」
「ヨルシェ=メルディンは、今朝がた投獄されたからね」
「えっ!?」

 ルイスは思わず声をあげた。思いのほか大きな声が出たので、ミトもびっくりしていた。だが一番驚いているのはルイスだ。聞き間違いであることをわずかに期待して、彼はミトに確かめた。

「う……うそだよね?」
「本当だよ。今朝捕まった。空中楼閣の治安を乱し、オメガの君に危害を加えた大罪人は、今や檻の中だ。もともと不良市民だから、今期末にはきちんと追放されると思うよ」

 そう言うとミトは自分の電子端末を出して、ルイスに広報画面を見せた。

 記事の見出しは大々的にあおっていた。「保健局の悪魔、ついに投獄! 空中楼閣で最も可憐なるオメガのうなじを奪った咎で、かの悪魔もついにお縄を頂戴し……」云々。すでに市民点の凍結が行われ、セントラルの牢獄に収監されていると記してあった。その記事を一度読み、改めて隅々まで読み返しても、ルイスはそれが事実であると納得できなかった。

 だが実際、ヨルシェは朝から姿を見せない。
 彼は本当に捕まってしまったのだろうか。だから自分のところに来ないのだろうか。ルイスは電子端末をミトに返しながら、気落ちした声で言った。

「これを知らせに?」
「うん……まあ、それもあるんだけどね」

 ルイスが首をかしげると、ミトは照れ臭そうに頬を染めた。

「その……僕と、結婚してほしいんだ」

 ルイスは驚いた。あまりにも突然のことだった。
 接見会で薔薇をくれただけでなく、わざわざこうして見舞いにまで来てくれるくらいだ。嫌われてはいないだろうと思ってはいた。けれど、まさかそこまで好かれているとも思っていなかった。まして今は、ヨルシェ投獄の報も満足に飲み込めていないのだ。立て続けに降ってきた爆弾を処理しかねて、ルイスは大いにうろたえた。

「ボ……ボクと? 結婚?」
「そうだよ」
「どうして?」
「君のことが、好きだから、かな」

 ミトは美しい微笑をルイスに向けた。そのまなざしの奥には確かな熱意が垣間見え、心底からルイスを愛しているらしいことがうかがえた。どうも冗談を言っている顔ではなさそうである。これはむげにはできないなと思い、ルイスは動揺する心を落ち着けようと努力しつつ、ベッドの上で居住まいを正した。

「冗談じゃ、ないんだよね?」
「うん。ごめんね、唐突で。だけど僕は本気。公休が明けたら、あんまり会いに行けないかもしれないけど……それでもできるだけ時間を作って会いに行くし、きっと君を幸せにする」

 ルイスはいったん沈黙し、どう答えるべきか、考えた。しばらく考えてみたが、適切な言葉が見つからない。やがてミトがおそるおそるといった様子で尋ねた。

「僕のこと、嫌い……かな」
「……ううん」

 ルイスは首を振った。

 ミト=マロリーは素敵な人だ。十人のオメガに尋ねたら、きっと十人ともが好感を抱くだろう。優しくて、知的で、ハンサムで、若くして司令部へ配属されたエリート。ダーリンとしては理想的だ。そういう彼が、真剣に自分を愛して、結婚まで申し込んでくれる。これ以上の幸せは、きっとこの世にないだろう。

 嬉しくないと言ったら嘘になる。彼と結婚したら、ヨルシェの顔はもう見なくて済む。万々歳だ。なのにルイスの胸はチクチクと痛むのだ。
 自分にプロポーズをしてくれた目の前の美男子のことは、断じて嫌いではない。しかしルイスは、収監されたというヨルシェのことが、今は気がかりでならなかった。

「気持ちはうれしいんだ。本当だよ。でも、もう少し、考えさせて。その……いきなりで、ちょっとびっくりしちゃったし」
「そうだね。その通りだ」

 ミトはちらりとテーブルを見た。気落ちした様子だったが、そこに自分の黒い薔薇があるのを確かめると、少し安堵したようだった。




◆8

 それきりミトは結婚の話はせずに、外の世界の話をーーたいていは春宵館の話をした。
 ぎくしゃくした雰囲気が薄れてくるまでお喋りをしたけれど、ルイスがついつい考えてしまうのはヨルシェのことだった。会話が途絶えると、ルイスはふと呟いた。

「牢獄って、どういうところなんだろう」

 ミトは不思議そうな顔をしたが、一応は返答をした。

「狭いよ。最近は多少きれいになったけど、昔はひどかったらしい。まあ、もともと、不良市民を収監するところだからね」
「春宵館より狭い?」
「そりゃあ、春宵館に比べたらどの個室も狭いよ。ヨルシェ=メルディンくらいの重犯罪者はたぶん独房だろうけど、あの広さなら横になるだけでやっとだと思うよ。ボディチェックの上で放り込まれるし、看守は常に複数人で見張りに当たってる。そもそも脱獄が可能なように設計されていない。あの中でできることと言ったら、追放されるまでの間、自分の罪を悔いるくらいだよ」

 となるとヨルシェは脱獄などできないのだ。あの男もついに年貢の納め時がきたのである。
 かつてはルイスもそれを望んだ。だが、いざヨルシェに会えなくなる日が現実になると思うと、ルイスの気分は沈んでいった。

「もしかして君、犯罪者に同情してるわけじゃないよね?」

 ルイスは答えなかった。うつむいてしまったルイスを、ミトは難しい顔でじっと見つめた。

「あの男が何をしでかしたか、君は知ってる?」
「……ボクのうなじを、噛んだよ」
「それだけじゃない」

 ミトは大きくため息をついた。

「あの男は、オメガの居住区に不法侵入を繰り返し、幾度となく善良なる市民の安全をおびやかしてきた。それだけでも十分由々しき事態だけど、被害を受けたのはオメガだけじゃないんだ」
「ボクの他にも誰か噛まれたの?」
「そういうわけじゃないよ。でも、警備部の警報装置を破壊したとか、武器を破壊したとか そういう被害報告も上がってる。入院患者に対する脅迫や、虐待まがいの行為もあったって聞いてる。他にも悪事は数知れず。追放の閾値はとうに超えてるはずだ。あんな反逆者が今日という今日まで追放されずにいたことが不思議なくらいだよ。
 和を乱す異分子は、厳格に排除されなければならない。例外を認めたら、体制が崩れてしまう。そうなったら、アヴァロンはおしまいだ。無秩序と暴力が支配者となり、安全で、安心で、合理的な社会は破綻する。
 ……それに、第二居住区の職員から聞いたんだけど、もともと君はヨルシェ=メルディンに暴行を加えられただけの、被害者であって、君自身は、彼と別れたかったんだよね? だから君は、春宵館に来たんだろう?」

 ルイスは返答に窮した。
 ミトの言う通り、はじめはそうだった。でも今は、追放されて欲しくないと思ってしまう自分がいる。

 ヨルシェの追放がいかに公益となるか。ミトは言葉を尽くして丁寧に説明した。しかし今のルイスには、そうした話はまるで別世界の出来事のように聞こえた。

 実際、別世界のことだった。善良なるアヴァロン市民のことなんて、ルイスにとってはどうでもいい。空中楼閣の中だけがルイスの世界だ。仲間のいる居住区と、気分転換のために用意されたささやかな緑地。そして春宵館のような、華やかな特別区。それがルイスの世界の全てだ。これまでも、そして、これからも。命ある限り、ずっと。

 その中での幸せについて、ルイスは考えた。誰と添い遂げるべきか。ミトのこと。ヨルシェのこと。婚姻届のこと。……自分にできること。そして自分の夢のこと。いろいろなことを秤にかけて、精いっぱい考えた。

「結婚したら、ほかの人とは子供作っちゃだめなんだよね」
「そうだよ」
「元気だったら、絶対に、作らなきゃダメなんだよね」
「もちろん」
「………………」

 ルイスは首の機械首輪に触れた。

「ボク、知ってるよ。オメガって、長く生きられないんだ」
「どこか悪いの?」

 ミトは柳眉を寄せ、心配そうに尋ねた。ルイスはあわてて首を振った。

「ううん。今は元気だよ。とっても。……だけど、子どもいっぱい産んだら、長く生きられないんだ。でもいっぱい産まなきゃ、みんな死んじゃうんだ。ボク、アカデミーの成績はそんなによくなかったけど、それだけは、ちゃんと覚えてる」
「ルイス……」

 うつむいてしまったルイスの顔を、ミトは覗き込んだ。ルイスはぱっと顔をあげて、つとめて明るい声で言った。

「だからボク、思ったんだ。どうせ長く生きられないんだったら、ボクは、本当に好きな人のそばにいようって」

 ルイスはベッドサイドのプレートを指差した。そこには主治医の欄にヨルシェ=メルディンと書かれている。

「見て。ボクのお医者さん。ヨルシェ=メルディンって言うんだ。あの人は、いっぱい悪いことしたかもしれない。でも、ヨルシェがそばにいてくれたおかげで、ボクは元気になれた。他の人じゃだめなんだ。ボクのこと治せるの、ヨルシェだけなんだ」
「……まさか君、あんな犯罪者のことが好きだなんて、言わないよね?」
「それは……まだ、よくわからないけど。でも、死んでほしくはないんだ。……だから、ボク、恩赦ってやつを使おうと思うんだ。そうしたらヨルシェ、牢獄から出てこれるよね?」

 ルイスはミトに微笑んだ。ミトは頭を抱え、大きくため息をついた。

「君はどうかしているよ。犯罪者に、いいように利用されているだけだ」
「そうかもしれない。だけど、センパイ言ってたよ。アルファに噛まれたらおかしくなっちゃうって。そういうものなんだ、きっと」
「…………悪夢だ」

 ミトはゆっくりと立ち上がった。顔色は少し青ざめていた。彼はふらふらと歩いて、机の上に視線を落とした。そこにはルイスのカードキーが投げ出してあった。

「ミト?」

 青年は何を思ったか、それを手に取って、自身の電子端末にかざした。ほどなくして、ピッと認証音がした。

「え? な、なにしてるの?」

 ミトは何も答えず、ルイスの手首をつかまえた。その顔つきを目にしてルイスはぞっとした。鬼気迫るほど真剣な顔つき。手首をつかむ指の力は、別段強くはなかったけれど、まるで枷をかけられたかのようだった。ルイスの動揺に呼応するかのように心臓の鼓動が乱れだした。切迫してくる呼吸にあえぎながら、ルイスは言った。

「まって……ボク、あの、ロ、ロスパース病なんだ。だから、ヨルシェでなきゃ……」
「……知ってるよ」

 ミトは破顔した。それは、ともすれば風に吹かれて散ってしまいそうな、儚い微笑だった。

「本当は、君に薔薇を渡した時から、ずっと知ってる。君に、つがいがいるってこと。……君が僕のこと、そんなに好きじゃないってことも、わかってる。でも、それでも、僕は……」

 苦しげにそう吐露した青年の目のきわに、ルイスはキラリと光るものを見た。ミトは天井をあおぎ、またルイスを見据えた。潤みを帯びてはいたけれど、もうその瞳に涙は見えなかった。

「どのみち僕は、もう、後には引けないんだ」

 ミトはルイスの手を、自身の端末に近づけた。その画面には婚姻届が表示されていた。彼はルイスに、婚姻届の本人認証をさせようとしているのだ。ルイスは必死に手を引いた。しかし腕力はアルファの方に分があった。ルイスはこぶしをにぎったが、その手をミトは包みこみ、しなやかな細い指でこじ開けた。ほどなくして、無情な認証音が響いた。
 ――残る認証は声紋だけだ。

「ルイス。お願い。名前を言って」

 ルイスは首を振り、口を閉ざした。

「君はどうかしているんだよ、ルイス。犯罪者にいいように利用されているだけ。洗脳されているんだよ」
「されてない……」
「されてるよ。そうでもないと、加害者に同情なんてしない。犯罪者に同情の余地はない。追放される方が世のため人のためだ。それにね、残念だけど、もう手遅れだ。結婚は二人でなくちゃできない。お互いの声紋と、指紋と、カードキーがないといけない。でも獄中では、端末に触れることすらできない。たとえ君が恩赦でもってヨルシェ=メルディンを救おうと思っていても、君の権力は、もう彼には届かない。…………だから、もう、諦めなよ」

 それがとどめだった。ルイスの青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 ーーこんなことなら、もっと早くに、ヨルシェのに、サインしておけばよかった。だが、そう思っても後の祭りだ。もはや二度と会うことはかなわないのだろうか。胸の痛みが急速に強まっていった。嗚咽の声が病室に響き渡る。スピーカーから、慌てたような女性の声がした。

「レイクサイドさん。どうかしましたか? レイクサイドさん……何かありましたか? バイタルサインによくない兆候が出ています。……まもなく検査のためにスタッフが参ります」
「…………首輪か」

 ミトは苦々しげに呟いて、ルイスから手を離した。

 重苦しい数分間の沈黙のあと、機械扉が開いて、職員が入ってきた。ガスマスクを装着した、青いラボコートの職員が数名。その中には、燃えるような赤髪の女も混じっていた。彼女は病室内をざっと確かめ、膝を抱えて肩を震わせるルイスを医師に託した。そしてミトの方に向き直って、にったりと、魔女と呼ばれるにふさわしい笑みを向けた。



◆9

「ご面会の方ですね?」

 媚びるような甘い声でそう言うと、ヘルミーナはラボコートのポケットから小さな瓶を取り出した。中には怪しげな玉虫色の液体が入っていた。ヘルミーナが何度かそれを振ると、液体は毒々しい紫色に変色した。

「司令部の方には、院内に出入りする前に、こちらを飲んでいただく決まりになっております。院内に雑菌を持ち込まないためです」
「そういったルールは、聞いたことがありませんが」
「現場の決定です」
「飲めません」
「どうあっても?」
「ええ」
「――――では、消毒の用意を」

 出口付近を抑えていた青いラボコートの職員が、ヘルミーナの命令に応じて、さっと銃を構えた。銃口は黒外套の美男子に向いている。

「……何の真似ですか?」
「何の真似とはこちらのセリフだよ、坊や。私のかわいい実験動物を返せ。……ほら、諸君らが『悪魔』と呼ぶところの、我が保健局の優秀な頭脳だよ……」

 言いながら彼女自身も、ラボコートの下のホルスターから銃を抜き、クルクルと回した。

「ヨルシェ=メルディンのことですか。それなら、僕に言うのはお門違いです。彼の拘留は彼自身の悪徳の結果によるものであって、自業自得。彼の罪業からして追放は適切な措置です」
「貴様らはいつもそうだな。何かといえば追放追放追放追放追放追放追放追放。血の通わぬ冷血動物どもが。助かる患者をわざわざ殺し、助からぬ患者の命を救ってみせよという。まったく馬鹿げた話だ」

 ヘルミーナは大きく肩をすくめ、ちらりとルイスに目を向けた。ルイスは膝を抱えてベッドの隅に縮こまり、医師の問診に訥々と答えていた。涙ぐむ彼に、職員の一人が青いラボコートを差し出した。着古したようなその青外套からは、ケミカルな薬品のにおいがした。それを抱きしめていると、ルイスの心は徐々に安らいでいった。

「聞け、若造。あれが一匹いるだけで救える命が千はあるのだ。そちらにとっても不利益はなかろう。ーーそれに何より、人命にかかわる。事態は一刻を争うのだ」
「ルイスは差し迫って命の危険がないように見えますが」
「違う。命が危ないのはヨルシェの方だ」
「待って。それ、どういうこと?」

 まだ声は湿っていたが、ヨルシェと聞いて、ルイスは口を挟まずにはいられなかった。
 ヘルミーナはちょっとためらったものの、きっぱりと答えた。

「ヨルシェは、ロスパース病なんですよ。それも、末期のね」

 驚愕し、絶句したルイスをよそに、ヘルミーナは話を続けた。

「ヨルシェの心臓はかなり弱っている状態だ。薬が切れたら、自力で立ち上がることすらかなわない。牢獄の中ではおそらく一週間と持たないだろう」
「…………嘘でしょう?」
「いいえ、オメガ様。ヨルシェはロスパース病です。疑う余地なく」
「でも、ヨルシェ、ボクといっぱい喋ってたよ。ハグだってした。……なのに、どうして……」

 ルイスが深刻な顔でそう言うと、ヘルミーナは首をかしげた。

「ヨルシェは既婚者ですよ。すでに死別して、今は独身ですがね。亡き妻の名はヴィヴィアン=レイクサイド。君のお姉さんになるのかな。かわいいオメガの女の子だった」
「うそ…………うそだ」
「嘘じゃない。ヴィヴィが追放されたのは、残念ながら本当だ。……嫁がいなくなって以来塞ぎこんで、まさかと思ったらロスパース病だ。体は弱ってゆくのに、どんな処置も、どんな薬も、気休めにしかならない」

 ヘルミーナはため息をつき、そしてまたミトを睨んだ。

「だが、それでも、みすみす失うには惜しい人間だ。あれを失えば、私の研究効率が五十パーセントダウンする。我が『スペシャルブレンド』の副作用を調べるための貴重な生体サンプルでもある。そして何より、治療を施すべき病人だ。……どうにか当局にお返しくださるよう、貴殿の上官にお口添えをしていただきたいのですがね?」
「無理です。上の決定を僕の一存で覆すことはできません」
「そうですか。では、覆させましょう」

 ミトに突きつける銃口の角度はそのままに、ヘルミーナは自身の襟の内に向かって呟いた。

「コードE。オメガ病棟38号室」

 その言葉は、壁のスピーカーからも響いた。
 それから数分と経たずに職員が駆けつけた。武装した青服の職員が、ぞろぞろと病室に押し寄せた。彼らはミトを羽交い締めにし、あれよあれよという間に椅子に縛り付けてしまった。
 ヘルミーナはミトのネームプレートをひょいと取り上げ、騒ぐミトをよそに端末を操作して、司令部に通信をつないだ。そして保健局の魔女は言い放った。

「こちら保健局、こちら保健局。司令部長官に次ぐ。司令部管制室B級職員ミト=マロリーは預かった。返してほしくば十二時間以内に当局職員ヨルシェ=メルディンを解放し、中央医療センターに返還せよ。マロリー君は現時点では五体満足だが、貴君らの対応次第では、五体不満足薬物依存ならびに後遺症の残りうる処置を行う可能性があると警告しておく。柔軟かつ誠意ある対応をお勧めする。なお、この要求に対し誠実な返答をいただけない場合、我々保健局は今後一切、司令部職員に対する医療行為を放棄することを重ねて申し上げる」

 眉ひとつ動かさず、冷淡きわまる声色で一方的にそう伝えると、ヘルミーナは通信を切った。その後、燃えるような赤髪の魔女は、人質にさるぐつわを噛ませて、隣の病室に隔離しておくよう指図した。

「お騒がせして失礼しました。ゆっくり休んでください」

 微笑んで、病室を出て行こうとするヘルミーナを、ルイスはとっさに呼び止めた。

「ちょっとまって」
「なにか?」
「あの……さっきのこと、詳しく聞かせてほしいんだ」
「さっきのこととは?」
「その……ヨルシェに奥さんがいたって話」
「ヴィヴィアンのことですか? それは構いませんが、今は……」

 ヘルミーナは何か言いかけたが、ルイスの深刻な顔つきを見て、口に出す言葉を変えた。

「……いいでしょう」

 彼女は病室を見回して、ルイスのベッドの端に腰を落ち着けた。



【NEXT】


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